横光利一「蠅」本文と解説④
四
野末の陽炎の中から、種れんげ(種を取るためのれんげ)をたたく音が聞こえてくる。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。
「持とう。」
「なアに。」
「重たかろうが。」
若者は黙っていかにも軽そうな様子を見せた。が、額から流れる汗は塩辛かった。
「馬車はもう出たかしら。」と娘はつぶやいた。
若者は荷物の下から、目を細めて太陽を眺めると、
「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」
二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした。
「知れたらどうしよう。」と娘は言うとちょっと泣きそうな顔をした。
種れんげをたたく音だけが、かすかに足音のように追ってくる。娘は後ろを向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。
「私が持とう。もう肩が治ったえ。」
若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた。が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」とつぶやいた。
真夏の「陽炎」の中、「種れんげ(種を取るためのれんげ)をたたく音が聞こえてくる」。種れんげは夏にさやをたたいて種を取る。
続く「若者と娘」の会話は、前後のつながりから以下のように推測される。
「娘は若者の肩の荷物へ手をかけた」とあるから、「持とう。」は娘の言葉になる。娘の言葉にしては簡潔で男性的だ。これに対し、「なアに。」は男の言葉だが、女性的。「重たかろうが。」は娘の言葉で、これもやはり男性的だ。この「若者と娘」は、このように、性が逆転しているかのような印象の言葉遣いをする。これは、二人の間柄の気安さや素朴さ、野卑さを表すものだろう。またこのふたりは駆け落ちをしようとしており、娘はその決心がついているのに対し、若者の方はまだ決めかねていることが背景にある。
重そうだから自分が持つという娘の申し出に、「若者は黙っていかにも軽そうな様子を見せた」。娘をかばう様子だが、「額から流れる汗は塩辛かった」。実際、その荷物は重いのだ。娘との駆け落ちも、気が重いのだ。
「馬車はもう出たかしら。」という娘のつぶやきは、若者との逃避行のスケジュール確認だ。
これに対し「若者は荷物の下から、目を細めて太陽を眺める」。夏の暑さと荷物の重さ、愛する人と一緒にいる喜び、その人とこれから駆け落ちしようとしているドキドキ。それらすべてがないまぜになった表情だ。「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」という言葉に、若者の恥じらいが感じられる。若者の言葉と様子からは、逡巡が感じられる。馬車の出発を待つようでもありためらうようでもある。
「二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした」。その理由は、「知れたらどうしよう。」という危惧からだ。娘はそう言うと、自分たちが思い切ったことをしようとしている状況を自覚し、「ちょっと泣きそうな顔をした」。自分たちの決断は本当に正しいのか。今ならまだ引き返すことができる。しかし既に彼と進むことと戻ることのいずれを選択するかは決めた。彼との逃避行の確信と、これまでの自分の人生を捨て去る・決別の不安。
そのような複雑な感情をふたりは胸に抱いているため、「種れんげをたたく音だけが、かすかに足音のように追ってくる」のだ。またこの音は、ふたりに最終決断を迫っているようでもある。「さあ、ふたりはどうするのか」ということ。
これに対し、「娘は後ろを向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけ」、「私が持とう。もう肩が治ったえ。」と言う。愛する人への気遣いと、ふたりで前に進むことの決意・決断がうかがわれる。
「若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた」。ここでは彼にはまだためらいがある。「が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」とつぶや」く。自分で自分に言い聞かせ、運命に身を任せようとする若者。
荷物が重く、若者と娘であるからには、やはりこのふたりは荷物をまとめて駆け落ちをしようとしているのだ。そのためにふたりは、「宿場の方へ急いで行った」のだった。そうしてその行く末には、残念ながら悲劇が待っている。
娘の、「知れたらどうしよう。」という言葉と、「ちょっと泣きそうな顔」。それに対する若者の、「知れたらまた逃げるだけじゃ」という「つぶや」き。重い荷物。互いを気遣う様子。これらだけで、ふたりが駆け落ちをしようとしていることを読者に認識させ、物語を読む楽しさを与えてくれる作者だ。




