横光利一「蠅」本文と解説⑤
五
宿場の場庭へ、母親に手を引かれた男の子が指をくわえて入ってきた。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ駆けてきた。そうして二間ほど離れた場庭の中から馬を見ながら、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで片足で地を打った。
馬は首をもたげて耳を立てた。男の子は馬のまねをして首を上げたが、耳が動かなかった。で、ただやたらに馬の前で顔をしかめると、再び「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで地を打った。
馬はおけの手づるに口をひっかけながら、またその中へ顔を隠して馬草を食った。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」
次に「宿場の場庭」のステージに登場したのは、「母親」とその「男の子」だった。
「男の子」はまだ「母親に手を引かれ」、「指をくわえて」いる、年少の子供。そうしてその発話も、「お母ア、馬々。」と幼い。自分の目に飛び込んできた馬に瞬時に反応するのは、子供ゆえだ。
母親は慣れたもので、「ああ、馬々。」と答える。いつものことだからだ。
幼子の興味・関心は、一直線に対象に向かう。「男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ駆けてきた」。母親の庇護を「振り切」り、目的物に向かって「駆けて」いく。
「そうして二間ほど離れた場庭の中から馬を見ながら、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで片足で地を打った」。馬の関心を自分に引こうとする様子。自分という存在を相手に認めさせ、相手からの反応を得たいのも、幼子の常だ。「一間」は約1.8mだから、4メートル弱離れたところから馬にちょっかいを出していることになる。やや馬を恐れている様子。
何やら小さな存在が自分に向かって一直線に近づき、おまけに「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで片足で地を打つので、「馬は首をもたげて耳を立て」た。子供を認め、そちらに視覚と聴覚の注意を払った様子。動物と子供は、親和性が高い。すぐに親しみ友達になれる。
「男の子は馬のまねをして首を上げたが」、人なので当然「耳が動かなかった」。しかし子供はあきらめない。興味を持った相手と同じことをしてみたい。「で、ただやたらに馬の前で顔をしかめ」てみるが、やはり耳は動かない。男の子は腹立ちまぎれに、「再び「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで地を打った」。何でも遊びの対象になる、子供の無邪気な様子が簡潔にわかりやすく描かれている。
馬はもう子供の相手はしていられないと、「おけの手づるに口をひっかけながら、またその中へ顔を隠して馬草を食った」。子供の相手より食い気なのだ。
馬に一緒に遊んでもらえなかった子供は、仕方なく、「お母ア、馬々。」と、母親に声を掛ける。自分が馬を見つけたことを誇り、母親の関心も馬に寄せようと思った発言。
これに対しても母親はすべて理解した上で、「ああ、馬々。」と子供に合わせてあげる。
無邪気な男の子と、幼い我が子をあたたかく見守る母親の様子が、簡潔だが的確に描かれている。
互いに愛し愛されている親子も、このあと無残にも死に至る。愛が、外的な力によって突然断ち切られる非情さ、不条理が描かれる。
なお、これについては最終回にまとめて述べる。




