やわらかな日々に
「あの時は、本当に焦ったなー。キスで気絶とか」
「うるさい」
「照れるな照れるな、照れても可愛くないぞー」
ニヤニヤしながら、頬を突いてくる。
可愛くないのは、世間的に。ジエリは、内心で照れる俺を可愛いと思っている。
それが何となく察せられるから、余計に恥ずかしい。照れる。
自惚れ、勘違い。
もしもそうだとしても、この三ヶ月、自分が世界で一番幸福だと感じられた。それは消えない、事実で。
ジエリがとんでもなく暇で、とんでもなく性悪で、ずっと俺を騙していたとして。俺を天国から地獄へ叩き落とし、嘲笑って晒し者にするつもりだったとして。
それでも構わないと思えた。
きっとこの先何年生きたって、こういう種類の幸せには巡り会えそうも無かったから。
ずっとジエリと一緒にいられるなら、別だけど。
「あれー、もしかしてマジに怒っちゃった?」
口調とは裏腹に、不安げに下がる眉。こんな顔してもジエリは美しくて、とても人間とは思えない。
本当に人間じゃないけど、そういうことではなく。
精霊、妖精、或いは妖怪。どう分類されるのか。ジエリ自身も分からないらしいが、どうだって良い。
ジエリが存在していて、俺のことを想ってくれている。それだけで。
「うん、怒ってる」
そう言ってジエリの髪をグシャグシャにする。
唐突に何だか、永遠なんてものを見た気がした。
それなのに。
何もかもが、順風満帆。
そんなこと、まずない。普通に高校生をやっている俺でも、分かる。
本当は永遠なんて、無いんだろう。
ジエリとの関係だって、そうだった。
仲が深まるにつれて、どうしても当初の遠慮が無くなってくる。お互いに。
ちょっとしたことで言い合いになって、三日ばかり会わなくなることも出てきた。
その度、いつもジエリから謝ってきた。お姉さんだから、年上だから。口には出さなかったけれど、きっと彼女はそう思っていたのだろう。
少なくとも俺の方はそう考えていた。ジエリは大人でお姉さんだから、ガキの俺をいつでも許してくれる。
そんな風に信じ込んで、彼女に甘えていた。
だから、あの時も深く考えはしなかった。
きっかけは些細なもの。
ジエリが容姿やら性格やら、ダメ出ししてきたことだった。
ブサイクで誰からも相手にされない、見た目どおり性格も良くない。そんな感じの悪口。
普段ならとりあえず言い返して、何となくじゃれ合って有耶無耶。そんな流れになっていたはず。
今となっては、何故ああも機嫌が悪かったのか全く思い出せない。理由は分からないが、その日の俺は最悪のコンディション。
普段から余裕なんて無いけれど、絶えずイライラしていて。
親ともケンカとまでは行かないものの、朝から衝突した。学校でも、いつもどおり気分の晴れることなんて無かった。
癒やしと呼べたのは、ジエリとの時間だけだったから。
それなのに。
学校から帰ってきた俺を見て、ジエリは心配してくれた。機嫌が悪いのを察して、あまり何も言わず、寄り添ってくれていた。
内心、とても嬉しくて。でも、何だろう。そんな反応見せたくなくて、ずっと黙ってた。
機嫌悪そうなまま、ずっと。
一時間くらい経っただろうか、ジエリは俺の顔を覗き込んで「ココアでも飲む?」と尋ねた。
それにも答えずにいたが、立ち上がって部屋を出ていく。
しばらくして彼女は、両手にマグカップを持って戻ってきた。腰を下ろしつつ片方のカップに口をつけ、ココアを啜る。
「ん、温めで美味し。ほら、どうぞ」
急に猛烈に腹が立った。多分、今思えば自分があまりにもガキっぽくて、惨めになったんだろう。
カップを差し出す手を、乱暴にはらった。
ゴト。床に落ちたカップ、カーペットに広がるココア。
彼女は軽く溜息をついただけで、黙って手近なところにあったタオルで拭き始めた。ココアがタオルに吸い上げられていく。
タオルを洗いに行っては、カーペットにあてがう。何度かそんなことを繰り返す彼女。俺は気まずさを感じながらも、何もせずにただ座っていただけ。
ガキだな、とその時も思っていた。
何となくカーペットがキレイになったところで、彼女はカップを二つとも下げた。離れたところで、水の流れる音がしている。きっと洗っているのだろう。
そんなことまでさせておいて、俺は何をしているのか。自己嫌悪で一杯になって、最悪だと思っていた機嫌は更に悪化した。
そして、戻ってきた彼女は俺のダメ出しを始めた。
怒鳴ったり喚いたりするのではなく、いつものように俺をからかうような調子で。
やはり彼女は大人で、……いや、違うか。それは年齢によるものじゃないと思うし、俺が年下だからそうだったわけでもない。ひたすら彼女が優しかっただけ。
分かっていた、分かっていたから余計辛い。自分は彼女に優しくされる資格なんてない。
前に似たようなことを言った時、彼女は「人間ってそんなことにまで免許要るの!?」とわざとらしく驚いた。既にニヤニヤしてた気もする。
「いや、そういうことじゃ」
「知ってるってば。馬鹿なお子ちゃまを、からかっただけですよー」
ハグされて、顔が熱くなった。
随分前のことのように思えたが、出会ってからでさえまだ三ヶ月ちょっとなんだな。等と思い出に浸りつつも、今更機嫌を直すのもそれはそれでガキっぽい気がした。
ぽいも何も、ガキなんだけど。
「ね、おーい、どした?」
顔の前で手のひらがひらひら。
「やめろよ」
「……機嫌悪いの、分かるけどさ。そんなんだから、モテないんだぞ?」
「うるさい」
「あたしに嫌われちゃったら生きてけないくせにー、生意気」
笑顔で俺の髪を、クシャクシャ撫でる。
嫌われたら生きていけない?
そうかも知れないけど、そんなの認めたくない。ここで折れて、抱きついて謝って、泣いて甘えて?
スッキリするだろうな、きっとこのモヤモヤすら簡単に解消される。
最初っから、そうすりゃ良かったんだ。何も悩まず、甘えれば。どうせ今の俺はどうやったってガキなんだし。
けど、出来ない。それもやっぱり、ガキだから。
「うるさいんだよ、年上だからってエラソーに。何でも分かってます、みたいな顔してさ!」
「えっ?」
「いつもいつもガキ扱いして、見下して」
「そんなこと」
「俺なんてどうせ、お前が人間の扱い慣れる為の実験台なんだろ。ならさっさと、顔も性格も良い奴んとこ行けよ。その辺歩いている奴適当に選んだって、俺よりはマシなんだし!」
「流石に、そんな言い方は。……本当に行っても良い訳?」
「ああ、行きゃ良いよ。どこにでも。俺にもプライドがあるんだよ、人間じゃないジエリには分からないんだろうけど!」
自分が何を言っているのか、理解していた。と、思う。
言っている間、心が痛くて痛くて、泣いてしまいそうだったから。
それでも、止まれなくて。
ガキ……、って何度も言い訳してもな。
それは免罪符にはならない。
落ち着かない静けさ。
ジエリは、いつの間にか消えていた。
どこか、隙間から出て行ってしまったみたいだ。
もしかしたらどこかに潜んで、こっそりこちらを覗いている可能性に思い至る。何事も無かったかのように、振る舞わないと。
それこそ、プライドに関わる。大切な人を傷つけ遠ざけてまで、守らなきゃならないものだとは、到底思えないけど。




