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つつがなく

 強い薬剤耐性を持ち、人に寄生するツツガムシが、十年くらい前から広がり始めていた。元から細々と一部の地域で暮らしていた種類なのか、普遍的な種が突然変異したのかは定かではない。或いは、どちらの要素も重なっている可能性もある。

 いずれにせよ、ネズミではなくヒトを選んだツツガムシは、生息域を拡大していった。物品の輸出入、旅行者。様々なルートで。

 被害も甚大だった。

 超耐性ツツガムシが媒介するツツガムシ病もまた、通常とは異なっていたのである。死亡率こそ1パーセントにも満たなかったが、様々な機能に障害をもたらすことが判明した。免疫不全、生殖機能の低下。それらの後遺症は、人類の繁栄にとっては致命的とも言えた。

 更に最悪なことに超耐性ツツガムシの、新型ツツガムシ病原因菌保有率はほぼ100パーセントだった。捕獲された地域全てにおいて、である。

 手の施しようのない病気の流行がもたらすものは、それによる害だけではなかった。

 地球、自然からの警告。天罰。傲慢な人間への報い。カルト宗教や、それに類するものがいくつも生まれた。そこかしこで。

 根拠の無い対策、無意味な商材に大金が飛び交う。

 先進国でさえ打開策を持たぬ状況は、時代に逆行するような状況を生みつつあった。

 そんな中で、ついに某国の機関が開発に成功する。

 耐性持ちツツガムシにも効く、蒸散式殺虫剤ツツガナC。

 一般的な害虫用のそれらと同様、水を加えると煙が発生。部屋の隅々まで殺虫成分が行き渡り、ツツガムシを駆除出来るという代物。

 ツツガナCはまたたく間に売れた。その甲斐あって、もはやかつてのツツガムシと同程度まで、超耐性持ちの危険度は低下した。

 しかし、また新たな被害、予期せぬ被害が発生する。

 まるで眠るように、この世から離脱出来るというものだった。

 方法は簡単。通常推奨される量の3倍以上のツツガナCを、密閉した室内で同時に使用する。それだけ。

 咳き込むこともなく、意識を失い、そのまま。

 潜在的に願望を持つ者たちにとって、どれほど魅力的だったのだろうか。またたく間に、各地で流行してしまった。

 それもこれも、特別対応によって試験が十分に行われなかったことによる。

 ただし、マウスを用いたテストは行われていた。勿論、マウスには何の被害も見られなかった。想定される十倍の濃度でさえ、半数致死量に満たない。結果的にマウスではヒトのように作用しない、というだけのことだったが。

 ツツガナCは多くの国と地域で規制されることになった。

 しかし、大した規制はかけられなかった。未だツツガムシが根絶させられたわけでも無ければ、被害が無くなったわけでもないからだ。せいぜい購入数の制限や、購入時に身分証明が求められる程度。

 焼け石に水。一向にツツガナCの、本来とは異なる利用法は減らなかった。

 ツツガナCの改良も進められてはいたものの、安全性を高めつつ効果を維持するのは困難を極めた。必要量が3倍から5倍になったところで抑止力としては不十分。新たな成分や配合を見つけなければ、根本的な問題は解決しそうにない。


 これが、そうか。少年は改めてまじまじと見つめた。

 目の前には赤と黒の禍々しい、缶が5つ並んでいる。遥かな旅路、天国へのチケット。

 いや、天国にはいけないか。

 これから自分がやろうとしていることが、罪深いとされていることは知っていた。如何なる理由があろうと罪だなんて理不尽だ、と思いつつも。

 どうせ罪になるのなら、自分を傷つけた者への復讐をするべきなのかも知れない。だが、それも面倒だった。

 失敗して反撃され、苦しむことになれば最悪だ。そこで終わることだってあり得る。

 そんな風になるくらいなら、安らかに眠る方が良い。

 仮に成功したって、大変だ。きっと耐えられなくなって、自分も片付ける羽目になる。それは良いけれど、残った家族のことを思うとつらい。加害者の、犯罪者の遺族になるから。

 自分がどんな目にあっていたか、なんて誰も考慮してくれないだろう。

 少なくとも、あいつらの親や兄弟には期待なんて出来ない。被害者ヅラして両親や、妹を攻撃するはずだ。

 そうなるぐらいなら、一人で去る。

 少年は決意し、蓋を外した。天国へのドアに手をかけた気分だった。

 事前にペットボトルに用意していた水を、順に注いでいく。

 霧が勢いよく吹き出す。それとともに意識が、だんだん遠のいて。


「ちょっと、ご飯だって何度呼べば分かるの?!」

 声に顔を上げると、母が怒鳴っていた。

 そうか、失敗したのか。少年は悟った。

 密閉が不完全だったか何かで、十分な量のガスを吸えなかったに違いない。

「寝るなら寝るで、きちんとベッドで寝なさい。何で床で寝るんだか、全く……。ご飯出来てるから、早く来なさいよ?」

 それだけ言うと、母は部屋を出て行ってしまった。

 ツツガナCの缶は、どこにもない。回収して行ったようには見えなかったが、どういうことだろう。

 もしかして、あれは夢だったのか。

 或いは……。

「いでで」

 ベタながら頬をつねり、夢じゃないことを確かめる。

 こちらが現実。やはり、あれは夢。妙にリアルだったが。

 立ち上がると、少年は机の引き出しを開けた。

 そこに4つ、殺虫剤の缶がある。……はずだったのに、1つも見当たらない。

 まとめ買いが出来ないため時間をかけ、店を変えて集めていたのに。

 ようやく5つ目を買って、実行出来るようになったと考えたのに。

 もしやあれさえも、夢だったのだろうか。

 夢の中で2か月近く過ごした、なんてあり得るのか。あんなこともこんなことも、夢だったなんて信じられない。

 一体、いつから夢を見ていたのか、考えてみても分からない。

 少年は、ゾッとした気分のまま、しばらく呆然としていた。


 ツツガナCによる離脱とは、文字通り離脱である。

 喪失ではない。

 少年は離脱に成功していた。

 だからこそ、殺虫剤の缶は存在しない。

 もっと正確な言葉を用いるのなら、転送。

 彼自身は気付いていないが、殺虫剤を使用する前と後の世界は違う。

 殺虫剤を使った世界に、彼はもういない。

 冷たくなった息子の体にすがりつく、残された家族。多少の罪悪感こそ抱きつつも、いずれ武勇伝かのように語るクラスメイト。そうした人々がいるだけ。

 彼自身は、別の世界にいる。

 かつていた世界とあまりに似ているのは、たまたまそうなっただけ。必ずしも誰もがそういった世界に辿り着く訳では無い。

 目覚めた瞬間、異世界に飛ばされたことに気付ける。そんな体験をする者も少なくない。

 少年は少なくない違和感をおぼえつつも、元いた世界に良く似た異世界で生きていくのだろう。ツツガナCが存在しない世界で。

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