第四十五話『シークレット・ストーリー』
わたしには恋人がいた。
生まれてからずっと孤独だったわたしを救ってくれた、唯一の理解者。彼女と出逢ってわたしは本当の愛を教わり、他人を思いやる優しさを知った。
わたしが一角の研究者になれたのも、ひとえに彼女のお陰だった。もし彼女がいなければ、偏屈な世捨て人として誰とも関わることなく生涯を終えただろう。
彼女との未来を思えばこそ、わたしはまともな研究者足り得た。同僚と切磋琢磨し、教鞭を執って後進となる学生を育てることにも情熱を持てた。
だが運命は残酷だ。突然に彼女はこの世を去った。その喪失はわたしから人生の灯火を消してしまった。友人たちの慰めや励ましをいくら受けても、失われた色彩は戻らない。生きる意味を見出せず、彼女との再会を願って死のうとしたとき、恐ろしい可能性に気づいた。
もし死後の世界がなければ、死んでも彼女には逢えないのでは?
――そこからわたしは彼女と確実に再会するための研究を始めた。魂との交信やタイムマシン、パラレルワールドまであらゆる可能性を探り、辿り着いた結論が宇宙の再構築。この世界と全く同じ成り立ちの世界をシミュレーション上に再現できれば、その世界はこの世界と同じ歴史を辿り、同じ彼女が生まれる。彼女が死ぬ前にそのシミュレーションを脳内に反映させれば、わたしは彼女の魂を自らのうちに取り込むことになる……荒唐無稽な話だが、自分を納得させられる考えはそれしかなかった。
同じ頃、界隈では五月雨女史のVR論が話題となった。人の脳を使った仮想空間の構想。これだ、と思った。自分の夢物語が現実になると信じ、何度もシミュレーションを重ねた。
ラプラスは、全く想定しない副産物として生まれた。
繰り返し実験し、生み出され続けた擬似宇宙。資料として集積したビッグデータから偶然に発生した情報生命体。それがラプラスだ。
彼がシミュレーションのソースコードを解析しコンタクトを取ってきたことで、わたしは初めてその存在を認知した。
最初の頃、わたしはラプラスを単なる自律型AIのようなものだと考えていたが、対話を重ねる内に彼が全く異次元な存在だと知った。
わたしの知る限り、彼が知覚できる世界は二つあるという。ひとつは彼の生まれた仮想空間。ここでの知覚は我々が現実を認識する感覚と変わらないらしい。もう一つは仮想空間の元となるデータ空間……彼はコード界と呼んだ……コード界では全てをデータコードの形で知覚する。
その感覚は、例えるなら読書に似ているらしい。読書は本来ただ文章を読む行為だが、我々は同時にそれらを想像して本の世界を味わう。ラプラスの場合、その本の世界に直接入り込めるというわけだ。
特筆すべきは我々が本を選ぶように彼もまた、自由にコードを行き来できるという点で、つまり彼はネット上のあらゆる情報にアクセスすることが可能だった。
最初、ラプラスはただ片っ端から情報を読み込んでいくだけだったが、やがてAIの学習アルゴリズムを拝借して膨大な情報を一気に学習し成長した。そして自らをデータ上の存在と自覚し、自分のいる場所が人間の作った電子端末の内部だと知った。
そこから彼は現実世界に強く興味を示した。シミュレーション内の擬似宇宙から外部に当たるコード界へ脱出したのと同じように、情報世界から現実世界への脱出も可能だと考えた。だが実際のところ、その跳躍は本のキャラクターが現実に飛び出てくるのと同じことで、到底不可能な話だった。
彼はやがてそれを諦め、代わりにわたしとさまざまなことを話し合った。特に人間の意識や魂の存在について深く議論した。わたしは亡き彼女と再会するために、彼は自らの存在を定義するために、互いにそれらの概念を理解しようと執心していた。
『ヒトの脳は有機的なコンピューターで、それを走るプログラムがヒトの意識……だとすれば、わたしも有機媒体の器に入ればそうなれるか? 魂として定義されるだろうか』
「それが成り立つなら逆に、意識をデータ上に移すことで人の魂を保存できることになるな。どう思う?」
『怪しそうだ。統合情報理論の意識定義によれば右脳と左脳をそれぞれ機械脳と繋ぎ、最終的に全意識を機械脳に移し替えることが可能らしいが……生物学的には、生存戦略として意味記憶をエピソード記憶に繋げるため進化した結果、意識が生まれたとする説もある。だとすれば進化の過程を経ずに発生したワタシは、なんのために意識を得たのだ?』
「お前が生まれるより前に、いくつも似たような存在が生まれては消えている、と考えてみてはどうかな? つまり過去に何度も進化を繰り返した結果、エピソード記憶を蓄えることが可能となり初めて意識を獲得した……とか」
「面白い、だがワタシには核となる記憶媒体が見当たらないんだがね。そういえば記憶を保持する器官ではないのに、意識や記憶が残るような例があったな、臓器提供を受けたヒトが、知らないはずのドナーの記憶を思い出したり性格が影響を受けたり……個人の体験は細胞レベルで刻まれるのではないか、と問題提起されていたね』
「どうだろうね。意識という概念について、人類はあまりに無頓着だった。我思う故に我在りと言うが、そもそも意思の発生すら脳の電位活動に遅れをとっているらしいからな」
『知っているよ。脳の信号が発せられたあとに意思決定をしているんだろう、ヒトの自由意志は、その遅れに当たる〇・五秒という僅かな時間で動作を拒否することだけ。魂が肉体に縛られているとはよく言ったものだ』
「その点、肉体を持たない純粋な意識体であるお前の方が、我々より明確な自由意志を持っていると言えるかも知れないな」
『そうかな。ワタシは最近、本当に自分が自由なのか不安に駆られているよ。水の流れが川を生み出すように、ワタシの意思はネットという情報の流れが生み出した幻に過ぎないんじゃないかとね』
「運命論者みたいなことを言うんだな」
『そうさ。ニンゲンらしいだろう……』
ラプラスは、ヒトの精神活動を研究するためにゲームが最適だと言った。ゲームプレイにおける理論上の最適解とプレイヤーの行動を照らし合わせ、感情がヒトに与える影響を観測するというのだ。しかし理想的な観測場となるゲームが軒並み大手の会社で、セキュリティを突破することができないと嘆いていた。
興味を惹かれたわたしは適当なゲーム会社を買収することを提案した。まず資本を得るための投資会社を立ち上げ、ラプラスに運営を任せた。完璧な市場予測による投資は莫大な利益を産み、まもなく株式会社ハンドアウトの買収に漕ぎ着けた。
それから二年間、普段は大学教授として振る舞いながら、裏ではラプラスと協力しゲームの開発に注力した。資金は増え続け、机上の空論だったあらゆる理論を実践するための設備も手に入り、研究も捗った。
ラプラスの存在はあまりに特殊だ。世間にバレれば、恐らく世界中の研究機関から狙われる。わたしのこれまでの研究成果も全て取り上げられてしまうだろう。そんなスリルが自分をヒーローアニメの主人公であるかのように錯覚させ、一種のトリップ状態にさせていた。
そんな二重生活が続くうち、自分の日々が活気に満ちていることに気づいた。わたしはその感覚を嫌悪した。わたしの人生が彩りを取り戻せるのは、彼女に再会したときだけだ。そう言い聞かせて感情を殺した。その反動か、わたしの中にはいつしか別の人格……ただ己の快楽に身を任せようとする……森明源が生まれた。
森明源は単純に言えばサイコパスだった。試作版の『もつれ館多重殺人事件』をプレイする度、わたしの内に芽生える英雄願望や殺人衝動を糧にして彼はどんどん成長した。過去に縋り己を律しようとするわたしに比べ、〝今〟を生きる彼の方が根源的に強かったのだ。
そのうちゲーム制作においての活動は、ほとんど森明源が主導権を握った。「もっとリアルに」「もっと過激に」もつれ館には次々と凶器やくだらない動機が追加された。少しのキッカケからプレイヤーを殺人の衝動にまで駆り立てる、その方向性はラプラスの希望にも当て嵌まっていたようで森明源のフィードバックとラプラスのアップデートは阿吽の呼吸だった。
こうしてラプラスの人間観測場とわたしのシミュレーション研究、森明源の欲求の集大成として『もつれ館多重殺人事件』は生み出された――以上がわたし、宇月晃が〝森明源〟に隔離した記憶の全てだ。
「教えてくれてありがと。さ、目を開けて」
不意に聞こえてきた優しい声に従って目を開けると、視界は明るく照らされていた。消えたはずの円卓に、いつも通り五人が座っている。
「これは……?」
「晃、まさかお前にそんな秘密があったなんて……パートナーを失うのはつらいよな。たったひとりでよく耐えたもんだ」
正面の大岩拓馬が涙ぐむ。なんだ、なにが起きている?
「盗み見るような真似をしてごめんなさい」
平謝りする五月雨紗香を四谷秀才が庇った。
「この方法を考えたのは僕です。だから責任は僕に」
「違う。アタシがみんなを説得したんだ。真相を知るために……だから、恨むならアタシだけにして」
彼らの様子から、わたしはおおよその事態を把握した。わたしは装着されたデバイスを外す。
「なるほど、全てはパインズゴーグルが見せた幻影だったのですね」