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横光利一「蠅」本文と解説➉(最終話)

       十

 馬車の中では、田舎紳士の饒舌が、早くも人々を五年以来の知己にした。しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生き生きした目で野の中を見続けた。

 「お母ア、梨々。」

 「ああ、梨々。」

 馭者台ではむちが動き止まった。農婦は田舎紳士の帯の鎖に目をつけた。

 「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」

 馭者台ではらっぱが鳴らなくなった。そうして、腹掛けの饅頭を、今やことごとく胃の腑の中へ落とし込んでしまった馭者は、いっそう猫背を張らせて居眠りだした。その居眠りは、馬車の上から、かの目の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光を受けて真っ赤に映えた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下ろして、そうして、馬車が高い崖路(がけみち)の高低でかたかたときしみだす音を聞いてもまだ続いた。しかし、乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、僅かにただ蠅一匹であるらしかった。蠅は車体の屋根の上から、馭者の垂れ下がった半白の頭に飛び移り、それから、ぬれた馬の背中にとまって汗をなめた。

 馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた目隠しの中の路に従って柔順に曲がり始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることはできなかった。一つの車輪が路から外れた。突然、馬は車体に引かれて突き立った。瞬間、蠅は飛び上がった。と、車体と一緒に崖の下へ墜落していく放埒(ほうらつ)な馬の腹が目についた。そうして、人馬の悲鳴が高くひと声発せられると、河原の上では、()し重なった人と馬と板片(いたきれ)との塊が、沈黙したまま動かなかった。が、目の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を込めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。





 物語の最終話。

 ようやく出発した「馬車の中では、田舎紳士の饒舌が、早くも人々を五年以来の知己にした」。「四十三」歳の「田舎紳士」の鞄には、生まれて初めての大金が忍ばせてある。向かう先には家族が待っている。彼の心は高揚し、その口が軽くなるのは当然のことだろう。意気揚々と向かう気持と、大金の存在を決して他人に漏らすことはできないひそやかな喜び。

 馬車墜落により、乗客たちのこの交流も無に帰する。


 「しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生き生きした目で野の中を見続けた」。

 「お母ア、梨々。」

 「ああ、梨々。」」

 「生き生きした目で野の中を見続けた」「男の子」の目に映るのは、「野の中」の「梨畑」に()っている「梨」だ。この男の子は、以前登場した時には馬への非常な興味を示していた。このような様子と、「母親に手を引かれ」、「指をくわえ」る幼さは、男の子の純真さを表すだろう。無垢で何の罪もない子が、非情にも死に至ることでこの世の不条理が際立つ。


 「馭者台ではむちが動き止まった」。馭者の「居眠り」が始まる。


 「農婦は田舎紳士の帯の鎖に目をつけた。

 「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」」

 愚な農婦は馭者の居眠りに気づかない。彼女はただ、早く息子のもとに駆けつけたい一心で、時計に目をつけ、また時刻の確認をする。さらにこの言葉は、馬車をもっと速く走らせろという意味も含む。また、自分の問いかけに馭者の反応が無いことにも気づかない。


 「馭者台ではらっぱが鳴らなくなった」。農婦の焦りをよそに、馭者の居眠りが本格的になる。「そうして、腹掛けの饅頭を、今やことごとく胃の腑の中へ落とし込んでしまった馭者は、いっそう猫背を張らせて居眠りだした」。馬車を走らせながら、腹掛けの饅頭をすべて食べ終えた馭者は満腹となり、血糖値が上昇し、それが眠気を催させる。「弓を()る」という語は、老いて腰が弓のように曲がる意味なので、「いっそう猫背を張らせて」とは、馭者の特徴である「猫背」が、居眠りによってさらに腰が弓のように曲がったようす。うたたねではなく、ほぼ熟睡に近いだろう。馭者の意識は失われている。彼は夢のうちに転落し、正気に戻る間もなく亡くなる。


 ところで、先行研究の中に、次のようなものがある。

 農婦たちの強い促しに従って、馭者は定刻よりも早く馬車を出発させ、馬車を操りながら「腹掛けの饅頭を」「ことごとく胃の腑の中へ落とし込」んだ。「潔癖」で、「誰も手をつけない蒸し立ての饅頭」を好む馭者が、それを不潔な「腹掛け」に押し込むことはないだろう。だからこの時彼は、乗客たちの事情を慮り、定刻よりも早く馬車を出発させた、という推理だ。乗客たちに無礼とも思われる態度をとっていた馭者が、実は少しの善人だったという解釈。

 もし彼がこのような人だったら、乗客たちを目的地まで安全に送ることにも留意するのではないかと私は考える。乗客たちはそれぞれ目的地へ急いでいる。そこには待つ人がいる者もいる。定刻よりも早く出発してやろうと思う者ならば、責任をもって安全に送り届けようと考えるのではないか。そうしてそれが、プロのドライバーだ。つまり、乗客への気遣いができる人は、そもそも饅頭を「ことごとく胃の腑の中へ落とし込」み、満腹の状態になることはしないし、ましてや居眠りなどしない。中途半端な親切心というのであればまだ理解の余地はある。しかし彼は熟睡している。(このようなところにも、酒の匂いを感じる)

 従って、馭者が饅頭を「腹掛けの中へ押し込」んだのは、発車を早めるためではなかったと考える。そうするのが通常のことではなかったか。

 これはまた一方で、馭者の「潔癖」さが中途半端なものであったことも示す。彼は、他人の手が饅頭に触れることを恐れるが、それを自分の不潔な「腹掛けの中へ押し込む」ことは何とも思わない。自分の身体や物であれば、不潔さを感じないことは、この馭者でなくてもよくあることだ。


 このように考えを進めてくると、馭者の利己主義や油断がうかがわれる。先を急ぐ客がいるのに、出発を急がない。それは饅頭のできあがりを待つため。饅頭を腹掛けの中に押し込み、道中それを食べながら馬車を制御し、食べ終わると半醒半睡での馬車の制御。彼は、何度も通った道であるから馬任せにしても大丈夫と思っている。おそらく彼の居眠り運転は、これまでにもあったことなのだろう。そうしてその結果の墜落。悲劇は起こるべくして起こったということだ。その巻き添えとなった乗客たちが哀れだ。これまで馭者が無事だったのは、単に運がよかっただけだ。


 ここで物語の視点は、馬車の中からその上へとパンと変わる。(これは語り手によって行われる) 再び蠅の(視線の)登場だ。馭者の居眠りの長さの説明の中で、蠅から見た・見られた世界が描かれる。


 「馬車の上から、かの目の大きな蠅が」見たもの。

①「押し黙った数段の梨畑」。「押し黙った」とは、馬車のギシギシ音をたてて走るうるささに対し、「梨畑」の静寂が際立って感じられた様子。梨畑がまるで静止画のように固まって見えたさま。

②「真夏の太陽の光を受けて真っ赤に映えた赤土の断崖」。「真夏の太陽の光」の、高熱とまぶしさは、人にめまいを起こせる。だから危険な様子や状況であることが多い。ここでは、「赤土の断崖」がさらに「真っ赤に映え」ている。赤の上に赤を塗りつけた色彩は、人の血の赤黒さをイメージさせるし、「断崖」は、馬車の危うさを予感させ、そうして実際にそうなる。

③「突然に現れた激流」。一行はそこに、まさに「突然」飲み込まれようとしている。


 馬車の上で蠅は、その「大きな」目で、①を「眺め」、②を「仰ぎ」、③を「見下ろ」す。視線があちこちに配られた様子がわかる。からだは馬車の上にとどまっているが、視線だけは周囲を見回している。

 これは当然、周囲に常に気を配らなければ命が脅かされる蠅の宿命ではあるが、この注意深い様子と馭者の居眠りは鋭い対照となっている。馭者の居眠りは、「馬車が高い崖路の高低でかたかたときしみだす音を聞いてもまだ続い」ているのだ。


 すっかり寝入った馭者。それに気づかぬ乗客たち。「乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、僅かにただ蠅一匹であるらしかった」。それぞれがそれぞれの事情でこの場に集まり、そうして自分の命が愚かな馭者の手に握られていることを夢にも思わない乗客たち。これは、我々の日常でも同じことが言えるだろう。


 この時蠅は、神の視点を有している。蠅だけがすべてをお見通しなのだ。愚かな人間どもをその大きな目で観察する彼は、どう思って見ていただろう。

 次に蠅は行動を起こす。


 「蠅は車体の屋根の上から、馭者の垂れ下がった半白の頭に飛び移り、それから、ぬれた馬の背中にとまって汗をなめた」。

 馬車の屋根の上から移動した蠅は、馭者の居眠りを揶揄するように、「馭者の垂れ下がった半白の頭に飛び移」る。「垂れ下がった」からは、馭者の体から完全に力と意識が抜けうなだれているさまがうかがわれる。「半白の頭に飛び移」ったからは、「いつまでも居眠りしていないで、早く起きろ。しかし、この馭者はそれでも起きないだろうな」という蠅の様子がうかがわれる。馭者の頭から「ぬれた馬の背中に」移動した蠅は、そこに「とまって汗をなめた」。馬を慰撫する気持ちからか、水分の補給のためか。それとも、墜落の予知のためか。


 「馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた目隠しの中の路に従って柔順に曲がり始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることはできなかった」。

 おそらくこの馬は、何度もこの山道を通っている。「目隠しの中の路」という狭い視界であっても、それ「に従って柔順に曲がり始めた」からだ。しかしそれでもすべてを考慮することはやはり馬にはできない。そこに馭者の出番があるのだ。しかしその頼みの綱はすっかり寝入ってしまった。

 「人馬一体」という言葉がある。「車体の幅」に気をつけて通行しなければならない細い山道の、しかも「崖の頂上」部。馭者には本来、さらなる注意が必要だった。


 馭者の怠慢が悲劇を生む。

 続く部分は再び短い表現で畳みかけるように述べられ、悲劇を効果的に表現する。

「一つの車輪が路から外れた。」

   ↓

「突然、馬は車体に引かれて突き立った。」

   ↓

「瞬間、蠅は飛び上がった。」…「その(瞬間)」がわざと省略され、事態が次々に・あっという間に展開したことを表す。蠅だけが、身軽に飛翔し生き長らえることができた。

   ↓

「と、車体と一緒に崖の下へ墜落していく放埒な馬の腹が目についた。」…ここも、「する(と)」が省略されている。「放埓」は、気ままに、遊楽にふける様子。ここは、馬が空を足で蹴って歩もうとする様子や、やっと自由を得た様子を表すか。馬車の屋根から飛翔し、空中にとどまっている蠅の目に、転落する「馬の腹」が見えた様子。馬はさかさまに落ちて行った。

   ↓

「そうして、人馬の悲鳴が高くひと声発せられると、」…「ひと声」からは、まさに死ぬ前に「ひと声」しか発することができなかった様がわかる。あっという間の出来事なのだ。

   ↓

「河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊が、沈黙したまま動かなかった。」…あっという間の出来事の次の瞬間の様子。すべての生あるものは、死によって「沈黙したまま動かな」い。いまや「人と馬と板片」は同列・等価の存在となり、ひと「塊」となっている。


「が、目の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を込めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった」。

 唯一、蠅だけが命を保つことができた。彼は卑小な存在だが、愚かな人間どもに全くかかわっていないがゆえの生存だろう。その「大きな」「目」で、一行の悲劇を冷たく観察する蠅。せわしなく立ち働く人間の死とは別に、彼だけが「完全に休まった」。だから彼は「その羽根に力を込め」ることができるし、「悠々と青空の中を飛」ぶこともできる。ここで蠅は人間存在を完全に上回っている。これは、「一匹」ではなく「ひとり」と表現しているところからもわかる。今や蠅は、人格を持った賢者なのだ。だから、蠅の目には、人間を蔑視する視線が感じられる。

人の死に対する蠅の完全休養と力の充実。人間どもの墜落による圧死に対する「悠々」とした態度。人は動かず、蠅だけは自由を手に入れる。「青空の中」を飛び回る蠅は卑小だが、この時彼は高等であるはずの人間を超えたのだ。

「が、」という短い接続詞が、墜ち行く人間たちと決然として別れる蠅の様子を表している。


冒頭部の蠅は蜘蛛の巣から落下するが、命は落とさない。これに対し馬車の乗客たちは崖下へと落下し、命を落とすことの対照。蠅はただの虫に過ぎないが、それぞれ事情を抱える高等な人間よりも、生命力の点においては格段に高い。人のさまざまな人生は、馭者の(酔いによる)居眠り運転によって崖下へ落下し簡単に奪われる。下等な蠅は軽々と「飛び上が」り、死を迎えた人間を置き去りに、「ただひとり、悠々と青空の中を飛んでい」く。このことは、蠅の生命力の強さというよりも、何も考えていないようで実は生き延びることができる身軽さを表している。人生に苦悩し高等と思われる人間は、たった一人の不注意によって死に、下等な蠅がかえって生き延びるアイロニー。だからこの物語は、ただ単に人の命のはかなさを描いたのではなく、むしろ、蠅のような下等な存在の命のしぶとさを描いたものだ。

目的をもって馬車に乗り込んだ人々は、それが果たせず無残にも突然強制的に死に至る。人の命の不安定さ、不如意さ。それを軽々と超える蠅のたくましさ。何も考えぬ者の方が長生きする。


「農婦」は命の心配をしたせがれに会えず、自分の方が先にあの世に旅立った。彼女はあの世でせがれと会えるだろうか?

「若者と娘」の駆け落ちは果たせなかった。あの世でもふたりは仲良く暮らせるだろうか?

息子の成長を楽しみにしていた「母親」と、未知なる世界への希望に輝く「男の子」の「生き生きとした目」は閉じられた。ふたりは父親のもとに向かおうとしていたものか。これも、あの世でもふたり仲良く暮らせるだろうか?

「田舎紳士」が稼いだ800円の大金は無駄になった。その金は、遺族へ届けられるだろうか?

「猫背の老いた馭者」は、「居眠り」により、自分と乗客たちを「沈黙」させた。乗客たちたちとその関係者の無念を身に受け、地獄で責め(さいな)まれるだろうか?


〇「文学のふるさと」坂口安吾について

 ここで、坂口安吾の「文学のふるさと」という文章を紹介する。これは雑誌「現代文学」に、1941年8月に発表された。


 シャルル・ペローの童話に「赤頭巾」という名高い話があります。既にご存じとは思いますが、あらすじを申しあげますと、赤い頭巾をかぶっているので赤頭巾とよばれているかわいい少女が、いつものように森のおばあさんを訪ねてゆくと、狼がおばあさんに化けていて、赤頭巾をむしゃむしゃ食べてしまった、という話であります。全く、ただ、それだけの話であります。

 童話というものには大概、教訓、モラル、というものがあるものですが、この童話には、それが全く欠けております。それで、その意味から、アモラルであるということで、フランスでは甚だ有名な童話であり、そういう引例の場合に、しばしば引き合いに出されるので知られております。

 童話のみではありません。小説全体として見ても、いったい、モラルのない小説というものがあるでしょうか。小説家の立場としても、何か、モラル、そういうものの意図がなくて、小説を書き続ける──そういうことがありえようとは、ちょっと、想像ができません。

 ところが、ここに、およそモラルというものがあって初めて成り立つような童話の中に、全然モラルのない作品が存在する。しかも三百年も引き続いてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きている──これは厳たる事実であります。

 シャルル・ペローといえば、「サンドリヨン」とか「青髥」とか「眠りの森の少女」というような名高い童話を残していますが、私は全くそれらの代表作と同様に、「赤頭巾」を愛読しました。

 否、むしろ「サンドリヨン」とか「青髥」を童話の世界で愛したとすれば、私は何か大人の寒々とした心で「赤頭巾」のむごたらしい美しさを感じ、それに打たれたようでした。

 愛くるしくて、心が優しくて、全て美徳ばかりで悪さというものが何もないかれんな少女が、森のおばあさんの病気を見舞いに行って、おばあさんに化けて寝ている狼にむしゃむしゃ食べられてしまう。

 私たちはいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、しかし、思わず目を打たれて、ぷつんとちょん切られたむなしい余白に、非常に静かな、しかも透明な、一つの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

 その余白の中に繰り広げられ、私の目に染みる風景は、かれんな少女がただ狼にむしゃむしゃ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、しかし、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱き締めたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。

 (中略)

 そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成り立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体がモラルなのだ、と。

 モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、このふるさとの上に立たなければならないものだと思うものです。

 もう一つ、もう少し分かりやすい例として、『伊勢物語』の一つの話を引きましょう。

 昔、ある男が女に懸想してしきりに口説いてみるのですが、女がうんと言いません。ようやく三年目に、それではいっしょになってもいいと女が言うようになったので、男は飛び立つばかりに喜び、早速駆け落ちすることになって二人は都を逃げ出したのです。芥の渡しという所を過ぎて野原へかかった頃には夜も更け、そのうえ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手を引いて野原を一散に駆けだしたのですが、稲妻に照らされた草の葉の露を見て、女は手を引かれて走りながら、あれは何? と尋ねました。しかし男は焦っていて、返事をする暇もありません。ようやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛び込んで、女を押し入れの中へ入れ、鬼が来たら一刺しにしてくれようと槍を持って押し入れの前に頑張っていたのですが、それにもかかわらず鬼が来て、押し入れの中の女を食べてしまったのです。あいにくそのとき、荒々しい雷が鳴り響いたので、女の悲鳴も聞こえなかったのでした。夜が明けて、男は初めて女が既に鬼に殺されてしまったことに気づいたのです。そこで、白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを──つまり、草の葉の露を見てあれは何かと女が聞いたとき、露だと答えて、いっしょに消えてしまえばよかった──という歌を詠んで、泣いたという話です。

 この物語には男が断腸の歌を詠んで泣いたという感情の付加があって、読者は突き放された思いをせずに済むのですが、しかし、これも、モラルを超えたところにある話の一つではありましょう。

 この物語では、三年も口説いてやっと思いがかなったところでまんまと鬼にさらわれてしまうという対照の巧妙さや、暗夜の曠野を手を引いて走りながら、草の葉の露を見て女があれは何と聞くけれども男はいちずに走ろうとして返事すらできない──この美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合わせる綾とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。

 つまり、女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食われるというむごたらしさが生きるのだし、男と女の駆け落ちのさまが美しく迫るものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であったり、男の情熱がいいかげんなものであれば、このむごたらしさはありえません。また、草の葉の露を指してあれは何と女が聞くけれども男は返事の暇すらもないという一挿話がなければ、この物語の値打ちの大半は消えるものと思われます。

 つまり、ただモラルがない、ただ突き放す、ということだけで簡単にこの凄然たる静かな美しさが生まれるものではないでしょう。ただモラルがない、突き放すというだけならば、我々は鬼や悪玉をのさばらせて、いくつの物語でも簡単に書くことができます。そういうものではありません。

 この三つの物語が私たちに伝えてくれる宝石の冷たさのようなものは、何か、絶対の孤独──生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。

 この三つの物語には、どうにも救いようがなく、慰めようがありません。鬼瓦を見て泣いている大名に、あなたの奥さんばかりじゃないのだからと言って慰めても、石を空中に浮かそうとしているようにむなしい努力にすぎないでしょうし、また、皆さんの奥さんが美人であるにしても、そのためにこの狂言が理解できないという性質のものでもありません。

 それならば、生存の孤独とか我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。

 私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる──私は、そうも思います。

 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々の揺り籠ではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……

 だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。


 上の文章の概略は次のとおり。

 物語には、「大概、教訓、モラル、というものがあるもの」だが、中には「それが全く欠けて」いる、「アモラル」な物語がある。

 「しかも三百年も引き続いてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きている」「厳たる事実」。

 そこには、「寒々とした心」、「むごたらしい美しさ」があり、「それに打たれ」るのだ。「私たちはいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、しかし、思わず目を打たれて、ぷつんとちょん切られたむなしい余白に、非常に静かな、しかも透明な、一つの切ない「ふるさと」を」見る。

 「残酷ないやらしいような風景」が、「心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものでは」ない。「何か、氷を抱き締めたような、切ない悲しさ、美しさ」がある。

 「モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成り立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体がモラルなのだ」。

 「モラルがないこと、突き放すこと」は、「文学の否定的な態度」ではなく、「むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、このふるさとの上に立たなければならないものだ」。

 「女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食われるというむごたらしさが生きるのだし、男と女の駆け落ちのさまが美しく迫るものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きる」。「女が毒婦であったり、男の情熱がいいかげんなものであれば、このむごたらしさはありえ」ない。

 この「物語が私たちに伝えてくれる宝石の冷たさのようなものは、何か、絶対の孤独──生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独」だ。

 「生存の孤独とか我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないもの」だ。「この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない」。

 「そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなの」だ。「モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救い」だ。

 「私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見」る。「文学はここから始まる──私は、そうも思」う。

 「このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も」。


 以上の坂口安吾の文章は、物語のアモラルや不条理について述べたもので、「蠅」の読解にも役立つだろう。馬車の乗客たちは、何の罪も犯していない。それなのに無残にも崖下に突き落とされる。このような物語の構成の理解に、坂口安吾の説明は活用できる。

 人生には絶望がある。そうして人は、冷徹な目でそれを見つめなければならない。

 ただ、これまで述べて来たように、この物語は不条理だけを表したものではない。


〇「蠅」は1923(大正12)年5月に「文藝春秋」に発表された。この年は9月1日に関東大震災が発災した年でもある。

大地震の前震を見てみると、8年前の大正4年(1915年)11月に、東京で有感地震が18回続いた。大正10年(1921年)には茨城県南部で地震(M7.0)。大正11年(1922年)には浦賀水道で地震(M6.8)、25人死傷。大正12年(1923年)の5月から 6月にかけては、茨城県東方で200-300回の群発地震(有感地震は水戸73回、銚子64回、東京17回)があった。これらは、関東大震災の発生を予兆するものだろう。

これだけ揺れれば、当時、東京小石川に下宿していた横光も、大地震の予兆を感じていたと推測することは可能だろう。お尻の下がムズムズするような感覚。天災という不条理を前にした時の人の命のはかなさ。それらが無意識的にこの作品に反映したとも考えることができる。

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