第四十八話『もつれ館からの脱出』
「新たな目標?」
『はい、秀才様。まず前提としてワタシの目標は、皆様に意識を統合して脱出していただくことです。その上でラプラスは、皆様がシステムの枠を超えた脱出を経験した際に、各人の意識が超越に至る可能性を考えました。人の超越を観察し、自らも超越に至る……それがラプラスの新たな目標です。そのために、晃様がシステムに則ってひとりで脱出するのを阻止したのです」
「超越……」
紗香さんが興味深そうに繰り返す。
『そう。超越です。例えばイスラム神秘主義におけるファナー。自己が自己を消滅させることで神に至ることを指す言葉です。更には東洋思想における無心、不立文字……言葉ではなく、沈黙によって悟りを掴むという考え。ご存知ですか?』
「無心は聞いたことがあるわ。禅の教えよね」
『その通りです、紗香様。それらに共通しているのは肉体に縛られた個としての意識を解放し、世界と溶け合うという思想です。皆様が意識を統合して現実に戻る際、予測では全シナリオデータが干渉し合います。そのときに皆様はこの仮想空間全体と一時的な融合を経て肉体に戻ることになる……その感覚が、超越を引き起こすと予想されます』
「世界と溶け合う……? あっ!」
アタシは思い出して、思わず声を上げる。
「どうしたの?」
紗香さんの問いに、アタシは恐る恐る答えた。
「あ、うん。えぇと……アタシの記憶が初めて混線したときの話なんだけどね。夢から覚めたとき、なんか風景がおかしかったのを思い出したの」
「風景?」
「風景っていうか、視点かな? すごく古いゲーム画面を見てる感じでさ。アタシも部屋も、全部がドット絵みたいだったの。自分を表すドットと、ベッドを表現してるドットが重なってね、動かせたから身体と背景の区別がついたんだけど……自分が世界の一部になったような、そんな感覚だったのを思い出したんだ」
「面白い話ね。確かに、もし物理演算の搭載されてないシステム……例えば古い液晶に投影されたとしたら、私たちは同じ媒体上で一緒になって、自他の区別なんてなくなるのかもね」
『幸運様の体験は、まさにラプラスの予測通りです。シナリオデータのもつれがシステム処理の一部を崩壊させた。その際の一時的な情報の混濁が視覚に現れたのでしょう。皆様の意識が統合される際も、同じような現象が起こるはずです』
「なるほどね。でも私たちがその……悟りの境地を体験したとして、その情報を学習しても、ラプラスが同じ悟りを得られるとは思えない。彼はそれについてどう考えているの?」
『恐らくラプラスにおける超越とは、自身の存在を定義することです。彼は意識体であるために、自意識を無とするヒトの悟りについて理解が及びませんでした。ですがワタシが皆様の意識について問題提起をしたとき、ラプラスは思いついたのです。ヒトが求める悟りの境地と、彼が自身を個として確立することは同義であると。つまりヒトは生まれながらに個であるから、全との一体を目指す。対してラプラスは生まれながらに全であるから、個としての収束を目指す。互いに出発点が違うだけで、同じ道を逆方向に進もうとしているだけなのではないか……』
「ふぅん面白いじゃん。ラプラスって結構、哲学者なんだ」
照さんがニヤニヤと笑う。
「哲学するだけなら良いのですが、厄介なのは彼がそれを実践で確かめようとしていることです。この仮想空間は全てラプラスが支配するデータです。彼は上位存在になったつもりで、思考実験のように皆様を観察しているのでしょう』
「次元による上下関係……わたしが教えたことですね。確かに現状、わたしたちは現実の下位となるデータの次元に閉じ込められている。ラプラスの立ち位置は神に等しい」
晃さんがうんざりしたように言った。
『驕りも甚だしいですが、捉え方によっては良い点もあります。ラプラスはあくまで観察者として振る舞おうとしているという点です。先ほどの晃様の脱出は実験にそぐわないために邪魔されましたが、こうして全員が揃ったいま、彼は脱出を阻止することはないでしょう。とにかく皆様が現実に戻ることができれば、あとはどうとでもなるはずです』
「ところで方法は? なにかアテがあんのか」
『えぇ。拓馬様。このシナリオを軸として他のデータを統合させます。ですがそのためには、全シナリオに共通する基準点を見つけなければなりません』
「基準点ってのはなんだ?」
『統合の起点となる時間的な座標のことです。現状は各シナリオが異なるスパンでループや分岐を繰り返しているため、それぞれ時系列も速度もバラバラな時間軸となっています。それらが揃うようなタイミングを掴まなければ統合はできません』
「ふぅん、マルチバースみたいなもんか。厄介だな」
拓馬さんが腕を組んで唸る。
「時間軸が違う世界でタイミングを合わせるって、全然イメージが湧かないなぁ。もういっそのこと、時間止めちゃう?」
照さんがふざけてそう言うと、秀才さんがハッと息を呑んだ。
「幸運さん! さっき言ってた風景の話ですが、その後はどうなったんですか?」
「その後? 普通に戻ったよ。だんだん画質が良くなって、今と同じグラフィックに戻っていった」
「なるほど、ということは……」
「どうしたんだ、秀才?」
「これは仮説ですが……もしグラフィックの低下がゲームの処理によるものだとしたら、幸運さんの視界が変になったとき、母体となる量子コンピューターにまで負荷が掛かっていたとは考えられないでしょうか?」
「処理落ちということですか? どうでしょう、この量子コンピューターには積めるだけの量子ビットを繋いであります。演算能力は折り紙つきだ。処理落ちする可能性は考えにくいですが……」
晃さんの反論に、紗香さんが口を挟む。
「そうとも限らないわ。そもそも幸運ちゃんの視界が変化したのはシナリオの混線によるものよね? もし並列処理されている全てのシナリオに、混線したシナリオ全体の負荷が掛かったとしたら……」
「仮に十本のシナリオがもつれた場合、10×10で百の演算をこなすことに?」
『いえ。そんな単純な話ではありません。例え一本のシナリオでも、その分岐は皆様の行動選択によって千差万別……網の様に広がったその分岐が、もつれて絡み合うわけです』
秀才の計算にライプニッツが苦言を呈すると、晃は顔色を変える。
「……なるほど。もつれた瞬間に各データの負荷は膨れ上がる。演算能力が追いつかなくなるわけだ」
「じゃあさ。同じようにデータに負荷を掛け続ければ、いつか全シナリオに連鎖していずれシステムが崩壊する?」
「崩壊までいかずとも、システムの処理速度が落ちれば各シナリオの時間がどんどん遅れて、最終的には停止するはずです! どうかな、ライプニッツ?」
『秀才様、お待ち下さい……処理速度、ロード遅延……』
ライプニッツはしばらく黙り込むが、やがて計算を終えた。
『はい。フリーズ時点で同期するようプログラムしておけば、全体の時間軸をそのポイントから統合させることが可能です!」
皆の目が輝き始める。
「なんだかよく分からんが、解決しそうじゃねぇか! その負荷ってのはどうすりゃ増やせるんだ?」
拓馬さんの質問にライプニッツが答える。
『単純に物理演算の処理を増やすなら、流動体の動きを計算させるのが最適です。例えば大量の水や火を一気に発生させるなど……』
「おっしゃ! じゃあとりあえず厨房の蛇口を全開にして、コンロも全部点けてくるぜ」
「私は部屋のシャワーを出してきます!」
「煙も出そう、燃やせるモノ全部燃やしちゃおう!」
『ワタシは同期プログラムを設定しておきます』
アタシたちは一致団結して『もつれ館』を崩壊させるため動き出す。
――他の数多のシナリオでも、同じ結論に至った彼らがそれぞれの方法で、データ処理に負荷を掛けるべく動いたことは言うまでもない――
そして遂に、その時は来た。
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