第11話 テラスの語らい
清隆が困ったように周囲を見回していたので、アリウスがどうしたのだと声をかけた。
「さっきまでいた博士が会場のどこにもいないんだ」
アリウスはそれを聞くと、目の光がほんの少しだけ揺らめいたように見えた。
「ふむ……その博士についてもう少し教えてくれないか」
しかし、清隆がクラーク博士について知っていることはそれほど多くない。
「ケンブリッジ大学を出た研究者で、今はボーダーポートの遺跡などを調べているらしい」
「長尾家の屋敷を買いたがっていたという研究者か。発掘家なのか?」
アリウスは以前清隆から家を買おうとしている者の話を聞いていた。
「歴史に興味があるらしいけど、どちらかというと文献を重視して調べているようだった。まだロンドンに沢山の文献を残しているので運んできていると言っていた」
「遺跡がそれと関係あるとでも?」
ボーダーポートの南側の森には、古代からある列石などの遺跡が点在している。
イングランドの南部にあるストーンヘンジのようなものだが、規模はそれほど大きくない。
(アリウス……博士がヴェールドと関係あると疑っているのか?)
清隆が黙ったままのアリウスを見つめてそう思っていると、突然彼の頭の中に声が響いた。
(彼の心を読んでない以上、断定はできない)
アリウスの声だった。しかし彼の口は動いていない。
「アリウス、今の声は?」
清隆が思わず声を出すと、アリウスが驚いたような顔をする。
(俺の声が聞こえてるのか?)
清隆が無言で頷くと、アリウスが彼の顔をまじまじと見つめた。
(今度は血の匂いだけでなく、思考も読めるようになったのか? この会場の人々から心の声は聞こえるか)
(いや……アリウスだけだ)
清隆は別に他人の思考が読めるようになったわけではなかった。
ただアリウスと心の声で会話が成立している。
これは、血の匂いに敏感になったことより更に奇妙なことであった。
(私は正気を失ってしまったのかもしれない)
(大げさな。悪魔や神の声が聞こえるわけじゃないんだ)
清隆の反応を見て黙っていたアリウスが少し笑った。
それは、この会話が清隆の妄想ではなく、本当のものだということだった。
(まあ博士のことは後で調べないといけないが、焦る必要はないだろう)
アリウスはそこまで思考で伝えた後、ようやく口を開いた。
「せっかく舞踏会へ来たというのにまだ踊っていないんだ。清隆、一緒に踊らないか」
そして清隆に向けて手を差し出す。
「だが、しかし」
清隆は困惑して、ダンスしている人々を見る。行われているのは男女一組になって踊る円舞曲だ。
男二人で入っていったら奇妙に思われるのではないか。
「皆思い思いの格好で自由に踊っているんだ。そこまで気にする人はいないよ」
「そうだろうか……?」
清隆は答えを出せない。すぐに断らなかったということは、踊りたい気持ちはあるのだとも言えたが、体面も気になるのだろう。
アリウスはなかなか答えの出せない清隆の手を強引に取り、踊りの輪に連れて行く。
彼が清隆の決断を待たずに動き出すことがめったにないので、清隆は少し驚いてしまった。
しかしアリウスの手や表情からは苛立っているというわけでもないことがわかる。
例えると、子供がいても立ってもいられず興味のあるものへ駆け出すような感じだろうか。
二人が踊りの輪に入ったことで、周囲の人々の注目を集める。
(いや、皆が夢中になっているのはアリウスだ)
清隆は緊張しないように、自らにそう言い聞かせた。
人々が注目しているのはアリウスの踊りであり、相手が誰かまでは気にしていないはずだ。
それはただの清隆の願望でしか無いのだが。
清隆は音楽に合わせて、正確にステップを踏むことにのみ心を集中させた。
(なかなか上手じゃないか。ダンスの経験は結構あるのかい)
アリウスの心の声が聞こえる。手を繋いでいるからか、音楽の中でも先ほどよりはっきり聞こえた。
(一応習ったし、大学時代は踊ることもあったが、最近はあまり……)
踊りながら二人だけの会話が続いているのは奇妙であった。
会場の人々は二人を見ているはずなのに、交わしている内容は二人だけしか知らない。
アリウスは聞こえないからと好き放題に語り続けている。
実は心の声で話せる相手ができて嬉しいのかもしれない。
(清隆、舞踏会での様子を見てたが、会話の受け答えとかも随分固いと言うか……形式を守ることに固執しているんじゃないか。もっと楽しんでくれ)
(私は、せめて形式だけは良い紳士でありたいんだ)
音楽に合わせて、型通りの踊りを進めながら清隆が呟いた。
返答を聞いたアリウスは笑みを保ち続けているが、声のトーンが少し落ちる。
(自分に形式以外は何も無いと思っているのか? 父が日本の商人で、母が米国から渡ってきた富豪の娘で、この国でのルーツが無いから?)
(そこまでは……)
清隆は返事を最後まで言えなかった。アリウスの指摘は当たらずとも外れないと思った。
一つの音楽が終わり、次のゆったりした曲が始まる。
そのタイミングでアリウスは自然と踊りの輪を抜け、清隆を劇場の2階のテラスへと導いた。
「見渡してみろ」
アリウスの言葉を聞いて清隆は何のことだろうと思った。
テラスは駅前の広場に面しており、ボーダーポート駅や町並みがよく見える。
港は暗くてよく見えないが、灯台の明かりだけは確認できた。
駅ではちょうど今日最後の旅客貨物混合列車がリヴァプールへ向けて出発していく所であった。
特に清隆にとって目新しいものはないように見えた。
「俺は宗一と初めてこの街に来たときのことを覚えている。ここ一帯は昔ながらの漁村の風景が残っていた。今はスラム化している旧市街の方が賑わってたな」
清隆の隣で、アリウスがテラスの手すりに手をかけながら呟いた。
「たぶんそれより後だが、小さい時は確かに風景が違ったな」
清隆は昔を思い出す。
まだ小さい頃は駅が建設中で、周囲は空き地も多く、友達と資材置き場に隠れて乳母に怒られたこと。
劇場はなかったが、地方を巡回する劇団がやってきて、港のテントで劇を見たこと。
寄宿制の中等学校へ行くため街を出たときのこと。その頃はまだ列車が開通していなかったので馬車で行ったこと。
「長期休みに家に帰ってくる度に、街には新しい建物が増えていった」
その時は変わっていく街に驚いていたが、そこで暮らすようになると案外変化に気づかないものだ。
「今のこの光景は、多くの人の手によって作られた。君の父や母もそこに含まれる」
「……」
清隆はアリウスの言葉を黙って聞いていた。彼の言っていることはわかる。
ボーダーポートがここまで栄えたのは、父のような業者たちが、この鉄道や海運を築いたことによるものだ。
鉄道というこれまで無い輸送システムが定着し、人々や物流の動きが加速する、時代の流れに乗れたのだ。
母トリシアは、市の発展に直接関わったわけではないかもしれない。
しかし彼女は父よりずっと英国の社交界に通じていたので、劇場など文化施設の設立の際に多くの協力を呼びかけたのであった。
また、父に西洋の様々な作法を伝えたのも彼女であったはずだ。だからこそ父も比較的問題なく街の人々と交流できたのだろう。
「だから君たち家族は間違いなくボーダーポートを作ってきた。ここは君の故郷なんだ。そう思わないか?」
「そんな風に考えたことはなかった。だけど、悪くないと思う」
遠くの灯台を見たまま、清隆はぽつりと呟いた。
そして、アリウスの方に向き直る。
「ここで聞くことではないかもしれないが……アリウス、あなたは父のことを、友人とは別の意味で好きだったのですか?」
清隆の質問に、アリウスは目を丸くした。
「なんだ急に。俺が、宗一を……? いや、考えたこともなかったな」
アリウスは先程までの落ち着いた雰囲気を無くし、手すりにもたれかかった。
(最初は吸血鬼と人間は違うという距離を置いていたが、いつの間にかそれはなくなった。彼はこれまで得たことのない親友であった。それが全てだ)
清隆のいう意味の『好き』という対象に含めて考えたことはなかったということである。
「……なら良かった」
心の声を聞いた清隆は、舞踏会に来てからずっと硬かった顔に初めて柔らかい笑みを浮かべた。
「どういう意味だ?」
アリウスが首を傾げながら清隆に尋ねようとした時、会場の中が急にざわつき始めた。