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チャプター1 レルグ・コールヴィッツのなやみ

 十日あまり経った日の夕刻、教官室のある南校舎。

 一日の仕事を終え、玄関を出たエルシズは、家路につこうと校舎に背を向けた。


「エルシズくん」

 背後から声がして、誰かが小走りに駆け寄ってきた。振り返ると、見慣れた顔が息を整えている。

 片眼鏡をかけた、二十代も半ばを過ぎた美しい女性だ。まとった雰囲気はゆるやかだが、その眼には強い光を宿していて、芯の強さを感じさせる。

 彼女もエルシズと同じく、この魔法学院の教官であることを示す外衣(ローブ)を着用している。ゆったりとしたその外衣の上からでも、スラリとしたスタイルの良さがうかがわれた。


「フィアリス先輩」

 エルシズが呼びかけると、彼女――フィアリス・アーストライトは何かに気づいたように、ふふっと笑った。

「お互いに、まだ慣れないわね。エルシズ教官って呼ばなければいけないのに」

「先輩とも十年の付き合いですからね。オレたちは、もうあきらめました」

 そう言って、エルシズは肩をすくめた。二人ともこの学院の卒業生で、フィアリスはエルシズの二年先輩にあたる。


「ところで先輩、なにか用ですか?」

 並んで歩き出したエルシズが尋ねる。フィアリスは、ふわっとレイヤーを入れた、その栗色の長い髪を耳にかけながら口を開いた。


「うちのクラスのジュノ・エスカーズのことなんだけど」

 エルシズが一瞬、ピクリと反応したことを確認して、フィアリスは言葉を続けた。

「最近、急に明るくなって、クラスメートともよく関わるようになったのよね。もともとが華のある子だから、今までがウソみたいに、すっかりクラスの中心になってる。勉強の方も、妙にやる気になっていて他の教官方の話もちゃんと聞くようになったし、めきめきと魔術の腕を上げているわ」

 そこで彼女は、不意に足を止めた。エルシズも、つられて立ち止まる。


 彼女はエルシズの眼をじっと見ると、問いかけた。

「あの人が、なにかやったのね?」


 ……相変わらず、先輩は鋭いな。

 エルシズは心の中で舌を巻いたが、口に出しては何も言わなかった。

 しかし、フィアリスももう十年の付き合いだ。エルシズが何も答えないときは、図星だからであることをよくわかっている。


「やっぱり。ま、いいけどね。彼が明るく、やる気になってくれたのは、本人にとっても周りにとってもいいことづくめだし」

「そいつはよかった」

 エルシズはそう返事をしたが、フィアリスは、なぜだかいたずらそうに笑った。


「でも、これからあなたもご苦労様ね」

「えっ、なんでですか」

「あの子、もともとモテるけど、最近は角が取れて笑顔を見せるようになったもんだから、ますます女の子たちにキャーキャー言われて、もう大変よ。あなたの担当の体育の時間なんて、観客が増えてうるさいんじゃないかしら」

 そう言われて、エルシズは心の底から嫌そうな顔をした。

「……そいつはイヤだな」

 その表情を見たフィアリスは、あははと楽しそうに笑った。昔からこの人は、エルシズたち後輩をからかうのが好きだった――。


「あなたもありがとね。おかげで、一人の少年の未来が救われたわ」

「いや、オレはなにもしてませんよ」

「でも、あの人に話をしてくれたんでしょう?」

 そこで彼女は、あらためてエルシズの眼をじっと見た。夜が近づいて少し吹き出してきた風に、腰まであるその髪がなびく。


「あの人に伝えてくれる?そんな部屋にいつまでも籠ってないで、早く出てきなさいって」

 言いつつ、フィアリスは北校舎三階の奥の方に目をやった。校舎の陰になって、ここからその部屋は見えない。


 エルシズは、うなずくしかなかった。

「……はい。わかりました」

 お願いね、エルシズくん。そう言い残すと、彼女はエルシズと分かれて足早に歩み去った。


 一人残されたエルシズは、大きなため息をついた。それは、単に話を伝えるだけで終わりではなく、なんとかして「あの人」を部屋から出せ、出てこいという先輩命令であったから。

 彼も「あの人」も、それに応えたいのはやまやまだ。

 だが、その方法は、もう二年間も見つけられていないのだった。


◇◇◇


 同時刻。


 約束の遺失魔術を教えてもらうため、ジュノは進路指導室を訪れていた。

 グール退治の後も一度、命じられて旧校舎でゾンビやスケルトンの掃討にあたった彼は、その報酬として、今後、週に二回のペースでクローに魔術を教わる予定になっている。


 ガラガラッと引き戸を開けて部屋に入る。今日も床に散らばるガラクタの山を慎重に避けつつ歩くが、ジュノは近々、この部屋を勝手に片付けてやろうと心に決めている。踏みつぶさないよう気をつけるのもだんだん面倒になってきたし、元来きれい好きな彼は、実のところこの惨状が許せなかったのだ。おそらくクローは嫌がるだろうが。

 奥へと進んだジュノを、いつものように深々と椅子に埋もれたクローの背中が出迎えた。その前の、机の上に置かれた大きな水晶球に、ジュノは眼を止めた。


「クロー先生、これが『遠見の水晶球』ですか?」

 肩越しに覗き込むと、南校舎の前を歩く二人の人影が映っている。

「あ、フィアリス先生とエルシズ先生だ」

 二人が立ち止まると、水晶球に映し出された人影も立ち止まる。グール退治をしたときに、クローがジュノに指示を送ることができたのは、この水晶球の力によるものだ。これもまた古代魔術王国時代の遺物で、声までは聞こえないが、千里の距離を越えてその先を映し出すことができる。


「あの二人、けっこうお似合いですよね。ねえクロー先生、そう思いませんか?」

「……ええ、そうかもしれませんね」

 ジュノは深い意図なく普段思っていたことをそのままを口にし、クローもそう返事はしたが、敏感な者なら、その声に複雑な感情がこもっているのを感じとったかもしれない。だが、ジュノは天才にありがちなことに、自分のことも含めて人間関係にあまり頓着しないたちだった。人生経験も不足しているから、大人の、それも男女の関係の機微などわかるはずもなかった。


「それより、今日の講義を始めますよ。まずは、この魔導書を読んでみてください」

 話を打ち切って、クローは書架から一冊の分厚い書物を取り出し、ジュノに手渡した。


 クローが教え、ジュノが学んでいるのは、「純語魔術」である。

 この世界で「魔法」といえば、「純語魔術」「精贈魔法(エレメンタル・ギフト)」「神恵魔法(ホーリー・ブレス)」の三つを指すことが多い。他にもドラゴンが使う魔法や、闇呪魔法(ダーク・ソウル)――邪悪な力を持った闇の魔法もあるのだが、一般社会ではほとんどお目にかかることはないので、大別すれば、先の三つの系統となる。


 はるか昔、人々がまだ強大な魔力を持っていた時代のこと。魔法は、「純語魔術」ただ一つであった。

 人々の内なる魔力を発揮するための、ただ一つの鍵である「純粋なる言葉」。それを駆使し、古代の魔術師たちは、精霊を、そして神々すらをも支配していた。海を割り、大地を裂き、精霊や神の世界とも自由に行き来する、そんな力を魔術師たちが持っていた時代があったのだ。


 ところが、あまりにも強大になりすぎたその力は、世界の理を乱し、徐々にひずみを強めていった。そして、魔術師たちにほしいままに使役されていた、精霊や神々の怒りが頂点に達したときのこと。

 日の沈むことはないと思われていた強大な魔術王国は、一晩にして瓦解した。

 精霊の、神々の怒りは大地震を引き起こし、大津波を呼んで、宇宙からは無数の遊星が降り注いで地表を撃った。さしもの魔術師たちもその一部しか食い止めることはできず、繁栄を誇った魔術王国は、ずたずたに引き裂かれた大地に吸い込まれ、あるいは海の底に沈んで、生き残った人々はごくわずかな数だったと言われている。


 魔術王国の滅亡から数千年の時が過ぎ、この世界はまたあまたの人々で満ちてきたが、魔術の力は失われたそのままだ。「純粋なる言葉」も大部分は忘れ去られ、現代の魔術師たちが使う魔術は、往古に比べてその種類も威力もごく限られたものになっている。

 また、かつては「純粋なる言葉」により精霊や神々を支配、使役して使われていた精贈魔法や神恵魔法。これらも今では、敬虔さを取り戻した人々に対する恩寵として、精霊や神々が力を貸して魔力を発揮させ、使われる魔法に変っていた。


 今日、ジュノが教えてもらう約束になっているのは、魔術王国が滅んだためにいつしか忘れ去られた魔術、すなわち遺失魔術の一つである。


 現在のクローの肩書は「進路指導担当教官」だが、もともと彼は、遺失魔術の研究を専門にしていた。遺失魔術の研究とは、「宝探し」に近い。失われたそれを発見するためには、まず、それについて書かれた魔導書や巻物(スクロール)の類を発見する必要があるからだ。

 そのため、かつてのクローは学院で教鞭を執る傍ら、大陸各地に残る古代魔術王国時代の遺跡を巡って、魔導書を始めとする遺物の探索にあたっていた。彼が愛用している「遠見の水晶球」や、ジュノが今、読んでいる魔導書もそうして彼が見つけ、学院に寄贈した物の一つであった。


◇◇◇


「クロー先生」

 読んでいた魔導書から顔を上げたジュノが、師に呼びかけた。

「質問ですか?」

 自分は自分で書物をめくっていた、その手を止めて尋ねたクローだったが、ジュノはかぶりを振った。


「あ、いや、この魔導書の内容はもうだいたい理解できたので、大丈夫です。そんなことより、ちょっと相談したいことがあるんですが……」

 これだから、天才っていうのは……。

貴重な遺失魔術を「そんなこと」呼ばわりするジュノに、内心で恐れ入ったクローだったが、口では「ええ、どうぞ」と答えた。


「オレの親友のレルグ・コールヴィッツのことなんですが……」

 ジュノはそう話し出したが、とたんに「ちょっとちょっと!」と遮られてしまった。

「親友って、あなた、つい最近『友達は一人もいませんし、いりません』なんて言ってませんでしたか!?」

「あ、ええ、そうなんですけど。でも、こないだソイツと話をしてみたら、すごくいいヤツだったんです。それ以来、よくよく見てたら精贈魔法の才能もありそうだし、オレと並んでも恥ずかしくない優秀なヤツなんで、オレはもう、親友だって思っています」

「えー……まあ、あなたがそれでいいなら、いいんですけど……」


 あっけらかんと言ったジュノに、クローは呆れるというより心配になった。この子は天才であるがゆえに、人と人との距離の取り方が常人と少しズレているのかもしれない。

 小さなため息をつくと、クローは言葉を続けた。

「それで、そのコールヴィッツくんがどうしたんですか?」

「はい。実はアイツ、このところ何かに悩んでいるのかため息が多いんです。『悩みなら聞くぜ』って言ってみたんですが、『きみにはわからん』って言われちゃって」

「ええ」

「しつこく聞くわけにもいかないですが、親友としてはやっぱり心配なんです。そこで、クロー先生、アイツの話を聞いてやってくれないですか?」

 そう言ってジュノは、クローが断るとはまったく思っていない眼で彼を見つめた。


「……ここは進路指導室であって、お悩み相談室ではないんですが」

 どうせ結末は変わらないとわかってはいるのだが、一応、抗議をしてみる。

 案の定、ジュノはわざとらしく大きなため息をついた。

「えー……クロー先生ともあろう人が、そんなこと言います?アイツみたいに優秀なヤツが、このままやる気をなくしちゃったら、学院の損失ですよ。お悩み相談だって、進路指導の一環なんじゃないですか?オレのときだってそうだったでしょ」

「う……」

「それに、このままだと、オレの方も心配で心配でやる気なくなっちゃうんですけど。先生は、二人の若者の未来を潰しちゃうんですか?」

 そう脅しをかけつつ、ジュノはさっと手を伸ばした。机の上の、遠見の水晶球を手に取る。


 あ――!と、クローが思った次の瞬間。

重量制御(ウェイトコントロール)」と一言、「純粋なる言葉」を唱えた彼は、水晶球の乗った手のひらを逆さに向けた。


 ああっ――!!

 息を飲んだクローだったが。

 ガシャンと砕け散るべき水晶球は、まるで羽毛かなにかのように音もなく落ちて、コロンと床に転がっただけだった。


 ついさっき軽く魔導書を目にしたばかりの遺失魔術を、さらに驚くことには無詠唱で完璧に制御してみせたジュノは、ニヤニヤと笑った。

「あーあ、こんなに優秀な学生がやる気なくしちゃったら……もったいない、ですよね?」と、そう言って。


 学生のころから、温和で、めったに怒らないことで知られるクローである。平民の出身ながら育ちもいいので、汚い言葉はけっして使わない彼なのだが。

 コイツ、ムカつくな……。

 彼の才能に舌を巻きつつも、このときばかりは本気で腹を立てたのであった。


◇◇◇


 翌日の夕刻。


「一年一組のレルグ・コールヴィッツです。お呼びと聞いて伺いました」

 進路指導室のドアをコンコンとノックしつつ、レルグは部屋の中に呼びかけた。


 入れるなら、どうぞ――。

 中から聞こえたその声に、「変なこと言うなあ」と思いつつも。レルグはドアに手をかけるとガラガラッと開けて、中に入った。


「ああ、あなたも入れましたね。奥にどうぞ」

 不思議な言葉で促されて、部屋中に散らばる雑多な物を避けつつ奥に進んだ彼を、いつものように椅子に深く埋もれたクローが出迎えた。


「ぼくは進路指導担当教官のクローディス・サイクローです。クローと呼んでください」

 そう微笑んだ青年の美貌と、その全身から溢れ出る強大な魔力に気圧されつつ、レルグはあらためて己の名を名乗った。勧められたスツールに腰を下ろす。

「ジュノ・エスカーズから、ご用があると伺ったんですが」

 そう尋ねた彼に、クローは用件ではなく別のことを尋ね返した。


「ところで、あなたと、そのジュノくんは親友なんですか?」

「えっ!?あっ、どうなんでしょう……」

 突然の質問に、レルグは困惑を顔に浮かべた。言葉を選びながら、少しずつ答える。

「確かに、向こうはそう言ってくれるんですけど。私が初めて彼に話しかけたのは、つい一週間ほど前のことなんですよ。それで親友もなにもないっていうか……確かにこのところ、一緒にいることは多いんですけど」

「イヤなんですか?」

「あっ、もちろんイヤということはないです。でも、まだお互いよく知らないのに、急に距離を詰められた気がして、正直、戸惑っています」

 レルグは落ち着かないそぶりで、耳の脇の、カラフルな紐で結んだその髪を引っ張った。


 やっぱり。

 ジュノの、他人との距離の取り方が少しおかしいのではないかと感じていたクローは、ますますその思いを強くした。

「今日来てもらったのは、そのジュノくんが、最近あなたのため息が多いことを心配したからなんですよ。なにか悩みがあるんじゃないか、話を聞いてやってほしいと頼まれたのです。これも進路指導の一環として、もしよかったら、ぼくに話してみませんか?」


 温かく微笑んだクローに、少しためらいを見せたものの、レルグは思い切って口を開いた。

先ほど初めて会ったばかりなのにも関わらず、彼は、なぜだかクローの顔に懐かしさを覚えていた。   

 この人になら、話を聞いてもらいたいと感じている自分に気づいたのだ。


「……悩みというほどのことではないんですが、そのエスカーズのことなんです」

「ええ」

「さっきも言ったように、私、彼がイヤではないんです。なんか、なつかれちゃったなあという感じで戸惑いはあるんですが、頭のいい男ですから、話をしていて楽しいですし、わりと気も合う方だと思います」

「はい」

「ですが……」


 レルグはそこで、少し言い淀んだ。

 ホントはこんなこと認めたくないのだが、というかのように、顔を赤くしながら言葉を絞り出す。

「ですが、ご存じの通り、彼、天才じゃないですか。授業でも、休み時間でも、一緒にいる時間が長くなればなるほど、話をすればするほど、それをひしひしと感じるというか。彼に比べて、自分はまだなにも持ってない、そしてこれからも持てないんじゃないかって、つい考えちゃう自分がいるんですよ。そんな風に考えるべきじゃないってことも、わかってはいるつもりなんですが、それでも……」

 そこでレルグは、少し言葉を詰まらせた。


「ゆっくりでいいですから、続けてください」

 優しく促され、うなずいたレルグは、慎重に言葉を選びながらも告白を続けた。

「ご存じかどうか、私は、コールヴィッツ大上造家の跡取りです。将来は、国のため、民衆のために『貴顕の義務ノブレス・オブリージュ』を果たす必要があります。だから私は、それにふさわしい人間になれるように、自分なりに努力をするし、しているつもりです」

「でも、彼と自分を比べてしまうと、私はまだ彼と肩を並べることができていないし、今後もできるかどうかわからない。それなのに、彼が臆面もなく親友だなんて言ってくるのを聞くと、面映ゆいというか、逆に悔しいというか」

「彼が親友だって言ってくれるのは、正直に言えば嬉しいです。でも、それを素直に喜べない自分もいるんです」


 これって、やっぱり悩みなんですかね。

 と、少し弱々しく微笑んだ少年の述懐を受けて、クローはその形のいい顎に拳をあてて考え込んだ。


 昨日、ジュノにレルグのことを頼まれたクローは、彼を帰すと、早速に「人見の鏡」を覗き込んでみた。そこに映し出されたのは、この学院で教鞭を執るレルグと、同じくジュノ、二人の姿だった。

 あれ――?とクローが思ったのは、将来、この国の宮廷魔術師になるはずだったジュノの未来が変わっていたからである。そして、鏡に映る二人は、隣同士並んでいながら、それぞれあさっての方向を向いていて、その表情からも、なんとなく互いにギクシャクしているような関係に見えた。

 今日、レルグの話を聞いたクローは、鏡に映し出された未来について、こう考え始めた。レルグが今抱えている劣等感をずっと解消できず、それゆえにいつしかジュノとも仲違いして、にも関わらず、二人が離れられないでいることによるものではないか――。

 そしてそれは、レルグだけでなく、ジュノの未来までをも変えてしまう。


「先生は、二人の若者の未来を潰しちゃうんですか?」

 ジュノがそう言ったのは、あくまで冗談だとわかっている。わかっているのだが、鏡を覗いたクローにとっては、にわかに重苦しい現実となってのしかかってきたのだった。


◇◇◇


「ここが旧校舎か……」


 三日後の夜。

 真っ暗な、ひっそりと静まり返った古い木造の建物を見上げて、レルグは低くつぶやいた。

 今夜は満月のはずだが、雲に隠れて、わずかな明かりがその隙間からこぼれるだけである。


「恐くないか?」

 少し離れて立ったジュノが、そう尋ねてきた。本人は、レルグの緊張をほぐすために微笑んだつもりだったのだが、今のレルグには、彼が皮肉な笑みを浮かべたように感じられてしまった。

「っ――、まさか!」

 口ではそう強がってみせたものの、レルグの顔からは緊張の色が隠しきれない。夜の暗がりで、それがジュノに伝わらないのは幸いだった。

 今夜、彼は初めて、クローに命じられた旧校舎の「良からぬもの」退治に従事するのだ。

 レルグにとって、モンスターとの戦い、実戦自体が初めての経験となる。


「レルグくん、ジュノくん、聞こえますか?」

 クローが「念話」の魔術で語りかけてきた。二人がそろって「はい」と答えると、クローは今日の課題(ミッション)を二人に伝えた。今日は、ジュノが今まで二回にわたり経験してきた良からぬもの退治とは、やることがちょっと違う。


「昨日伝えたとおり、今日は、旧校舎裏手の森の中に巣くうゴブリンを掃討してもらいます。まだ正確な数がわかりませんので、慎重に探索してください」

 ゴブリンは醜悪な小鬼のような見た目のモンスターで、卑劣かつ凶暴ではあるが、たいして強くはない。一、二体程度なら、多少なりとも剣の心得がある者ならば充分に渡り合える相手である。


 だが、それが群れとなれば話は別だ。知能が低いだけに、群れに遭遇すると無秩序に襲いかかってくるので、乱戦になって歴戦の冒険者でも苦労することになる。

 また、群れを率いるゴブリンシャーマンやゴブリンロードといった上位種がいることもあり、それらは、ただのゴブリンとは強さの桁が違う。特に、ゴブリンシャーマンは精贈魔法や闇呪魔法を使うので注意が必要だ。


 初めてモンスターたちと戦うことになるレルグは、あらためて倒すべき敵の名前を聞き、一段と緊張を高めた。

 が、三回目のジュノの方はというと、「へえ」とつぶやいただけであった。それが、今のレルグにとってはいかにも余裕ありげに見えて腹立たしい。


 腹立ちと心配がまぜこぜになって、「コイツ、頭のネジが緩んでるんじゃないか」と、レルグは心の中で――育ちのいい彼は、けっして声に出して言うことはないのだが――悪態をついた。だが、当のジュノ本人はというと、「群れの数にもよるが、オレとレルグなら、ゴブリンだけなら問題ないだろう」とわりあい冷静に考えていた。

 もっとも、彼もゴブリンと戦った経験があるわけではない。ゴブリンについて、クローから伝え聞いていることと、その理解が正しいなら、であった。

 それに、あくまで「ゴブリンだけなら」である。ゴブリンシャーマンやゴブリンロードがいて、態勢が悪ければ、ジュノはさっさと逃げ出そうと決めていた。彼は、戦うこと自体は確かに好きだったが、負けるのも怪我するのも嫌いだったので、逃げることには抵抗がない。


「行くぜ、レルグ」

「待てよ、エスカーズ」

 先に歩き出したジュノをあわてて追う。


 ジュノもそれなりの長身だが、レルグの方が、わずかに背が高い。この夜、魔術師のジュノはいつもの洋刀に軟皮鎧、精霊使い(エレメンタラー)のレルグは両片手剣(バスタードソード)硬皮鎧(ハードレザーアーマー)といういで立ちだ。


「フルスタ・レイヨ・ヒョジン……世界の根源たる万能の魔力よ。ヴァイド・ヴァリアント……龍眼の如く炯炯たる煌々たる……闇うち払う光を我が手に灯せ……『光源』」

 旧校舎の玄関前で、ジュノは「純粋なる言葉」の詠唱を始めた。虚空に指先で魔術陣を描いて、「光源」の魔術を発動させる。

 ジュノの洋刀の鞘、レルグが腰に帯びた短剣の鞘に、それぞれ光が灯った。


 二人は建物に沿って裏手にぐるりと回り込むと、森の中に分け入っていった。

 彼らが今いる旧校舎は、今では、学院の敷地の外れにあたる。だからこそ、そこに良からぬものを誘導するのだ。その裏手は広大な森になっていて、導かれた良からぬものが徘徊していることがある。

 ちなみに、良からぬものの退治は本来、学院の教官たちの業務だ。毎日日替わりで教官の一人が見回りを行い、その発見した数やレベルによっては、大規模な討伐隊が組織されることになる。これから二人が退治するゴブリンは数が多い方の代表的な例で、今まで何度か討伐隊が組まれたことがあった。一番多い時には、五十体ものゴブリンが森の中にいたこともある。

 今日はエルシズが見回り当番にあたるので、クローはこの日を狙って、ジュノとレルグにゴブリン退治を命じたのである。


 鬱蒼とした森の木々を、魔術の光が煌々と照らしている。

 視界は効くが、ゴブリンどもからも二人が丸見えになってしまうのは困ったところだ。とはいえ、二人しかいない以上、ランタンなど灯りを持つことで片手が塞がれてしまうのも好ましくない。

 さすがのジュノも、森の奥深くに進むに連れて、その顔に緊張の色を濃くし始めた。二人は無言で、慎重に歩みを進めていく。


「かすかに、生命の精霊のオーラを感じる。近づいているぞ」

 精霊使いであるレルグは、精霊の気配を感じ取り、交信することができる。醜悪な見た目のゴブリン族だが、もともとはエルフ族などと同じ精霊界の住人だ。精霊使いにとって、その生命のオーラを感じ取ることは比較的容易い。

 漆黒の闇が広がる森の中で、敵の居場所を感知できるレルグの能力は重宝する。クローが「遠見の水晶球」で見つけることもできるが、距離感まで二人に正確に伝えるのは難しいからだ。


 そして――十分ほど経った頃。二人は前方に焚火の灯りが小さく揺らめくのを確認した。

 ゴブリンの群れに遭遇したら、どう行動するかはあらかじめ打ち合わせしてある。

 ジュノとレルグは互いの眼を見交わし、うなずいた。

 行くぞ――。


◇◇◇


 木立の間を走り出しながら、ジュノは洋刀を、レルグは両片手剣を鞘から抜き放った。

 両片手剣はその名の通り、片手でも両手でも振るうことのできる剣だ。精霊使いのレルグは、得意の精贈魔法を使うときは片手で、そうでない時は両手で扱う。精贈魔法を発動するには、空いた左手で精霊と交信するための印を切る必要があるからだ。


 木立の隙間から、焚火のそばに見えたのは三体のゴブリンである。

 ゴブリンたちは、二人が駆け寄る音と、まばゆく輝く「光源」の灯りに気づいた。慌てて立ち上がり、傍らに置かれた小剣(ショートソード)短槍(ショートスピア)に手を伸ばす。

 その隙に、二人は接近した。ゴブリンが三体までならひとまず肉弾戦で、それ以上なら最初から魔法を使うというのが事前の決めごとである。


「三体だ!右端の槍から倒すぞ!」

 レルグが指示を出した。

 それは、よく言われる通り「剣で槍を相手にするには三倍の力量が必要とされる」からだ。その槍を持つ相手を、まだ体勢が整わないうちに倒してしまおうという作戦である。


 ジュノは口に出しては応えなかったが、走りながらわずかに向きを変えた。ようやく槍を構えようとしているゴブリンに向かって、切りかかる。

 最後の一歩は跳躍し、洋刀を横薙ぎに払った。その斬撃は、ゴブリンが眼前にかざした短槍に阻まれたが、その柄を見事に両断した。

 すかさず、両片手剣を両手で高々と構えたレルグが迫り、渾身の力を込めて振り下ろす。


「グエェェェッ!!」

 槍を失って遮ることもできず、ゴブリンは正面を頭から腰まで深々と切り割られた。断末魔の叫びを上げると、激しく血を吹き出しながらドウッと倒れこむ。

 生温かい返り血を浴びたレルグだったが、彼だけでなく、ジュノも内心で少しひるんだ。いくら 凶悪なモンスターといえ、二人とも、生きた命を奪うのはこれが初めてだったからだ。

 しかし、命がけの戦いの中にあって、体も頭も半ば無意識に動いている。


「次は左だ!」

 再び、レルグの指示が飛んだ。間髪置かず、ジュノは左隣のゴブリンに向かって鋭く洋刀を振るった。

 かろうじて、ゴブリンは手にした小剣でその斬撃を受け止めた。だが、ジュノの背後、ゴブリンにとっては死角となる位置から繰り出されたレルグの突きまでは避けられなかった。


「ギャギャッ!!」

 その肩口に両片手剣の先端が刺さり、肉をえぐる。たまらずゴブリンが取り落とした小剣を蹴とばすとともに、ジュノは再び洋刀を振るった。それは狙い過たず首筋を切り裂き、二体目のゴブリンも大地に倒れ伏す。


 残るは一体となったが、二対一では、ゴブリンは二人の敵ではない。ジュノが出ればレルグが下がり、レルグが切ればジュノが突く。共に戦うのが初めてとは思えないような連携を見せて、二人はゴブリンを翻弄する。

 最後には、ジュノの洋刀とレルグの両片手剣が左右からゴブリンを差し貫いた。

 二人にとって初めての戦闘は、激しくも短く終わった。


◇◇◇


「二人とも、怪我はありませんか?」

 戦いを終えて一息ついた二人に、クローが「念話」で語りかけてきた。


「大丈夫です」

 顔をしかめつつ、レルグが答えた。ジュノも、まったく同じ表情でうなずいた。彼らが手にする得物の刀身には、ゴブリンの、やや緑がかった血がべっとりと付着しているからだ。


「それにしても、お見事でした。共に戦うのが初めてとは、とても思えません。あなたたちは、戦いの相性がいいのかもしれませんね」

 感心したようなつぶやきが聞こえた。

 今は進路指導室から出ることのできない身だが、クロー自身、もともとは古代魔術王国時代の遺物を求めて大陸中の遺跡を巡る歴戦の冒険者である。「相性がよい」というその見立ては正確であったし、レルグもジュノも、我が事ながら同感だった。


「レルグ。オレ、お前と肩を並べて戦ってみて、なんだか戦いやすさを感じた。指示も出してくれるし、攻撃のタイミングというかペースというか、そういったものも合っている、いや、おまえがオレにうまく合わせてくれているような感じがする……」

 彼に向き直って声をかけてきたジュノの、碧い瞳の輝き。その強さにまぶしさを感じたレルグは、わずかに視線を外しつつも、大きくうなずいた。


「私もだ、エスカーズ。私の方は、自分が前に出るより、きみに先に突っ込んでもらって、その動きを見ながらの方がやりやすい。次も、それでいいか?」

「ああ。じゃあ、サポートを頼む」

 ニコリと笑うと、ジュノは拳を突き出してきた。まだ少しためらいを見せたものの、レルグもそれに拳を合わせて応える。


 「遠見の水晶球」を通して、そんな二人の様子を見届けたクローは、新たな指示を送った。

「次のゴブリンの群れが見つかりました。北西の方向、十五分ほどのところです。数は五体、種類まではよく見えません。ゴブリンロードなどの上位種がいるかもしれないので、充分に注意してください」

 その指示に従い、ジュノが前、レルグが後ろになって、二人は再び夜の森を歩き出した。


 時は五月の半ば。夜ともなればまだ空気が冷え込む季節だが、初めての戦闘を怪我することなく終えた二人の心は高揚していて、寒さも気にならない。


「まもなくです。今夜はこれが最後ですから、魔力の残りは考えず、存分に戦ってください」

 クローの声が聞こえたと同時に、二人も、前方に浮かぶ焚火の灯りを視界に捉えた。あらかじめゴブリンの数を聞かされている二人は、歩きながら作戦を話し合ってある。

 顔を見合わせてうなずくと、二人はその作戦通りに走り出した。


◇◇◇


「ランダー・ティルス・ジョーニー……世界の根源たる万能の魔力よ……白龍住まう深山より生まれし、安らかな眠りをもたらす霧となりて、レオーニ・アイラス・バイス……」


 林立する木々の間から、ジュノが飛び出した。

 ゴブリンの群れに向かって駆け出しながら、呪文を唱え、虚空に指先で魔術陣を描き出す。

「全てを包め!『眠りの霧(スリーブ・フォグ)』!!」

 ゴブリンたちが焚火を囲む広場に駆け寄ったジュノは、五体のゴブリンをその瞳に認めた。すかさず右手の洋刀を大きく振るって、「眠りの霧」の魔術を発動させる。


 呪文を詠唱する声と、迫りくる魔術の光に気づいたのか、ゴブリンたちは皆、すでに立ち上がっていた。それぞれ武器を手にしていたが、ジュノの魔術が作りだした霧に捕らわれると、事態をよく飲み込めないままに眠りに落とされていく。


 ところが、五体のゴブリンのうち、一体だけは違っていた。

 ジュノの魔術への抵抗に成功したそれは、眠ることはなかった。手にした節くれだらけの小杖(ワンド)を眼前に掲げると、なんらかの呪文を唱え出す。

「ゴブリンシャーマンです!精贈魔法と闇呪魔法に気をつけて!」

 クローの警告の声が、夜闇を裂いて響く。


「アイツから先に仕留めるぞ!」

 叫ぶとともに、レルグは左手で印を切った。精贈魔法を発動させるべく、森を吹き抜ける風に満ちた精霊に向かって呼びかける。


「東から西へ、南から北へ……我らが世界を軽やかに舞う……麗しき風の乙女よ!その息吹を……今……ひとときの間とどめ、この地に静寂をもたらせ!」

 そしてレルグは、薬指だけを曲げた左手で最後の印を切った。ゴブリンシャーマンに向かって、それを突き出す。


「『空間静寂サイレンス・フィールド』!」

 レルグの前に、白く透き通った乙女の姿の風の精霊がボウッと姿を現した。とともに、ゴブリンシャーマンに向かって飛んでいく。ゴブリンシャーマンの周囲に無音の空間を作りだし、その魔法の詠唱を遮断して無力化するのが狙いだった。


 ジュノとレルグは、ゴブリン退治をクローに命じられた時に、三人でゴブリンシャーマンやゴブリンロードが出た場合にどのように対処するかあらかじめアドバイスを受けていた。そしてレルグは今、クローの助言の通りに冷静に対処したつもりであった。

 ところが、彼は実戦で魔法を発動させるのはこれが初めてである。

 なので、わずかに詠唱に手間取ってしまい、ゴブリンシャーマンが精贈魔法を発動させるのに間に合わなかった。


「グガギギィ・グガァァァド!」

 ゴブリン語であろう。ゴブリンシャーマンは、耳障りの悪い金切声で叫んだ。手にした小杖を大きく振るい、「岩つぶて(ロックブラスト)」の詠唱を終える。

 すると、レルグの足元の地面がうねり、ボコボコと無数の小さな岩が姿を現した。そしてそれは、彼に向かって勢いよく飛び散った。


「くっ、しまった――!」

 レルグは両片手剣を眼前にかざし、「岩つぶて」に抵抗しようと全身に力を込めた。


その時――。

「『防護(ガード)』!!」

 ジュノの発した「純粋なる言葉」が夜闇を引き裂いて響いた。レルグの前に、魔力の障壁が生み出される。


「ググッ!!」

 咄嗟に無詠唱で発動させたものだけに、「岩つぶて」を防ぎきるほどの力はなかったが、それでもダメージは明らかに減少した。レルグは大地の精霊が生み出した岩に全身を撃たれたものの、歯を食いしばりつつ、なんとか踏みとどまることができた。


「私は大丈夫だ!それより敵を!!」

 ジュノが心配の声を上げるより先に、彼を安心させるべく、痛みを噛み殺してレルグは叫んだ。

 目を合わせたジュノは、軽くうなずいた。すかさずゴブリンたちに向き直り、次の魔術の詠唱を始める。

 遅れて発動したレルグの精贈魔法で、突然、周囲の音を遮断されたゴブリンシャーマンは慌てふためいている。「眠りの霧」に包まれたゴブリンたちも無音の空間の中となったので、魔法や魔術が飛び交っていたにも関わらず、眠りから目覚めることはなかった。


「クリス・フライザ・ティアーノ……世界の根源たる万能の魔力よ……アーレス・ハイレス・ヴァルダリオン、我が内に巣食いし赤々(せきせき)たる龍よ、目覚の時は来たれり……暗赤、明赤、黄々たり。地より上りし炎と、青、白、天より下りし風とが混ざりて、今こそ解き放て!『魔力爆発フォーナ・エクスプロージョン』!!」


 詠唱を終えるとともに、ジュノは左手をゴブリンたちに向かって鋭く突き出した。

彼の体から見えざる波動が吹き出したかと思うと、次の瞬間。大爆発が巻き起こった。


 レルグの「空間静寂」の中だったので、音はしなかった。しかし、五体のゴブリンは吹き飛ばされ、うち二体はプスプスと煙を上げて、倒れ伏したまま動かなくなった。

 ゴブリンシャーマンと、残る二体のゴブリンは立ち上がろうとするが、その動きはノロノロとしている。ダメージは目に見えて大きい。


「いいぞ、エスカーズ!」

 まだ痛む体に鞭を当てて、レルグは両片手剣を両手で振り上げた。ゴブリンたちに向かって駆け寄ると、小杖を支えに体を起こしたゴブリンシャーマンに向かって、渾身の力を込め振り下ろす。


「――!!」

 袈裟懸けに切り下げられたゴブリンシャーマンは、断末魔の悲鳴を上げたようだ。

だが、それもレルグの魔法に遮られて、音になっては届かない。ドクドクと流れ出す血の中に埋もれたまま、ついに動かなくなる。


 残された二体のゴブリンは、爆発とともに放り出された小剣と狼牙棒(ブラジオン)をそれぞれ手にとると、ようやく立ち上がった。それぞれ振りかざすと、「ギイィィィッ!!」と金切声を上げて迫ってくる。


「棍棒の方からだ!」

 短く叫ぶと、レルグは両片手剣を横薙ぎに大きく振るって、小剣をもったゴブリンを牽制し距離をとった。彼とすばやく入れ替わったジュノが、狼牙棒を持つゴブリンに向かって洋刀を突き出す。

 ところが、ゴブリンは意外にも俊敏な動きでこれをかわした。


「ヤバい――!!」

 実戦で「魔力爆発」の魔術を初めて成功させ、最強の敵であるゴブリンシャーマンを屠ったジュノには、油断があったのかもしれない。ゴブリンは、隙だらけのジュノの頭部目がけて、今にも狼牙棒を振るおうとした。


「大地の精霊よ!」

 危険と見たレルグが短く叫んだ。左手で印を切ると、ジュノの足元の地面がわずかに盛り上がる。

 勢いよく飛び出していたジュノは、それに躓いて体勢を崩し、転倒した。それによって、ゴブリンが振るった棍棒はまさに間一髪のところで空を切った。


 が、ジュノは勢いそのままにゴブリンに体当たりすることになってしまった。

 レルグが繰り出したのは、大地の精霊の力を借りた「転倒(スタンブル)」の魔法であった。

「くっ……!」

 痛む体に鞭を当てて、ジュノはすばやく立ち上がった。体当たりの衝撃で棍棒を取り落としたゴブリンが、それを拾おうと伸ばした腕を洋刀で切りつける。


「ギャアァッ!」

 腕を両断されて、痛みのあまり地面に転がったゴブリンに、二人は目を向けなかった。

 次は小剣を持つ方に向かって、レルグは両片手剣を、ジュノは洋刀を、入れ替わり立ち替わりに繰り出した。

 ゴブリンは瞬く間に突かれ、切り裂かれて、ついに地面に倒れ伏した。すかさず、レルグが両片手剣を突き下ろしてとどめを刺す。

 同様に、腕を失って苦悶するゴブリンにもジュノが洋刀を突き刺し、今夜の戦闘は完全に終わった。


◇◇◇


「エスカーズ、大丈夫か!?」


 心配の声を上げながら、レルグはジュノに駆け寄った。

 はからずもゴブリンに体当たりすることになってしまったジュノは、いてて……と顔をしかめていたが、突然、ガバッとレルグに抱きついてきた。


「レルグ、ありがとう!おまえがいなかったら、オレは死んでいた――」

 レルグは驚いたが、いつも不適なはずのジュノが、今はその体を小刻みに震わせている。それに気づいた彼は、わざと呆れたような声を出して応えた。


「なんだ、おおげさだな」

「いや……あの棍棒を見ろよ。おまえが機転を利かせて転倒させてくれなかったら、きっと、オレの顔面は今頃、グチャグチャだった……」

 あー、そうかもな……と、地面に転がる狼牙棒を目にして、レルグは内心うなずいた。狼牙棒とは、打撃部分にトゲ状の突起が無数に取り付けられた棍棒だ。重量もあって、それで殴られればトゲが突き刺さり、肉が裂かれてしまう恐ろしい武器である。


「そうなったら、オレ、さすがに生きていけない」

 考えるだに恐ろしいとばかりに、片手でその整った顔を覆ったジュノだったが、レルグは不謹慎にも笑ってしまった。ジュノ本人がというより、学校中の女子たちが派手に嘆き悲しむ様子を想像してしまったからである。


「なんだよ、笑うなよ」

 ジュノは怒ったが、それで心が少し落ち着いたのかもしれない。ようやくレルグから体を離した。

「ああ、悪い悪い。私もホッとしたんで、つい、な」

 片眼をつぶって謝ったレルグに、頬をふくらませてむくれていたジュノは、「まあ、いいけどさ」と、まだ少し不満そうにつぶやいた。


「それより、きみ、『魔力爆発』なんて、いつのまに使えるようになったんだ?今まで、使えてなかったじゃないか?」

 レルグの問いかけに、ジュノは、我ながら驚きという感じで肩をすくめた。


「ああ。正直、今の今まで成功させたことはなかったんだが、なぜだかできるような気がしたんだ。これも、オレが一人じゃなく、おまえが隣にいてくれたからかもしれない……」

 つぶやくように言うと、ジュノは一転して笑顔になった。

 今夜、彼はまた一つ、大切なものを見つけた。強い光を込めたその碧い瞳でレルグを見つめつつ、ジュノは言葉を続けた。


「レルグ。オレは、今後もクロー先生を手伝って、こうして戦うつもりだ。だが、今夜、おまえと一緒にやってみて、よくわかった。これからも、オレの隣で一緒に戦ってほしい。おまえじゃなきゃ、ダメそうだ」


 レルグはもう、その瞳から目を逸らすことはなかった。

 そして、そのときレルグは、ジュノの輝くような笑みに、なぜだか既視感を感じた。

 彼がジュノに出会うのは、この学院の入学式の日が始めてのはずだ。そのはずなのだが、彼の笑顔は昔どこかで見たような……なつかしい、そしてちょっと甘酸っぱい記憶としてよみがえってきた。


「ああ、もちろんだ。それと、私のほうこそ感謝しなくちゃならないな。きみの『防護』の魔術が間に合わなければ、今ごろ私は、立ち上がるのも難しかったかもしれない」

 どうしても思い出せないその記憶を、レルグは頭を一つ振って追い払った。そして彼は、ジュノに向かって右手を差し出した。


「ありがとう、ジュノ」

 ところが、ジュノはそれに応えようとしなかった。目をパチクリとさせただけである。

「どうした?」と尋ねるレルグに、ジュノは少し困惑したような笑みを返した。

「あ、いや……初めて、名前で呼んでくれたから」

「……ああ、そうだったか?」

 気づいてはいた、というか、確信的にそうしたのだったが、レルグはすっとぼけた。


 握手を求めていた手を引っ込めると、それまで抜き身のまま下げていた両片手剣を右手に持ち替え、鞘に収めようとする。

 ところが彼も、今になってその手が震えてきた。それに、戦闘中の高揚感で薄れていた、「岩つぶて」で負った痛みがぶり返してくる。


 彼はこの時、あらためて自覚したのだった。

 生まれて初めて、凶悪なモンスターと命を賭けた戦いを終え、自らの力で生を繋いだことを。それは彼にとって、今まで経験してきたどんなことよりも、大きな自信を与えるものとなった。


 レルグはさりげなく歩みを進めると、ジュノの隣に肩を並べた。

「それより、ジュノ。悪いんだが、肩、貸してくれないか。正直、全身がバキバキに痛い」

「ああ」

 言葉少なに答えたジュノは、レルグの腕を抱えた。体を前に入れて、自分の肩に担ぐ。


 その時にレルグの顔をちらっと見たジュノは、思わず二度見してしまった。彼の顔つきが、それまでとどことなく変わっているのに気づいたからだ。

 このところジュノが心配していた、レルグの顔から影をひそめていた強い眼光。それが今は、すっかり戻ってきていたのである。


 夜の森では、雲が晴れて満月が顔を出した。木々の間からこぼれた月明かりが、風に揺れる木の葉の下で螺旋を描き始める。

 二人は支えあって、その中をゆっくりと歩き出した。


「お疲れ様。見事な戦いでした」

 クローの念話が届いた。

 歴戦の冒険者である彼は、その身をもって知っている。経験は量ではなく質であること、わずかな経験でも大きな成長につながるのが、冒険者というものであることを。

 水晶球を通して、二人の顔に浮かぶ満足そうな表情を見つめつつ、クローは「男子三日会わざれば刮目して見るべし」という古い故事を思い出していた。ジュノとレルグ、二人にとっては、三日どころか一晩で充分だったようだが。


「あなたたち二人は今夜、本当の親友になれたようですね」

 そう言われた二人は、肩を組んだままお互いに顔を見合わせた。

 そして、ヘヘヘ……と照れくさそうに笑ったのだが、次の瞬間、それぞれ体の痛みに顔をしかめたのだった。


◇◇◇


 翌日の朝。


 エルシズは出勤するやいなや、教官室にも立ち寄らず、北校舎の三階まで上がった。いつものように、進路指導室のドアにその身を預ける。


「朝からすみません」

 これまたいつものように、部屋の中からクローが声をかけた。

「いいや。おまえの方こそ、コールヴィッツの面倒まで見てくれたそうで、悪かったな」

 昨夜遅く、クローから「念話」でことの経緯を聞かされたエルシズは、早速に進路指導室を訪れたのだった。それは、「人見の鏡」が映し出したレルグの未来の姿を聞くためである。


「それで、どうなんだ?」

 勢い込んで尋ねたエルシズだったが、クローは、それに直接は答えなかった。

「昨夜、ぼくは二人にゴブリン退治をやらせてみました。レルグ・コールヴィッツ、彼がこのところ悩んでいるのは、ジュノ・エスカーズが自分の一歩も二歩も先を進んでいるのではないかという焦りと、自分はそれに追いつけないのではないかという劣等感ではないかと考えたからです。ぼくは、彼がジュノくんと肩を並べて戦うことで、自分の能力がおさおさ劣るものではないことに気づいてほしかった。その結果、わかったことがあります」


 クローは、そこで一度言葉を切った。エルシズは黙って、その続きを促す。

「彼には、補佐役としての才能があります。昨夜ずっと、その戦い方を見ていましたが、先に突っ走りがちなジュノくんに後方から適切な指示を与え、ジュノくんが出れば彼が引くバランスの取り方も上手で、サポート役として得難いものを持っていると感じました」

「そんな彼は、いずれ、この国の『侍中(じちゅう)』となります。国王を助け、国を正しく導く『王佐の才』が彼にはあります」

「ほう……」

 エルシズが、感心したようにつぶやいた。


「侍中」とは、彼らが暮らすこのローウェル王国の官制にあって、国王の第一の補佐役を指す。国家の機密に参画し、国王の政に助言を与え、過ちがあれば正す、きわめて重要な官職である。

「まあ、アイツはコールヴィッツ大上造家の長男だからな。別にあり得ないことではないな」

 エルシズは、「人見の鏡」が映し出した未来を疑うこともなく、納得した様子だった。


 彼はこの学院の教官として、普段から教え子の一人であるレルグのことをよく観察していた。だから、彼がいつも男女問わず多くの人に囲まれていることを知っていた。

 それは彼の、穏やかで、きわめて常識的な人柄が多くの人を信頼させるからである。その姿は、彼の知識や才能とともに、いずれ人の上に立つ立場になるであろうと自然に感じさせるものがあった。

 一方で、レルグは授業においても普段の生活においても、けっして出しゃばったり目立とうとしたりといったところがなく、謙虚で控えめであった。強いリーダーシップを発揮して周りにいる人々を率いるようなタイプには見えなかった。


 強いリーダーというのは、その放つ強烈な光の下に人々を惹きつけ、強い忠誠心を抱かせる一方で、その陰に潜み強く反発する者も生むというのが常である。

 言われてみれば、エルシズにはこう見えてきた。レルグ・コールヴィッツは自身が強いリーダーになるよりも、そうしたリーダーの下にあって、それを支えるべき人材であるように。

 リーダーに反発して陰に潜むような人々を見逃さず、それらもまた取り込んで、集団を上手にまとめる役割を担う。まさに補佐役という言葉がぴったり合うような気がするのだ。


 エルシズがそこまで考えているとは知る由もなかったが、クローは最後に、こんな言葉を付け加えてきた。

「そうですね。それに彼は、王様との相性も良いようですからね」

「へえ……『人見の鏡』ってのは、そんなことまでわかるのか」


 鏡の実物をまだ見たことがないエルシズは驚いたが、クローはドアの向こうで楽しそうに笑っただけだった。

【人物紹介】

ジュノ・エスカーズ : ローウェル魔法学院1年1組。「開学以来の天才」と呼ばれる魔術師ウィザードの卵。

レルグ・コールヴィッツ : ジュノのクラスメート。貴族の子弟で、精贈魔法を専攻している。

クローディス・サイクロー(クロー) : 進路指導担当教官。とある理由で、進路指導室から出ることができない。

エルシズ : 無表情、不愛想な行動系魔術担当教官。

フィアリス・アーストライト : 美人で優しい探知系魔術担当教官。クローとエルシズの学生時代の先輩。


【用語解説】

ローウェル魔法学院 : 大陸西部の古都ローウェルにある、大陸一の歴史と伝統を誇る学び舎。

純語魔術ピュアスペル : 「純粋なる言葉」で人々の内なる魔力を発揮する、古代から続く魔術。魔術師が操る。

精贈魔法エレメンタルギフト : 万物やあらゆる感情に宿る精霊の力を借りて行使する魔法。精霊使い(エレメンタラー)が操る。

人見の鏡 : 古代魔術王国時代の遺物。人間の未来を映し出す力を持っているが、未来は変わることもある。

遠見の水晶球 : 千里の距離を越えてその先を映し出す、古代魔術王国時代の遺物。声は聞こえない。

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