物語
「おあっ!?」
振り向くと、ジロリと店主。目が合っちゃった。じゃないじゃない。
頭下げたら、また手元の新聞に目線戻って、一安心。
ふー、危な。
けど変な声も出るってば。
何せあの奇本、魔愚爾統渡羅ですよ?
惜しむらくは初版で無いこと。
それ以外、文句のつけようなどあろうはずもなく。はっきり言って、状態は申し分なく、美品。
焼け、手垢。まるで問題無いレベル。
偽装する為か、別な本のカバーがかけられているが、下には本書のものがきちんと存在している。
そして、何より素晴らしいのは三冊で五百円の棚にあること。
要するに、魔愚爾統渡羅が二百円以下で買えてしまう。
あの魔愚爾統渡羅が。
そも、魔愚爾統渡羅とはなんぞや。
今を遡ること約百年前。近畿地方のとある豪農の家に、一人の男が生まれた。
仮にM氏とでもしておこう。
幼少期から神童と呼ばれ、うんぬんかんぬん。
長じてもそれは変わらず、素晴らしい青年へと成長した。
そこに悲しき時代の影。南洋。激しい戦火。
どうにか生き延びて故郷へと帰れたが、彼は何もかもが変わっていた。別人と思われる程に。
M氏はM氏であって、M氏では無い。
最初のうちは、食べ物の好みが変わった程度。刺身や、生野菜を一切口にしない。
そのうち、もはや焦げる直前まで焼いたものと乾燥しきった干し飯のみしか食べなくなった。
酒も飲まなくなり、飲むのは白湯だけ。
次第に口数も減り、表情が乏しくなっていくM氏。
そして、いつしか部屋にこもるようになったそうだ。
あれだけ無事を祈り、帰りを待ち侘びていた妻子も、その頃には気味悪がって出ていった。
戦下のストレス。マラリア、或いは治療に用いた薬物。M氏を狂わせたとされる原因は諸説あるが、正確なところは分からない。
確かなことは、彼はもう元のM氏では無くなったこと。
部屋にこもったM氏が、どのような暮らしをしていたか。それは関係無いため避けるが、酷いものだったらしい。部屋は、おおよそ人が住んでいたように見えなかったと言う。
その異常な暮らしの中で、死の間際まで書いていたもの。
それこそが魔愚爾統渡羅である。
と、言ってもその前半部分でしかない。後半は最早、字とは認められぬ何かが、原稿用紙のマス目を埋めていただけだったと言う。
それでも、きちんとマス目内にそれぞれが収まり、句読点が打たれ改行も成されていたらしい。
M氏本人には、どう見えていたのだろう?
暗号である可能性も考慮されたし、後半部分を撮影した写真集を出すと言う話も、一時は出ていた。
しかし、計画はいつの間にやら立ち消え、原稿は消失。今では、存在した事実だけがただ残されているに過ぎない。
前半部分のみ出版されたものの、それも絶版となって久しい。
現存するものは、全形態を合わせても十数冊にも満たぬと言われている。
どれもが自費出版を主に請け負っていた文福社のもので、これまで初版は2冊しか確認されていない。そのうちの一冊は所有していた田中さん(仮名)の家で小火が起きた際、消失したとされている。
つまり、ここにあるこれは三冊目の初版本。
幻も幻の、魔愚爾統渡羅の初版本なのである。
内容は一見すると単なる夢日記、だそうだ。
読んでいない為、知らない。
内容を要約したサイトもかつては有ったと言うが、今はアーカイブすら存在しない。そのようなサイトが実在した、そう言った証拠さえ無い。
アクセスしたことがある、と言う書き込みが何件かヒットするのみ。
その書き込みも魔愚爾統渡羅の内容には、まるで触れていない。
それでも大まかに、とてもぼんやりと、伝説のように。
等と言えば途端に胡散臭く、陳腐に思われるかも知れないが、そうとしか言えないのだから仕方ない。
魔愚爾統渡羅は曰く付き、と言うやつで。
実際にここにあるこれが、三冊目かどうかは分からない。
何故なら、所有していることを公言する、それだけで大変危険とされているからだ。
小火にあった田中さん(仮名)だが、それ以降の消息は明らかになっていない。
以前、どこで知ったか魔愚爾統渡羅について調査していた、ネット動画配信者が付近で聞き込みをした。
仮名だからと言う訳ではなく、本当に誰一人として、そのような人物がいた事さえ知らなかったのである。
それでいて、焼け跡と言うか、家が取り壊された跡は残っていた。そこに誰が住んでいたのか、覚えている人には出会えなかったようだが。
そう言った事情から、魔愚爾統渡羅について書き込むことすら滅多にされない。ましてや、所有した等と言えるはずも無い。
実際、三冊目かどうかはどうでも良い。
あの魔愚爾統渡羅を所有出来る、読むことが出来る。
それだけで充分に幸せなのだから。
手に取って、カバーが二重にかかっていることに気付かない、そんな間抜けには見えない。ここの主人は。
魔愚爾統渡羅についても、知っている可能性すらあるのではないか。噂程度なら、なおさら。
敢えて、買わせようとしている?
何の為?
魔愚爾統渡羅を読む。その喜びを分かち合いたい?
無くは無い、のかも知れないが。
もしも自分の店の棚に、それも三冊で五百円の棚に、魔愚爾統渡羅が眠っていたと知らなかったら。
レジで気付いた時、普通に売るだろうか。
何万何十万、いや、もっと。
値をつり上げてもおかしくない。
もしも店主が「誰かが勝手に違う棚に戻したんだ」なんて言ってきたとしたら、どうにもならない。
それどころか、下手をすれば売ってもらえない可能性すらある。
せめて、本来のカバーを抜き取りたい。
そうすれば何事も無くスルーされ、普通に購入出来る。
それでもカバーと内容が合っているか、とか何か挟まってやしないか確認するかも知れない。バレてしまう確率は、うんと上がる。
そうなったら、そうなったで諦める。
が、せめてカバーは。外さねば、絶対バレる。
この二重になっているカバーも込みの価格なはずで、これは窃盗ではない。購入するのだから、ちゃんと。
会計前に、ポケットに入れるだけ。
グレーと言うよりも黒だと思いながらも、魔愚爾統渡羅を求める欲望には抗えない。
店主の目が、こちらに向いていないことを確認して、魔愚爾統渡羅のカバーだけ抜き取った。
ドキドキしながらレジへ向かうと、店主がこちらを見ていた。読んでいた新聞は、脇に置かれている。
……見られたか?
店主が、こちらへ寄越せと言うような手振りをする。
バレたに違いない、魔愚爾統渡羅が俺の魔愚爾統渡羅が……。
「何してんだ、買うんだろ?」
「……へっ?」
「だから、それ。三冊。あんたずっとあの棚見てたし、違うのか?」
「あ、あー、はい、そうです、買います」
「ん、三冊五百円」
「あ、千円で」
「あいよ、はい五百円ね。あー、袋、有料だけどどうする?」
「いえ、結構です」
「毎度ありがとうございました」
「どうも」
買えてしまった。
魔愚爾統渡羅が。
あの魔愚爾統渡羅が、俺の物に。
カバンが急に重たく感じられた。
帰って読もう。いや、むしろ外で読もうか。
カフェのオープンテラスで、コーヒーでも飲みながら。
何と言うか、露出狂の気持ちが少し分かったかも知れない。
なんて良い日だろう。
なんて良い日だろう。
店主は青年、と言うには年かさだが中年と呼ぶのは憚られる、そんな客の背中を見ていた。引き戸のガラス越しに。
こういった書店には慣れていないのか、舞い上がっていたのか。新聞に顔を隠しつつ、ミラーで様子を眺めていたことに気付かないとは。
カバーを抜き取る瞬間も、しっかり見ていた。
犯罪と呼べる行為に手を染めてすら、所有したい。
そんなにも想われるなんて、お前も幸せものだな。
店主は魔愚爾統渡羅の表紙を撫でた。
店主と、亡き妻や友人たちとの、お巫山戯。
それが魔愚爾統渡羅の正体だった。
M氏がどうの、田中さん(仮名)がどうの。調査したという動画配信者は友人の息子だ。
モキュメンタリー、だったかな?
元々彼は動画を配信していたが、そう言った形式で撮ってみたかった、と快諾してくれた。
なるほど、撮りたかったのは本音だったらしい。それは真相を知る者でさえ信じかけそうになるほど、良い出来だった。
勿論、フィクションだと表示してある。信じた人がいたら可哀想だが、仕方がない。
ネット上にも色んなものをばらまいた。
五十を過ぎて、六十にもなろうという夫婦が。その友人が。全力で巫山戯て楽しんだ。
騙された人を馬鹿にする意図は、誓って存在しない。
ただ、ありもしない本を、その背景を作って皆でワイワイやる。その、どこまでも無意味な遊びが、楽しかっただけ。
本の、物語の持つ力を、再確認したかった。そんな高尚ぶった理由だって用意出来るし、全くの嘘でも無いけれど。
店主は、ただ楽しみたくて、楽しんで。
今日もとても楽しかった。
彼も楽しんでくれていれば、良いのだけれど。
と、新たな魔愚爾統渡羅を棚に納める。偽装用のカバーも、勿論かぶせた上で。
一昨年、妻が逝った。六十を過ぎたばかり、老衰と呼ぶには若い気がしたが、眠るように息を引き取った。
朝、いつもは自分より先に起きる妻が眠っていた。疲れたのだろうと声をかけずに寝室を出て、コーヒーを飲み、トーストを食べた。
そろそろ店を開かなければ、と立ち上がったついでに妻を起こしに行った。
朝と全く同じ姿勢の妻。寝息は、無かった。
何ら苦しみなんて無かったに違いない。きれいな寝顔そのもの。微笑んでいるようにさえ見えた。
あまりに突然で、あまりに非現実的で。
それでいて、とても当たり前のことのような。
受け入れられないわけでも、受け入れたわけでもなく、妻のいない日々が過ぎていく。妻がいた頃と、同じように。
違うのは、妻がいないこと。
それだけ。
魔愚爾統渡羅は、遊びはおしまい。
そんな風に思うことさえ無かった。
妻が続けるように囁いた、なんてことも無い。
これが、きっと自分の、自分たちの物語。旋律。流れ。
言葉は何だって良かった。きっと、何だって相応しい。
いつか自分も、この世を去る。
妻のように美しくとはいかずとも、眠るように逝ければ良いな。
とりあえず、今日は、まだそんな日じゃなかった。
物語は、未だ続く。
それだけ。




