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ものさし

「たとえば世界がゆで卵だとしようじゃないか」

 ニイイイ、ゆっくり。じわじわと。笑顔は本来、動物において威嚇の意味を持つ。だなんて説が、かつて存在した。

 今やアーカイブでしか得られない、最早フィクションと疑われても仕方のない説。学説といえども、アカデミックなものが後ろ盾として残っていなければ、与太と何の違いがあろう?

 こんな時代が故に、実例は素晴らしい。

 目の前にいる生き残り、ヒトの生体が浮かべた笑顔。我々のそれもルーツが変わらないのかは分からないが、おおよそ同質には見えない。

 敵意こそ感じぬものの、威嚇行為めいた凶悪さだ。

 いや、醜悪か。変異体特有のものなのか、個人的特質によるものか。何にしても、自分の中に嫌悪感があることは認めざるを得ない。

 アーカイブも記憶も、在りし日のヒトの姿を鮮明に思い起こさせる。映像を再生するように、スムーズに。それらの中には、眼前の光景程におぞましくグロテスクなものは含まれていなかった。

 あまりに膨大過ぎて、照合不能なだけなのかも知れないが。

 万に一つも無い可能性について、検討する。或いは検討するポーズを取る。そんなことをしなければならない程、ピィュは旧人類(ヒト)を嫌悪していた。

 本能的に。生理的に。

 あたかもヒトが、ある種の虫に対して、抱くように。

 理性、理知。半ば機械めいた思考回路を有しながらも、抗えない。抑えることの出来ない感情。

 ある者が未熟さを呪う一方、幾星霜月日を重ね仙人じみた存在と成り果てようとも、未だ生物らしさを失わぬことに安堵する者もいた。

 ピィュは前者であるから、苦しむ。さりとて、ヒトのそれとは質も何も異なってはいたが。

 無限にも思える時間を生きる者のそれが、短命なヒトと同じはずはない。

「ゆで卵?」

 ピィュがそう口にするまでかかった時間は、一瞬と言っても良かった。

 ヒトの思考速度とは、違うのである。

「茹でた、卵。……知らない?」

「いいや、知ってる。続けて」

 掌を上に向けて右手を差し出すような動作。

 記憶か、アーカイブか。どちらだって大差は無い。情報と言う意味では同じだ。

 ピィュはそれらから得られたヒトの仕草を真似る。

 変異体だとしても、ヒトはヒトであるから。ヒトとして対応すべきだろう。

 吐き気と戦うように、ピィュは自らを律し、ヒト相手に相応しいと思われる言動を心がけた。

「世界がゆで卵ならば、ツルリと殻を剝いて中身が出るわけだよ。むしろそれこそが本体さ。何せゆで卵として供されるのは卵の方で、殻は単なるシールドみたいなもの。パッケージでもシュリンクでも構わないが。何と表現するかはさておき、大事なのは卵だ。分かるか?」

「ああ」

「表面を覆っている殻を全て引っ剥がさなくちゃならないんだ。林立するビルだの、何だのを」

「林立するビル?」

 そんなものとうに存在しない。

 ……なんて言い返したりはしない。ヒト相手でなくとも、マナーとしてそれぐらいは身についていた。

 争いは愚かだ。その愚かな争いの種をまいて、どうなる?

「地表に住むあらゆる生物が死に絶えるだろうが、さしたる問題ではない重要なのはこの星の存続だ」

「この星の、存続」

「そうだ。もはや我々には個々がどうこうなど言っていられる余裕などありはしない」

 現実を知らない者が、現実について語る。本当に知らないのか、防衛機能が働いて忘れているのか。開けてみなければ分からない。

 分かりたいとは思わなかった。

 まるで未来のことを語る口ぶりであったが、残念ながら過去だ。未だ来ぬものじゃなく、過ぎ去った。

 とうに。

 地表に住む生物種はほぼ死に絶えている。

 ビルなぞ土台らしきものさえ無い。荒れ果てた土地、濁った海や河川。植物はようやく繁茂しつつあるが、以前の種とは遺伝的な繋がりはほとんど持たぬものばかり。新種だらけだ。

 変異体に学者がいれば、嬉しがるかも知れない。

 ……変異体、か。

 ヒトのサンプル欲しさに急進派の連中が、長命に変異するウイルスをばら撒いた。無作為に。

 いくら滅びる運命とは言え、酷い行為だと非難するものもいたが、我々は争わない。結局は押し切られるように、決行。

 結果がこれだ。

 二百年近く経って、まだ生きている。

 滅びた星で。

 その変異体にも、ポツポツ死者が出始めた。流れは止められないだろうし誰も止めようとはしていない。想定していた通りだからだ。

 この変異体も、恐らく来年には存在しないだろう。

 ふと、悲しくなったような気がして驚く。たかだか二百年、短期間の交流で情がわいたか。

 ピィュは三万年生きてなお、新たな発見があることに感動した。


 長命ならば、増殖速度は遅くなるべきだ。

 結局、目的なんて最終的には遺伝子の存続でしかない。

 種の繁栄とは言うが、キャパシティがある。許容値を超えて増え過ぎれば、パイの奪い合いだ。

 増えて、減らして。また増えて。

 変化こそ、適応能力こそが強み。

 そうかも知れないが、目指すべきものが安定ならば。バランスが崩れぬうちは、無理して増える必要があるとは思えない。

 風の噂程度にしか、同族の死について耳にしないくらい、我々は長く生き続ける。この星が終わる方が先になるかも知れない。実際にどうなるかはともかく、シミュレーション結果はずっと変わらないままだ。

 恒星が死に、この星が死ぬ。それでも我々は死なない。

 新たな場所を求めて、旅立つだけ。

 見つからずとも、死なないだろう。船の中で、増えもせず減りもせず。生きる。

 何処かを今も彷徨う同族がいるという。百億年以上生きている年寄りから、一万年以上前に聞いたことがある。年寄りが彼らと別れたのは、一体いつなのか。

 年寄りと言っても、見た目では全く分からなかった。一万年以上の歳月が流れたが、きっと今もあのままなのだろう。自分の外見が、この一万年で何も変わっていないように。

 いや、髪型や服装は変わったか。

 とは言え、もう百年どころじゃなく同じような格好をしている。

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