腹腹
「っはーっ、獣ヶ丘からちょっこす出だだけで、えれぇ町さ着ぐんだなぁ」
深夜。
町外れの高台。
茂みから現れた狸が、町並みを見下ろしていた。
その狸こそ、何を隠そう私。ポン子こと、琥珀(仮)である。
名前については、プライバシーの観点から伏せさせて頂く。住所その他についても、以下同様。
年齢は18歳になったばかり。一応これでも才媛、というやつで既にニンゲンで言う高等教育はおろか、大学相当の卒業資格も取得済み。
それなのにニンゲン社会の視察がこうも遅くなったのは、ひとえに変化が苦手だったから。
未だに調子が良い時でさえ、1時間が限界。我ながら情けない。
恥ずかしいことに四つん這いで、並の狸のフリをして視察する羽目に陥ってしまった。
そりゃあ、私は身長低めで短足気味ですよ。けど、流石に普通の狸よりは、明らかに大きいわけでして。
下手したらクマとか、野犬と間違えられる可能性だってある。駆除なんてされた日には……。たぬき汁なんて、字面が頭をよぎるだけで恐ろしい。
「だがらって、夜にだけぇ。はぁ。わた、オラもじぇいけぇみでなカッコしてくれぇぷだの、食べてみてのになー」
夜だけ、それもニンゲンとの接触は極力回避。
折角、都会に来たって何の意味もない。ニンゲンの暮らしを学ぶっていう本分だって、これでは微妙だ。
自分が悪いって分かってても、ついつい、愚痴りたくもなる。
……あ、気になりますか?
気になるでしょうね。
こんな、わざとらしい、カントリー風な言葉遣い。
私だってね、そんなことしたくないです。でも、これまたリスクマネジメント的な発想で。
万が一、変化が人前で解けた際に備えて、と言うやつです。
何だかニンゲンが思い浮かべる狸ってのは、そういうもんだそうで。如何にも純朴で、鈍臭く憎めない。
そういったパブリックイメージを最大限利用する。生き残る為には、恥ずかしいだの何だの言ってられんのですよ。
ポン子、と言うコードネーム(?)が与えられた理由も同じ。
かくして私は、独り言さえも講座で学んだカントリー風日本語を使い、四つん這いに。……恥ずかしいなぁ、マジで。
「これは、夢か。……幻覚?」
茂みに身を潜めていた三十谷は、目の前の光景を現実かと疑った。
妙にデカい狸が、独り言を言っていたのである。
数分前、三十谷が隠れている所から、ほんの数十センチメートル離れた茂みがガサガサと音を立てた。怯えて縮こまっていると、その茂みからは狸。
何だ、と安心しかけて三十谷は気付いてしまった。狸は狸だが、異様に大きい。
それだけでも充分に怖いと言うのに、こちらに尻を向けた狸が喋ったのである。
三十谷からは巨大な尻しか見えないが、時間帯も時間帯。せいぜい、虫が鳴く程度の音しかしない。いくらボソボソと喋ったところで、狸の声はハッキリと聞き取れた。
どこの方言だか、何だか田舎者っぽい妙な訛りがあるものの、狸のそれは日本語だった。地方から来た化け狸、ってところか。
三十谷は、これが現実だと仮定した場合について、そのように考察した。
流石コードネーム、ポン子。完璧に誤認させることに成功。
しかし、当の彼女はそのようなことは知らない。
尻を見られていることも、巨大だと思われていることも。
知らずに、町を眺めていた。
三十谷はじっとしている狸の尻を眺めつつ、これが現実では無いパターンについても考察をしていた。変なところで冷静。三十谷とは、そういう人間だった。
現実では無い場合、最初に感じたように夢か幻覚になるのだろう。
夢である可能性は低い。三十谷はそう考える。何故なら、夜風が身に沁みていたから。頬をつねる等、痛みで確かめる必要すらない。
で、あれば。幻覚。
可能性は大いにある。三十谷がそのように考えたのは、相手が化け狸だから。
では、無い。
これが化け狸による幻覚なら、化け狸が化け狸の幻覚を見せているという謎シチュエーションでしかない。
化け狸では無く、通常の狸。或いは狸自体も幻覚。そのどちらかであるはず。三十谷は、冷える腹の痛みに耐えつつ、そのように論理を組み立てていった。
しかし、そうするとスタート地点、前提として幻覚が選択肢に入る意味が分からない。何故、三十谷は幻覚である可能性を考慮するのか。
そもそも三十谷は深夜、茂みに身を隠し、何をしていたのか。
キノコを食べて腹を下し、用を足していたのであった。
腹痛をもたらしているキノコが、幻覚を引き起こす成分を含む可能性は否定出来ない。
地味だから大丈夫、等と空腹に負けて口にしたのは失敗だった。数時間前の愚かな自分を呪いたい、三十谷は腹を抑えつつ、そんなことを考えた。
三十谷は、あくまでも変なところで冷静なだけ。本当に冷静な人間なら得体の知れないキノコを食べたりしない。
とにかく狸がどこかに行かねば、三十谷は身動きが取れない。未だ腹部は猛烈に痛むし、深夜に尻を丸出しにしていては、冷えて余計に悪化してもおかしくなかった。
「狸よ、去れ」奇妙な祈りが三十谷の頭を埋め尽くしていく。
スンスン。
鼻を蠢かせる。気の所為かと思っていたが、どうも臭う。
これがニンゲンの町の臭いなのかな?
だとしたら、ショックなんてもんじゃない。ガッカリだ、幻滅だ。日本は衛生的だ、と学んだのにな。
獣ヶ丘だって、こんな臭くない。
そりゃ、汲み取り式の家にバキュームカーが来た時とか、ちょっと臭う時はあるけど。
臭いが強過ぎて、鼻がおかしくなりそうです。と言うか、もしかしてすぐ近くに何かあるんじゃないの?
それこそ汲み取り式のトイレとか、肥溜めみたいな。
……もしかして、誰かが用を足してたりして。
「どこさ、臭うんだべなぁ?」
ぐるぐる回ってみたけど、何も……。
いや、何か目、見えたような……。
後ろの茂みに、何か、いる!
え、クマ?
いやいや、違う。違います。
……あれは。でも、見間違いかも知れないし。
そっと、そっと振り向いたらそこには……。
に、にに、ニンゲンじゃん。やっぱりニンゲンじゃんか。マズイマズイマズイ。マズイよ、どうしよう。喋ってたの聞かれてたよ、これ。
でも何で、下半身が出して……。
いやいやいや、それは今は置いといて。
ニンゲンと会うどころか、喋ってるのも聞かれた。一応、カントリー風に喋っといたのはファインプレーだったけど。
どうする、どうする。どうしたら正解なの?
分かんないよぉー。
「ど、どうも」
どうも?
今、どうも、って言った?
この状況、ニンゲン的には日常ってこと?
私、狸なんですけど?
狸相手でも、こんな?
あ、喋ってたから?
と、とにかく返事した方が良いかも。何か気まずそうに目、そらしちゃったし、顔が赤くなってきてるし。
「どうも」
言った、言っちゃった。返事しちゃったよ、私。
ニンゲンと、喋っちゃった。わ、シチュエーションは変だけど、凄い。ちょっと感動。
三十谷は心の中で「うわ、マジで喋った」とこぼした。
現実ならば喋る、推定化け狸との遭遇。
幻覚なら、自分が生み出した空想上の大狸との会話。
どちらでも、危機的状況としか思えない。
どちら、でも。……ここに来て妙なところで冷静になる、特異な性質が他のケースの存在に気付いてしまった。
これが幻覚だったとして、狸が全くの無、とは言い切れないことに。
つまり、あくまでも幻覚は、喋る狸。
喋らない、普通の狸と会話している可能性もある。この場合、幻覚では無く幻聴になってしまうが。
それならば、まだ良い。
もしも、目の前に居るのが、本当は人だとしたら。人が、狸に見えてしまっているとしたら。
三十谷の全身に、外気のそれとは別の寒気が走った。
深夜、野外にて用を足す姿を見られる。そこに人としての尊厳が介在する余地が、果たして残されているのだろうか。
更に、酷い可能性に思い至る。
人が狸に見えてしまう程に強い幻覚なら、その人がこちらをスマホか何かで撮影していても、分からないのでは無いか。
もしかしたら、相手は一人じゃないかも知れない。複数の人に囲まれているのに、幻覚で一匹の狸に見えているだけ。
より恐ろしいことを想像してしまい「……いや、そもそも」思わず三十谷は口に出してしまった。
ここが町外れの高台で、茂みの中にいると言うのも幻覚だとしたら。
今いる場所が、どこだっておかしくない。町中でも、人の家でも、スーパーマーケットでも。
「あ、わわ、わ、わは、は」放心して呻く。いつの間にか、自分が寒さを感じなくなっていることさえ、三十谷は分からなかった。
ポロポロ、涙と、別の何かをこぼしながら、ただ震えている。
ニンゲンについては授業や、視察経験者の話でしか知らないけど、明らかに普通じゃないよね?
何かブルブル震えながら、呻いているし。
……あ、何か、また出てません?
体調、悪いみたいで気の毒。
そう言えば小さい頃に「拾い食いしちゃ、メッ!」って、お母さんに叱られたっけ。その少し前に、落ちてた饅頭を食べて、近所のマーちゃん(仮)がお腹壊したんだよね。
このニンゲンも拾い食いしちゃったのかな?
……なーんて。ニンゲンだし、見た感じオトナだし、そんなわけないですよね。
お家にトイレが無いか、間に合わなかった、とか?
それにしても、どうしたら……。
パニックになった時、自分より酷い人を見て落ち着く、みたいな気分になれたのは良いけど。こんなパターン、習って無いしなぁ。
「……あ、そっが。なしてこったら簡単なごと、思い浮かべねんだろ。ぐやしっけど、ポンコツのポン子呼ばわりされでも、しがたね」
思わず、ボソボソと独り言が出てしまった。
ニンゲンには聞こえぬくらい、小さな声だから大丈夫、……なはず。
とにかく、善は急げ。
狸が、去っていった。
未だ放心状態にある三十谷は、当然と言うか気付いていない。
それから数分経ち、セーラー服を着た女子高生が現れても、しばらく気付かなかった。正確には、誰かが近くに立っていることは認識したものの、未だ幻覚と現実の区別がつかず、何の反応も出来なかった。
「……あのぉ、大丈夫ですか?」
心配そうな顔の、女子高生が声をかけてきた。はじめ三十谷は、ぼんやりと眺めていたが、徐々に焦点が合ってくる。
「こ、これは現実ですか?」
「……え?」
驚いた表情を見て、三十谷の頭が正常な働きを取り戻していく。それも急速に。
きっと勇気を出して声をかけてくれたのだろう。それなのに意味不明な問いが返ってくる。気持ち悪いと言うか、怖いに違いない。
「あ、いや、ごめんなさい。何でもないです、大丈夫です」
「ほ、本当ですか?」
少女の目線が下がっていくのを、三十谷は見た。
「あ、あー。……あの、すぐ片付けるので、少し向こうを向いてもらえないでしょうか?」
「あ、は、はい、こちらこそすみませんでした。み、見ようと思ったわけじゃなくてですね!」
恥ずかしそうに少し慌てて、少女は背を向けた。
謝らなきゃならないのは、こちらなのに。三十谷は自分よりもずっと大人な対応をする少女に、心の中で詫びながら、諸々の後始末をした。
三十谷が地面を踏み固めていると「もう、終わりました?」と少女。
「ええ、片付きました。すみません」
「お腹、壊してらしたんですか?」
「……あー、恥ずかしいんですけどね、その。キノコ、食べたんです。お腹が空いてて。それが、どうも毒のあるキノコだったようで」
「マーちゃんより酷い」
少女が呟く声があまりに小さく、三十谷には聞き取れなかった。
「へ?」
「いえ、何でもありません。でも、見た感じ毒はもう、抜けていそうですね」
「あ、あー、お陰様で」
何がお陰様なんだ、と後から三十谷は振り返ることになるのだが、この時はそのようなことは考えなかった。無意味に肩をグルグルと回したり屈伸してみたり。それを見た少女が苦笑いしなければ、ジャンプもしようとしていた。
「……お元気になられたようで、良かったです。では、私はこれで」
「ご心配どうも。いや、もう本当にすみませんでした」
深々と頭を下げた少女に、三十谷も頭を下げた。
去っていく少女の背中を見送りながら、バッグに手を突っ込んでタバコを探る。そこで、半年前から禁煙していることを思い出した。
現実、だ。
と言うことは狸が喋っていたのも、現実だったのだろうか。
……今となっては、どちらでも良いか。遠くの空が明るくなってきた。朝の気配。
「さーて、帰って寝るとしますか」
三十谷は町へ続く道を下りはじめて、何か引っ掛かるものを感じ、足を止めた。物理的なものではない。精神的な、引っ掛かり。
少女は、町と逆方向に歩いて行った。あちらにも町はあるにはあるが山を越えた先。とても歩く距離じゃない。
それに、夜明け間近だったとは言え、夜中だ。あんな年齢の子が出歩く時間じゃない。
セーラー服を着ていたのだって、考えてみればおかしい。
「……やめやめ」三十谷は頭を振った。
何もかも全てに答えなんてない。考えても仕方ないことだってある。
これも、そうだ。
とりあえず今後は得体の知れぬキノコは食べない。そう誓うに留めた。




