帝王
「あー、出る出るっ! トイレ! トイレ!」
なんて久々に結構ピンチ、決壊寸前という状態で男子トイレへと駆け込んだ。毎日、では無いが、何度も利用したことのある場所。
降車駅のトイレだ。
乗車駅にだって、トイレはある。それでも、降車駅を選ぶ理由の一つが、清潔感の差。
清掃が行き届いているとかどうとか以前に、降車駅のトイレは昨年の駅舎改修と共に新しくなった。換気性能が乗車駅のそれと比較にならないばかりか、壁面や天井には消臭効果のある素材が使用されているらしい。必然、臭気からして乗車駅のトイレは二歩も三歩も遅れをとることとなる。
どうせなら、綺麗な方が良い。
更に、広いのである。個室の数が、三倍。乗車駅が二つなのに対して六つ。それだけでなく、誰でも利用可能なバリアフリートイレもある。
そうした理由から、少々余裕が無くとも降車駅で用を足すことにしていたのであった。
それにしても、今日は我慢し過ぎたか。急がねば間に合わないが、走れば振動による衝撃。
「っはー……」
無事、間に合った。
小便器が自動的に水を流し始めたところで、背後に気配。
正確には視線を感じた。
個室から、誰かが自分の背を見つめている。
恐る恐る、ゆっくりと振り向いた。
開け放たれた個室の扉。後光を受け、彼は鎮座していた。
トイレの帝王、だ。
異名は山程。便帝、トイ王、ベン・O、便座を玉座とした男、治水を司る者、龍の末裔、白磁の公。
あらゆる名のどれもが、彼を前にすれば過分ではないことが分かる。
むしろ、どれ一つとして足りていないと思えた。恐らく、全て並べ立てようともその印象は変わらないだろう。
それ程までに彼の纏う空気、放つ気配は圧倒的であった。彼と自分の関係は、王と民のそれであると、瞬時に分からされるのである。
彼はただの便座に堂々と座る中年男性でありながら、同時に何者にも賤民と思わせてしまう絶対の王だった。生まれながらに特別であったのか、様々な経験が彼をそうさせたのかは知らない。
分かるのは唯一つ。彼が帝王だということのみ。
東洋系だが彫りの深い顔立ちからは人種が読み取れないばかりか、感情や思考と言ったものを類推することさえ出来ない。
たかだか数歩の距離は、天地程に隔たっている。
「近う寄れ」
王の口が動いたか動かなかったか。見えなかった。
しかし、動いていないような気がした。
何故なら、如何にも皇帝然とした立派な口髭が、まるで微動だにしなかったからだ。あれだけ伸びていれば、僅かに口を開いただけでも揺れるはず。
ただしそれは、あくまでも彼が人の次元にいる、この世界の法則の中にいる場合の話ではある。もし仮に、人を超越した存在なら別だ。
実際、何だかそちらのような気がした。
と言うのも、先程の声は脳内に直接飛び込んできたようだった。
正確には染み込んできたような感覚。
声ならぬ声だと言うのに不思議なことではあるが、とても心地良く澄んだ声音だった。
それでいて大きく響いた。体を揺さぶる程、大きく。
海潮音。
唐突にそのような言葉が頭に浮かぶ。
仏教において、仏様の声をそうたとえるらしい。
自身の持ち得ない知識、言葉が、情報が流れ込んで来た。もしや、と思い王を見る。
後光は今や鮮烈を通り越して、目を貫かぬばかりの光線となっていた。
目が眩みそうになる。
ふと、思いついて自分の足元に視線を向けた。
やはり、との思いがよぎる。こうも強い光を前方から受ければ、色濃い影が後ろに伸びているはずである。
ところが、いつも通り。トイレのゆるやかな照明の下で出来る、ぼやけた影があるのみ。
つまり後光とは、実際に発光するのと、原理を異にする現象なのだ。
人の心、精神、魂。そのようなものに作用しているのだろう。
或いは脳なり視覚に対する効果、幻覚的なものである可能性も否定は出来ない。それでも個人的には、どうにもそういう科学的なものとは思えなかった。
「聞こえていたであろう?」
再度、同じ様に声。
足が勝手に個室に近づく。
自然、片膝を床につき、頭を垂れる。
頭じゃないし、頭でもない。頭。
それにしても、トイレの床に、膝。
いくら綺麗に清掃されていても、トイレはトイレ。土足で出入りする場所でもある。何なら、ほんのりと床のタイルは濡れていた気がする。
頭の中では、……今回は頭だ。頭の中では、冷静に状況を把握しようとしながらも、体は自動的に動く。
礼節に疎い方だと思うし、このような体勢を取った記憶なんて無い。
王が、トイレの帝王が、そうさせたのだ。これが彼に対する礼節。
「貴様には、告げねばならない。運命を」
王の口から語られた言葉は、精神に多大なる衝撃を与えた。
「トイレの、王……」




