味見
「ああ、ダメですね、これは」
スープに口を付けてすぐに、タヌキは言った。
ラーメンを食べるタヌキ、ラーメンダヌキ。このタヌキが他のタヌキと違うのは、人と会話出来ること。ではない。
タヌキが喋るのは何も珍しいことではない。
ラーメンを食べることも、普通。ラーメンダヌキなんて呼び名が浸透しているくらいだから、当然。
では、何が他と異なるのか。
味の批評が出来るのである。それも、いい加減なものじゃない。
このタヌキたちの舌を満足させたラーメン屋は、誰も彼も大成功。ラーメンダヌキの中のラーメンダヌキ。
そのせいで命を狙われたりもする。
自分以外がラーメンダヌキに出会わぬようにするには、始末するのが手っ取り早いというわけである。
実際、もはやラーメンダヌキの暮らす場所は随分と減ってしまった。タヌキたちも、自身が特別なラーメンダヌキと明かそうともしない。
出会うこと自体が奇跡に近いと言って良かった。
そんなタヌキに味を見てもらう機会を得た、世界一のラーメン屋を目指す若者。それがタツオだ。
脱サラしラーメン店で修行、早々に独立し店も繁盛。現在、三号店までオープンした。充分に成功している。
味も評判で、一番だと言ってくれる客もいた。レビューサイトでも高評価で、何度もランキング一位になっている。
それでも世界一どころか、日本一にさえ届いたとは思えなかった。
何かが違う、何かが足りない。
今一度修行すべく、閉店後は山手の叔父の家で寝る間も惜しみ、ラーメンを作り続けていた。
タヌキが現れたのは一年前のこと。縁側に腰掛け、夜風にあたりながら新たなラーメンの味見をしていた時だった。
庭の片隅、木陰から一匹のタヌキがこちらを眺めていた。
ラーメンダヌキの噂は知っていたが、その時は全く頭に浮かばなかった。ただ、道を見失いかけていて、寂しかったのだろう。タヌキでも良いから、悩みを聞いて欲しい。
そして、ラーメンを食べてもらったところ、ただのタヌキでは無かったことが分かったのだった。
以来、月に二度程タツオはタヌキにラーメンの味見をしてもらっていた。
この夜も、そうだった。
「どこがいけませんか? ……前よりも薄く仕上げましたが」
「味自体、と言うか、塩味に関しちゃその通りです。きちんと改善されていますね。が、そもそもベースの醤油が」
「同じですよ?」
醤油は変えていない。
その醤油もタヌキに何度も何度も、様々な銘柄や組み合わせを試してもらって決めたものだ。
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。同じ、それが良くないのです」
「どういうことです?」
「コマーシャルなんかでも、聞きませんか? 酸化がどうのと」
「酸化? ……まさか」
「良かった、お気づきになられて。その、まさか、なんですよ」
「醤油が酸化するってのは分かります。けど、あれから十日ぐらいしか」
「かめに移しましたよね? 何のためです? ダシは別取り。昆布なんかを加えるわけじゃない」
「あれは……」
「雰囲気、ですか?」
雰囲気だけではない、はずだった。
だが、本当にそうなのだろうか?
漫然と、何か熟成するように思い込んでいた。根拠がある、と断言出来ない以上は、雰囲気と言われても仕方ない。
「あ、いや」
「何も否定しちゃいません。大事ですよ、雰囲気は。我々も、その辺りは分かっているつもりです」
「は、はぁ……」
ラーメンダヌキの舌に関しては、信用している。タツオは身をもって経験したことで、そこに疑いは全く抱いていない。
それでも、雰囲気について理解出来るかは疑問だった。
何せ、人語を解し用いさえするとは言え、タヌキ。こうして庭先で語らいこそすれ、店にやってきたなんてことは無い。
化けられると言うのは、昔話。フィクションだ。
そんな考えが、彼の表情にありありと浮かんでいる。
「こんな縁側で、犬食いして、と? これはこれで乙なもんです。言うなれば屋台での一杯のような。人ならば、ね」
「はい」
「話を戻しましょう。かめの口は、お玉が入るよう広め。当然、空気に、酸素に接触する面積も広くなります。それに、あなたは意図的かは知らないが、日にちを間違えた」
「え、いや、そんなことはありません。前にお出ししたのは……、あ」
「ええ、ええ。そうなんですよ、食べた日のことじゃありません」
「かめに移したのは二週間以上前、ですね。あの日よりも、数日遡ることになります」
「微妙です、本当に。ですがね、そこに拘りたいからこそ、あなたはこうして私なんぞに依頼した。こんな動物に、なんて思いながらも」
「いえ、そんなことは!」
タツオは本心から言ったのだが、タヌキは興味なさげに首を振った。
「良いんです、大切なのはそんなことじゃない。あなたの、ラーメンにかける想いです。……で、あれば。酸化によるごく僅かな、人には分からぬかも知れぬ差異にも、気を配るべきでは?」
「……そうですね、本当、おっしゃるとおりです。いつしか、合格を貰うことだけを意識していた気がします」
「あくまでも、私の主観でしかありません。きっとそこらのタヌキなら、酸化なんぞ気にもしないでしょう。その普通のタヌキであっても、人間よりは鋭敏な感覚を持つ」
「はい」
「もしも、ただ売りたい、稼ぎたい、成功したい。それなら、私なんかじゃなく専門のコンサルタントに頼むべきなのです。しかし、あなたは違う。そうですよね?」
「はい! 俺は、俺は美味しいラーメンを、世界中の誰もが、いや、全ての生き物が旨いと思うラーメンを作りたいんです!」
そう、それこそタツオの野望だった。夢というにはあまりに壮大、と言うよりも荒唐無稽。
誰にも、弟子たちにも話したことはない。笑いこそしないだろうが、冗談だと思われるのがオチだ。
冗談じゃない。本当に、冗談じゃない。本気も本気だ。
年齢や性別、人種を超えてもまだ足りない。種族すら、超える。
ラーメンにはその可能性があるはずだし、それを最初に成すのは自分だと信じている。
このタヌキとなら、きっと夢じゃない。
彼は千載一遇のチャンスを逃すつもりなど無かった。
「流石に、野望が大きすぎる気はしますが、心意気は素晴らしい! 私も自身の健康を代償として、喜んで捧げられるというものです」
「代償? お、俺のラーメンは、体に悪いんですか!?」
「ふふふ、私はタヌキですよ? ヒトの食べ物は多くが、毒とさえ言えるものです。ラーメンだって、例外じゃありません。ごくたまに、仲間と分け合って一口二口啜るならいざ知らず。月に二度以上。それも一晩に数杯。スープまで、しっかり飲み干してちゃ、内臓もダメージを受けます」
「で、でもあなたは、美味しいと」
「美味しいけれど、毒なのです。けど、安心してください。これは、タヌキにとっての話。あなたの作るラーメンは、ヒトには毒なんかじゃありません。勿論、そこらのものと違い、スープまでしっかり味わったって何の問題も無いでしょう」
「そんな、けど、俺は。本気で、あなたのようなタヌキだけじゃない、犬も猫も食べられるような……、そんな、ラーメンを……」
「ネギ不使用、油脂、塩分ともに最低限。採算なんて無視して、愚かしい程に、努力してきた。知っていますよ。この一年、私が、あなたの作るラーメンを、一体、何杯食べてきたと思っているのです?」
「でも、それでも、タヌキには、毒だなんて」
「人は人、タヌキはタヌキ。それだけのことなんです」
心なしかタヌキは悲しげに見えた。
「……最後に、一杯だけ。一杯だけ、チャンスを下さい! それで、完成させてみせますから」
「私はね、全然。何杯だって、食べてあげたい。味見して、より高めて貰いたい。……ですが、もう、無理みたいです」
「そんな! どうすれば、……獣医に診てもらえば、きっと!」
「ダメですよ。自分の体のことは、自分が一番分かります。なに、あなたなら大丈夫。今日のは、ほぼ完璧でした。後は、醤油の酸化。そこだけ注意すれば、完成です」
「でも、そんな。こんなのって」
「私はね、害獣です。庭先に現れて、食べ物をもらう。そんな私のために流す涙、塩分も水分も勿体ない。なに、じきにあなたは私のことなんて忘れますよ」
「忘れるわけ、ないじゃないですか!」
自分が涙を流していることすら、タヌキに指摘されるまで気付いていなかった。
タヌキと過ごした時間が、まるで走馬灯のように。
「いいえ、忘れます。なんせ、あなたの店はきっと今より更に繁盛しますから。毎日毎日忙しくて、タヌキのことなんて、思い出す暇なんてありませんよ」
「……タヌキさん。俺、かならず、世界一のラーメン屋になります。そして、絶対忘れません。あなたのこと。……毎月、ここにラーメン供えますから。食べて下さい」
「ふふ、分かりました。スープまできっちり、一滴も残さず食べますね。舐めたようにキレイにして、丼をお返しします」
「いつも、舐めてるじゃないですか」
泣き笑いなんて表情パターンが自分にあるだなんて。ジョークめかしてタヌキにツッコミを入れながら、タツオは新鮮な気分を味わっていた。
「……はは、は、眠くなってきました」
「タヌキさん!?」
「触っちゃいけません。食品を扱う方が、野生動物に触れるなんて、ご法度もご法度です、よ? 良いんです、ささ、どうぞ。私のことは、お気になさらず」
「あ、ああ、ぁうっ……」
タヌキの言うとおりだ。
実際、初回以降はタヌキの味見用の丼を用意したくらい、きっちりと分けている。食器だけでなく調理器具、シンクや洗浄に使うスポンジもタヌキ専用のもの。
タツオは申し訳なく思いつつも、素直に手を引っ込めた。
「そうです、それで良いんです。……あ、そうそう。忘れないで下さいね?」
「え、あ、はい! あなたのことは忘れません!」
「いやいや、お供えですよ」
「あ、ああ、すいません。はい、勿論、忘れたりなんてしません」
「食べに、来ますから。それじゃ、……さようなら」
随分弱っているのだろう。タヌキはヨタヨタとよろけつつ、いつものように木の向こう、藪の中へと消えていった。
タツオはそのまま、空が白むまで眺めていた。
「うっ、うぷっ、ぐ、ぐるじ……」
タヌキは寝床で横になりながら、パンパンに膨らんだ腹を見た。
完全に食べすぎた。前回ほぼ満点のラーメンを出してきたため、最後の一杯だと予測していたのが、タヌキの誤算。
ラーメン一杯では足りないな、なんて考えから畑に寄り道してきた。結果から言えば、完全な間違い。お陰で腹部が破裂しそうになった。
朝になってもまだ、空腹には程遠い。満腹過ぎて眠れないなんて目に合うなんて。
ラーメンを食べて帰路についた頃、眠気だとタヌキが感じたものは血糖値の急上昇によるもの。気絶寸前だったのである。
悲しいかな、タヌキ自身も言っていたが、タヌキはタヌキ。そうした知識については、まだ知らないことがある。
青年が盛大な勘違いをしていたことも、何か妙だとは感じつつも気付いていなかった。
タヌキとしては今はもう食べられないと言っただけ。
毒というのは事実だが、頻度さえ下げれば平気だろうとも考えていた。月に二回、一度に数杯食べるのは危なくとも、月に一度一杯のみ食べるのは問題無い、と。
世界一じゃないかも知れないが、間違いなく美味しいラーメンがこれから毎月食べられる。タヌキは一時、自分の現状も忘れて夢見心地だった。
「あ、あぐぐ。やっぱり食べすぎましたね、これは」




