雨の向日葵畑に於ける逆説的な君の灯は (或るい其れは一本のギター)
1
濕度が飽和量の限界を凌駕したかのような、じっとり暑い、雨の降る夏の日でした。折角買った喪服も臺無しです、私は傘も持たず、土手の左手、遠くを眺めていました。
向日葵畑です。
ひどい雨の、向日葵畑の中にぽつんと佇む、一臺の古い車です。
いつかの社會科の敎科書の中で見たかのような、とても古い車でした。丸みを帶びた車體には、赤く錆が付き始めています。
向日葵畑の中、畦道が一つ、車の方へ續いています。雨でひどく視界が遮られ、進むのが非常に困難であるかのように思われましたが、ふと不思議な引力が働いたかのように、氣づけば私の足取りは、車の方へ向いていました。
建付けの惡い助手席の戶を開けると、君がいました。
「やあ、今日は遲かったね」と、社會から完全に杜絕された車の中、君は何とも形容しがたいふわりとした表情です。
私は持っていた白百合を君へ手渡しました。
「白百合何て、しかもこの包み方はまるで供花じゃないか。緣起が惡いなあ」と言いつつも滿更でもなさそうな樣子です。不思議に思われました。何故かというと、その花は確かに君に上げるためにきちんとした段取りで手配した「葬儀用の花」だったのです、とても不思議に思われました。
そして第一私は、君のことを知りませんでした。
2
今日も雨でした。しかしそれは、とても優しいものでした。私たちのいる車を圍んでいた向日葵たちの姿はもうなく、代わりに知らない花たちが雨にしなだれています。
君は運轉席で本を讀んでいました。カバーの外された、古い文庫本です。私はその本をずいぶん昔に讀んでいたような氣がしました。しかし、思い出すことはできません。
「昔は、何處へでも行けたのにね」君が言いました。
「今からでも、何處へでも行けるよ」僕は言います。
君は首を橫に振りました。
「私は此處からどこにも行けない。」
重たい鐵製の沈默を、輕やかな雨が縱に裂いていきました。
カーステレオは依然『veronika der lenz ist da』を歌い續けます。
3
しんしんと降り續ける雪に、車はすっぽりと埋もれてしまいました。
初めて會った時から、君の背丈はずいぶん小さくなりました。
「硝子も曇りだしてきたの。もう何も見えないな」君は呟きました。
白い布團をかけて、倒したシートに寢轉がります。
「前好きだったものも、この硝子越しじゃ見えないや。思い出せもしない」
小さな肩を寄せる君は、ずっとずっと小さく見えました。
車を乘り回していた日々は、ガス燈が消えゆくかのように遠のいていきます。
霞む枯れた向日葵の、形骸的な莖の列が遠視の僕の網膜に淡く映ります。
空調などないはずなのに、車內は暖かく、そして暖かい空氣感に包まれていました。
「彈かないの、ギター」君は云いました。
僕はそう聞かれるまでギターの存在など、すっかり忘れてしまっていました。
君が指さす方向に、懷かしいギターケースがありました。
僕はそれを開け、ギターを取り出しました。
弦を、彈き、音が出ます。
そのままとりとめのないフレーズを奏でました。不定形の旋律はいつか、空中で結露の原理の樣相を呈し結合しあい、The Sound of Musicの劇判曲の一つとなりました。
曲名は、存じ上げておりませんでしたが。
彈き終えると、僕の指は弦の錆で赤茶色に染まっていました。
幼さの殘る君の顏が映る。何でもない冬に僕たちの命は最期、燈ります。
4
雪解け水が、車の周りに小河を形成し始めました。紗幕の如く聳える餘寒が映帶的なフイルム效果を齎し、形容し難い春の豫感が立ち昇っていました。
枯れた草花の群れの向こうでも、やはり同じ灰の雲が燻っていました。
カーステレオは十代の頃聽いていたラヴェルを吐き、それらは僕の肺胞一つ一つに沁み込んでいきます。
君の背丈は、もう僕の半分ほどにまでなってしまいました。
幼い寢顏が視界の端に移ります。
動くはずもないのにハンドルを握ったり、離したりしていました。
この生活の、終わりを、感じました。
テープの卷き戾る音がし、意識はふと物質世界へと回歸しました。
君の寢息だけが聞こえます。
何故だろうか、それは英詩のリズムや胎動に聽こえ、僕は鳥渡笑ってしまったのです。
5
暖かい、いや、もう殺意すら孕んだ夏の光が僕等を照らします。
君の姿は、もはやもうありませんでした。
カーステレオももう、何も吐き出しません。
ただ、遠く蝉だけが鳴いています。
ギターを取り出しましたが、彈く氣にはなれませんでした。
弦が錆びてしまっていたからでしょうか。
君はもういないことは、あの病室で分かっていたはずなのに、それでもなお君の姿を追ってしまう自分がいるのです。
それを厭おうとも、認めまいとしようとも思いません。
或る種の反射回路として、僕の中に焦げ付いてしまったのでしょう。
僕は、それを認めなくてはなりませんでした。
ふと思い立って、右座席の扉についている物入れを、見てみました。
くだらない古惚けたライターや、葉書なんぞが出てくるのみでしたが、一つ目を惹くものがありました。
君と僕の寫眞でした。
いつに現像したかも分からないような、四、五年前の寫眞。
そうだよな、と獨り僕は頷きました。
他でもない君が、君が向日葵みたいだったのだ。
それから其の寫眞を眺めた儘、夜が來て、朝になりました。
僕はギターケースだけもって、車のドアを開けました。
夏に喪服は變に暑く、嫌な感じがしました。
それでも。
僕は車のドアを閉め、元來た畔道へと步いていきました。
向日葵畑の中央、赤錆の其の車は相も變わらず佇んだままでした。
「さようなら」僕はそう言い殘し、その場を去りました。
今日の夕飯の材料を、まだ買っていないことを思い出しました。