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第五十一話『それぞれの日常②』

  7月30日 宇月晃と五月雨紗香の場合


 植物園には、待ち合わせ時間より十五分早めに着いた。身だしなみの最終チェックをしていると、背後から声を掛けられる。

「早いですね」

 振り返ると、五月雨紗香がいた。ふわりとした白いワンピース姿が眩しい。こんな気持ちになったのはいつぶりだろう。

「驚いた、貴女の方こそ」

「ふふ。さっき着いたところですよ。じゃ、行きましょうか」

 園内を回る間、彼女と話した会話の内容はほとんど憶えていない。日頃の雑念が消え、ただ心地よく時が過ぎていった……




「今日は楽しかった、ありがとう」

 植物園のベンチに座って雑談をした折、晃さんはふと言った。

「こちらこそ。研究のことを忘れて過ごす時間も、悪くないですね」

 そう言って様子を窺うと、彼は少し表情を曇らせた。

「あっ、ごめんなさい……もちろん、研究が第一ですけどね」

 慌てて訂正する。今日は私から彼にアプローチを掛けたのだ、私の面目を保つために彼が「楽しかった」とおべっかを使うのは予想できたことなのに。失敗した……

 私が猛省していると、彼は言いにくそうに口を開いた。

「いや。楽しかったというのは本心です、研究のことなど微塵も考えずに過ごせました。まさかわたしの人生に、こんな日が来るだなんて思いも寄らなかった」

「そ、そうですか? それは良かったです」

「えぇ。心底感謝しています。貴女とは波長が合う……ですが、同時に困惑しているんです。貴女と過ごす間、彼女を忘れてしまっている自分に」

 続く彼の言葉を、私は黙って聞くことを決めた。それが決して避けて通れない問題だと知っていたから。


「わたしはこれまで彼女と再会するために研究を続けてきました。ラプラスが生まれてから少し寄り道もしましたが、それでも彼女のことだけ考えて日々を過ごした。もし彼女がわたしを見ているなら、それが一番嬉しいはずだと思ったから……彼女もきっと、わたしの努力が身を結ぶのを待ってくれていると信じていたんです」

 彼は訴え続けた。

「ですが……現実は残酷だ。どれだけ研究を重ねても、手段を尽くしても、死んだ者との交流は果たせない。それを分かっていてなお彼女の幻影に縋った。愚かでした。結局、考えていたのは自分のことだけ。彼女自身ではなく、彼女がもたらしてくれた安寧を望んだだけでした。貴女と共にいる間、彼女を思い出さないことがそのなによりの証拠だ……」

 彼に掛ける言葉を探すも、(はばか)られるような慰めの言葉しか浮かばなかった。

 彼女が亡くなったのも、彼が彼女を追い求めたのも、私が彼に惹かれ、互いに想い合っているのも……全ては純粋な出来事だ。誰も悪くない。彼が自分を責める必要もない。なら私は彼に、どんな言葉を掛けるべきだろう?

 私が返答に詰まっていると、彼は言った。

「失礼。貴女にこんな話をするのはお門違いでした。なぜ口走ってしまったのか……忘れて下さい」

「自分を悪者にする必要はないと思います。私には分かります、晃さんが彼女を想って研究を始めたこと……だから、自分の気持ちを否定しないで下さい」

「紗香さん……」

「私は別に、亡くなった彼女に成り代わろうとは思ってません。その点で、晃さんが私に彼女を重ねなかったことが素直に嬉しいんです」

 彼は静かに、わたしの言葉に耳を傾けた。

「私たちは生きています。変わっていくのが当然ですよ。だからその変化を無理やり過去と関連づけて、正当化する必要もないんです。あなたは彼女を愛していた。だから途方もない研究を続けられた。その事実を捻じ曲げて、私への気持ちの根拠にしないで下さい……私が言いたいのは、これだけです」

「……そうですね。確かにその通りだ。わたしはこれまで、自分を連続した存在として矯正することに必死でした。変わるものですね。予測し得ない未来に対応して、変わるのが自然だ」

「そうです。その自然な積み重ねを受け入れて、いまの私たちがあるんです」

「……わたしの研究はどうすべきかな。もう彼女の幻影を追い掛ける必要もなくなった」

「興味の続く限り、続ければいいんじゃないでしょうか? あの研究は既に当初の枠組みを超えて、人類にとって重要な意味を持っているように思えます。ほら、ラプラスとか……」

「ラプラスね。わたしには到底扱い切れない代物ですよ。アイツは」


 私たちが、改めて研究者同士の議論を始めようとしたとき、突如として爆発音が響く。

 正門の方で煙が上がるのが見えた。続いて別の方角からも爆発。やがて荒々しい声のアナウンスが聞こえる。

『出入り口は全て封鎖した。全員、速やかに中央広場に集合せよ。繰り返す。全員、速やかに中央広場に集合せよ。お前たちの命は預かった。我々の要求は、検体ナンバー048のサンプル回収……』

「こ、これは? 何かのイベントでしょうか」

「分かりません。ですが、今は大人しく従った方が無難なようです」


 彼の指差す方向には、ライフルを持ったふたりの人影が見えた。


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