やわらかな日々
「え?」
今、目にしたものが信じられなくて、俺は便器の蓋を閉めた。
何か、何かじゃないな。顔だ、うん。顔があって、こっちを見てた。
多分、俺より少し年上?
女子大生ぐらいの、キレイなお姉さん。
オレを見て微笑んだ。ように見えた。
場所が自宅のトイレ、洋式の便器の中じゃなきゃな。
蓋を開けてみる。まだ、顔はそこにあった。
「マジかよ……」
「マジだよ」
「うぇええぇっ!?」
思いがけず返事があったので、驚いて蓋を閉めた。
霊?
手が出てくるとか、そういう系は知ってるけど、顔。
どうなってるんだ。と思ったが、霊なら首から上だけ存在してたって、問題ないか。
まさか、土曜の昼。休みの日。家で、こんな心霊現象に遭遇するだなんて、思いもしなかった。
「おーい!」
わー、ハッキリ聞こえてる。家族が居ない時で良かったのか、悪かったのか。
どうすりゃ良いんだ……。
「あ、そっか」
流せば済む話。レバーを回せば水が流れて、おしまい。
さよなら、美しい幽霊さん。
さて、漏れそうってわけでも無いけど、さっさと出すもの出しちゃいましょう。
蓋を開けたら、そう。居た。まだ居るよ。流したのに。
「あのさー、酷くない?」
「……何で、流れて無いんだ」
もしかして、このトイレで溺れて亡くなったのか、この人。
そうなると、それって他殺ってヤツなんじゃ。
あれ、ここに何年住んでたっけ?
小5、いや小6か。だから、6年くらいになるわけで。
何でこのタイミングなんだ。
俺が見てなかっただけで家族は知ってる、なんてないだろうし。
俺の霊感が強まった、とか?
強まるも何も、霊感なんて意識したことが無いけども。
「もしもーし」
でも、見えちゃってるしな。
もしかして、見えるってことは祓えたりもするのか。
「悪霊退散!」なんて叫んで、流してみたり。
おお、流れていった。これは、やはり。
と思えたのはつかの間。
チャプ。
恨めしそうな顔をした、お姉さんの頭が出てきた。
「あのね、あたしを何だと思ってんの?」
「霊、的な何かですよね?」
年上っぽさに、つい丁寧な言い方になる。
「霊がさ、こんなところから出てくると思う?」
「いやぁ、初めて見るんで、その辺りは」
じっくり観察してみると、お姉さんの頭全体は何やら透明の、ゼリー状のものに覆われている。
「あ、気付いた?」
「ゼリーみたいな」
「そうそう、まあ、正解。これでコーティングしてるから、こんなとこを通っても平気なの」
視線だけで俺が何を気にしていたか分かったらしい。お姉さんは説明しつつ、指で自分の頭をツンツンと突っついた。
プニプニと、指で押したところが凹んで揺れる。
……指?
「って言うか、腕出てんじゃん!?」
どうやったのか、右腕が便器から飛び出している。肩の辺りは、頭に隠れて見えないけれど、存在している感じに見えた。
便器に繋がる管の中に、体があると言うか、そんな雰囲気。
「あー、そうか。そうだね。うん」
俺の反応に何やら勝手に納得したらしく、頷いている。
何をするつもりかと思っていたら、左腕が出てきた。勿論、便器の水が溜まっているところから。
便器の縁を両手でそれぞれ掴む。穴から体を引き抜こうとしているかのように。
実際、驚くほどあっさり、ズルリと体が出てきた。便器の中に立つ、水の滴るお姉さん。
自分が悲鳴をあげたかどうか分からないが、衝撃に尻もちをついたらしく、気付けばお姉さんを見上げる体勢になっていた。
「ビーナスみたい?」
「へへ」
冗談のつもりか、お姉さんの問いに俺は情けなく笑うしかなかった。
「ジエリ?」
「そ、ジエリ。ジェリ、的な発音でも可。あ、でも伸ばさないでね」
「ジェリは良いけど、ジェリーはダメ?」
「そ」
俺は今、トイレから出てきたお姉さんと、カップ麺を啜っている。
シュール、ってジャンルになるのか?
そのお姉さんは、ジエリと名乗った。
自分の体質だの何だの大量に説明し、疲れて空腹だからと食事を要求した後で「あ、私、ジエリ。よろしく」と。何かのついでのように。
説明を要約すると、彼女は軟体生物らしい。ゼリーと言うかジェルのようになれる体で、細めのストローぐらいの穴ならば、通り抜けられるそうだ。
下水が通るパイプや便器の排水部分なんざ、余裕で通れる。
衛生的に不安がある場所を通る時、濡れたくない時にゼリー状の膜で全身をコーティングするらしい。
脱皮に近い、と彼女は言っていた。
膜が頭のあたりから裂けていくのを目にしたが、確かにそんな様子だった。
脱ぎ捨てられた膜は、便器の中で少しずつ溶けていき、最後は単なる水と化した。
流して、処理完了。
そんなわけで便器から出てきたジエリの体は、トイレの床に降り立つ頃には、全く濡れていなかった。
それはそうと、ジエリは何故、俺の家に来たのか。
説明はされた。されたけれど……。
「あー、んでさ、返事聞かせてよ?」
「え?」
「おいおい、とぼけるんじゃない。……あたしだって、勇気出してここに来たんだからさ。体のことまで話したんだし」
もじもじしていると、年齢より幼く見える。シンプルに言うならば可愛い。25歳だとか。7歳上。
そこは別に、いや、全然問題ない。大人なお姉さん、素敵。
人間とは少し違うのも、問題ない。こういう話、むしろ憧れる。
問題があるとしたら、俺の方。
「嬉しい、です。でも」
「あたしが、良いって言ってるんだから良いじゃん。顔が微妙で性格も普通、頭も良くなくて運動苦手。だから?」
俺が何に引け目を感じているか、ズバズバと。
自覚しているからって、人から指摘されて平気なわけじゃない。正直、傷つく。
「本当に、俺のこと好きなんですか?」
「……風呂で、トイレで全部見てるの、こっちは」
「全部?」
「そ、全部。体の隅々まで。これは言ってなかったけど、行動だってね、何から何まで観察済み。今後、幻滅する可能性とか、ほぼゼロ」
「……」
普通なら比喩だ。何から何まで、なんて。
ジエリは違う。今の言葉に嘘は無い。
俺の直感が告げる。
本当に、何から何まで見たんだ。
熱狂的ファンか、強火のストーカーか。
相手がこんな美しいお姉さんであっても、怖い。
「自分で言うのもなんだけどさ、……あたし美人じゃん?」
「……は、はい」
「え、美人じゃない?」
「美人です、めちゃキレイです」
「だよね、良かった。あまりにも反応があれで、不安になっちゃったし」
「すいません」
「でね、だからこそ信じられないのも、分からなくはない」
「はい」
「……」
黙ったかと思うと、真剣な目で見つめてくる。
だんだん、ジエリの顔が近づいてきて。




