第十一話『再会』
その屋敷は、この情報社会に在って、誰にも見つかることなく、ひっそりと佇んでいた。
都内にあるハンドアウト本社に集められた六人は簡単な健康診断を受けた後、必要書類に記入を済ませ、そこから黒いリムジンに揺られて館へと運ばれる。
車内では目隠しとヘッドホンを装着され私語は厳禁だったので、彼らはまるで捕虜のような心持ちであった。
どれほど移動しただろう。車の揺れが収まると、機械音声のアナウンスが『お疲れ様でした。目隠しを取って、下車して下さい』とテーマパークのような明るい声で告げた。
彼らが目の当たりにしたのは、曇り空の下に聳え立つ、大きな古びた洋館だった。
時代錯誤なその建物はかつて明治時代の日本において文明開花の象徴となった擬洋風建築の特徴を備えていた。
六人のうち誰ひとりとして、そんな専門的な知識は持っていない。しかし彼らの誰もが、この館を見て不思議と、タイムスリップしたような感覚を憶えていた。
「こりゃあ……立派なもんだなぁ」
素直な第一声は、大岩拓馬のものだ。
「その声、タクマさんですよね」
おずおずと話し掛けたのは四谷秀才。顔には安堵の表情が浮かんでいる。
「おう! いかにも。お前さんは?」
「あ、すいません。シュウです! お久しぶりです。いや、初めましてが正しいかな」
「あっはは! シュウか! 久しぶりだなぁ、イメージ通りだ!」
男ふたりが談笑している傍で、女子ふたりも会話を弾ませていた。
「あの、もしかしてSayaさん?」
「えぇ……えっと。ラッキーちゃん?」
「覚えててくれたんだ、嬉しい! え、めっちゃ美人さん! どうしよう緊張しちゃう」
「ちょっと落ち着いて。そんなはしゃぐほどじゃ」
「えー! だって5年ぶりだよ! 同窓会みたいでさ」
緊張の糸が解け、和気藹々とした雰囲気を晃が一喝する。
「はい、そこまで! 皆さん、浮き足立つのは分かりますが、とりあえず館に入りませんか?」
しんと場が静まり返る。普段、学生にするように晃が次の指示を出そうとしたが、幸運がそれを遮った。
「この仕切り方……ケイさんでしょ!」
ニヤリと笑う彼女に、晃は仕方なく返事をする。
「ええ、そうですよ。わたしがケイです」
「やっぱりぃ〜! じゃあ……ライトさん?」
幸運のセリフに、その場の全員の視線がひとりに集まった。車を降りてから、集団を離れ隠れるように縮こまっていた人物。グレーのフードを深々と被った西原照は、観念したように溜め息を吐くと、フードを上げて顔を見せた。
「そうだよ。ボクがライト。視聴者向けのテンションじゃなくてイイよね?」
「ラッ、ライトちゃん? 男だったのか、全然気がつかなかった!」
たじろぐ拓馬を、秀才が小声で諌める。
「そういうのもアリなんですよ、VRは」
「そうか、けど地声も女の子みたいだな」
ヒソヒソ話を続けるふたりを尻目に、照は言葉を続ける。
「それより、みんな気づいた? 車がどっか行っちゃったけど」
「ええ。わたしは数秒、館の造形に気を取られていましたが、振り返った時にはもういませんでしたね」
冷静に返事をする晃。幸運も言葉を続けた。
「アタシが最後に降りたあと、すぐにドアが閉まって発進してたよ」
「テストプレイが終わるまで戻るなってことでしょうね。本社で電子機器は没収されて場所も分かんないし、帰りたくても帰れませんけど」
不安を煽る秀才の言葉に、皆が冷静になって辺りを見回す。なだらかな勾配に一面の芝生。まるで外界からの侵入を拒むように、周りを木々が取り囲んでいる。リムジンが通った道は遥か遠く、森の暗闇へと消えていた。
晴天なら、豊かな自然を感じられる最高のロケーションだが、生憎の曇り。ジメジメとした生暖かい空気が彼らを包み込む。
「凄いね、まさに〝陸の孤島〟って感じだ」
陰鬱な空気を吹き飛ばすように、照が楽しげに口笛を鳴らす。刺激を求めていた彼にとって、スリリングなこの状況は望むところといった様子。他の五人も似た感覚らしい。そもそも非日常を求めて参加を志願したのだ。
中でも幸運は〝陸の孤島〟というワードで明らかにテンションが上がって見える。
「ワクワクする〜! てかさ、こんな大規模なクローズドサークル作るなんて凄い財力だよね。本社の見た目はこじんまりしてたけど、ハンドアウトって結構な大企業なのかな!」
「察するに、ゴルフ場の跡地を改造したんでしょうね。少子高齢化の煽りをもろに受けて、30年代には多くが潰れたらしいです」
「へぇ〜、知らなかった。シュウさん詳しいね」
『もつれ館』はクラシックな二階建ての木造建築で、正面からは巨大な立方体に見える。中でも一際目を引くのは玄関だ。
玄関扉は大きな木製の観音開きで、高さは二メートルほど。ニスで艶やかに光る左右の扉には、黒い猫を模した木細工が施されている。鏡写しになった二匹の黒猫が手招きをしており、彼らの手の部分が浮き出て、ちょうど取っ手になっている。
その構図は、黒猫がこちらを招き入れているようにも、逆に平面世界の黒猫が次元を越え、現実世界に出てこようとしているようにも見えた。
晃が扉の装飾に目を奪われていると、隣で紗香がポツリと呟く。
「シュレディンガーの猫……」
「え?」
「この模様のモチーフです。シュレディンガーの猫ですよね? ほら……」
晃が改めて扉を見直すと、確かに左右で微妙にデザインが違っていた。黒猫の周囲にはペイズリー柄に似た植物の背景があしらわれているのだが、右では咲いたように開いている花弁が、左では萎れたように閉じている。黒猫も、よく見れば右の猫は目を開いているが、左の猫の目は閉じていた。
「右が生きている世界線で、左が死んじゃった世界線かな」
照のセリフに、紗香と晃が頷く。程なく全員が扉の前に集まった。
「なになに、なんの話?」
「この扉のデザインが、シュレディンガーの猫を模しているって話してたのよ」
幸運の問いかけに紗香が答えると、皆が口々に意見を交わした。
「シュレディンガーの猫って、思考実験の?」
「僕も聞いたことあります。確か昔、量子もつれを使って観測実験もされたとか。もしかすると『もつれ館』の〝もつれ〟って、そこから採ってるんですかね」
「きっとそうだよ。ボクも〝多重殺人〟って言葉からなんとなく想像してたんだけど……」
「なるほど、重ね合わせをテーマとしたマーダーミステリーですか。面白そうですね」
五人が議論する中、拓馬が申し訳なさそうに手を挙げる。
「すまんが、そのシュガー……の猫? ってなんのことだ?」
彼の質問に、晃が説明を始めた。
「大昔にシュレディンガーという物理学者が考案した、量子力学の思考実験ですよ。箱の中の猫の生死は、箱を開けて観測するまで分からないという説です」
「そんなわけないだろう。開ける前から決まってるさ」
「普通はそう思うでしょう。けれど量子力学の世界では違うんです。実際に24年の研究では、反対方向の核スピンを併せ持った原子の状態が二十分以上維持されて……失礼。コレは難しい話になるからやめましょう。例えば猫がコンマ一秒前まで生きていたとしても、次の瞬間には死んでいるかも知れません。いつ死ぬか、正確な予測は誰にもできませんよね?」
「まぁ、それはそうだが」
「つまり、箱を開ける瞬間の猫の生死の確率は同じと考えられる。言い方を変えれば、箱を開けるまで猫は生きてもいるし、死んでもいる。重ね合わせの状態ということです。観測者によって箱が開けられて、初めてそのどちらかに収束すると」
「ふむ……なんとなく分かった! 料理の味見をするまでは安心できないのと一緒だな」
「ははは、その通りです」
「アタシたちの運命はどう収束するか……楽しみだね」
六人は扉を開け、その奇妙な実験場へと足を踏み入れた。