#2 悪魔の子守唄
「そんなに嫌なら行かなければいいだろう」
悪魔と言うのはデリカシーだけではなく心の機微にも疎いらしい。
ビルの屋上で喋るぬいぐるみに宥め透かされた後、急に寒さを辛く感じとりあえず帰宅した。終電がまだだったのでタクシーを使わず済んで良かった。
電車に乗って分かったことは、どうやらこのぬいぐるみは他の人にも見えているらしいということだ。
屋上から降りた途端物言わぬふわふわと化した自称悪魔は、若干人目を集めながらも電車でもお利口に私の膝の上で黙っていたし家まで静かに持ち運ばれていた。私は二月の夜中にコートも着ずに半べそをかきながら悪魔の二頭身ぬいぐるみを抱えた大人となったわけだが。
そして私の部屋について最初の一言が「汚い」だった。現在私の部屋はかなり散らかっている。流石にゴミ屋敷とは言わないまでも(そうと信じたい)、メイクに使ったものは出しっぱなし、食べたお惣菜の空やペットボトルもその辺にゴロゴロ転がっていて、シンクもいつ使ったのか覚えていない食器でいっぱいだし、下着とブラウス、ストッキングだけは無いと困るからと三日四日前に洗濯して部屋干ししたままそこから取っている。なお仕事着のスーツについては悪臭と目立つ汚れがなければクリーニング無しで無限周回となっている。
確かに汚いのは認める。このぬいぐるみに言われたのはなんだか癪だけれど。ただ、汚いだとか物が多いだとかいうことには理由があって、とにかく家に帰ってから何かをする気力が無く、休日もベッドの上で屍のように過ごすことしか出来ないからなのだ。そうしてどうにか回復に務めた上でやっと月曜日の朝に胃痛や身体の怠さをギリギリ耐えて出社する日々を繰り返している。しかも日曜日の夜などはさっさと寝るに限るというのに、月曜日が来る怖さや苦しさから寝付けないという悪循環。多少眠気があった方が出勤時はつらい感情をごまかせて良いかとさえ思う時もある。どうしてか会社に着く前に涙が出るが放っておけば落ち着くし。
そんな生活で最低限起きて仕事して食事して帰って寝る以上のことをするのは不可能だ。
ということをほとんど要約せずにダラダラと半泣きで話したところ、ぬいぐるみは冒頭の言葉を宣った。燃やしてやろうかこのぬいぐるみ。
「行かなければいいって…クビになっちゃうからそんなことできない」
「クビになったら困るのか」
「困るに決まってるでしょ!お金が無いと生きていけないんだから…」
「金を得る方法は他にもあるだろう。」
「そんなこと言ったって、私なんて何も出来ないんだから誰も雇ってくれない」
「今雇われているのにか?というか、別に雇われなくとも金は得られるだろう」
「そうだけど、でも会社に居た方が将来安心だし…」
「ハッ、魂を要らないと言ったやつが将来のことを気にしていたのか!」
ぬいぐるみはむくむくの短い腕でお腹を抱えてケタケタ笑いながら宙をころげている。
いちいちイライラするぬいぐるみだ。その態度も腹が立つし、そんな奴の言葉を確かにと思ってしまうのもムカッとする。
「人間は本当に無駄が多いな。少し見ない間にまた無駄が増えたんじゃないか」
「…っうるさいな!」
無駄だと言われたってそういう考えがグルグル頭を回ってしまうのだから仕方ないのに。どうしてそうやってこちらが傷つくことを平気で言うのだろう。悪魔というのはもっと甘い言葉や誘い文句で人間を堕落させる物なんじゃないのか。
「俺はお前がどうなろうが魂さえよこせば構わない」
「ああそうでしょうとも。」
ニヤニヤとした顔がムカつく。ぬいぐるみのくせに。そんな気持ちを隠すことなく音に乗せた。
「じゃあもう契約?だかなんだか知らないけど、しちゃってよ。」
「良いのか?遺言だとかを用意する時間くらい待ってやるぞ」
「…いい。遺された方も迷惑だろうし」
「そうか。では契約を」
そう言うと悪魔のぬいぐるみはどこからともなく古びた薄汚れたような巻紙を取り出し、目の前で広げた。少し埃っぽくて思わず手で払ってしまったがぬいぐるみはこちらのことなど気にせず口を開く。
「我、アル・シラは契約者の魂を欲す。引き換えに汝、契約者の望みを叶えよう。さあ、望みを言うが良い!」
「…」
ぬいぐるみはそう高らかに言い放った。心無しかドヤ顔をしているようにも見える。
待て。なんか回りくどくない?私は死にたくてこのぬいぐるみが持ち掛けてきた話を良しとしたのに、なんか望みを言えとか言われてるんだけど。
「…死にたいんだけど、それは」
「?だから、お前が要らぬという魂を貰ってやる。その魂と引き換えになにか望みを叶えてやるのが悪魔の甲斐性だ」
「いや、だからね。私の望みが死ぬことなの。出来ればご遺体が目に毒じゃない程度に綺麗ならそれでいいの。」
「ああ、そうだな」
「…まさかとは思うんだけどさ。これって面倒くさいことにならない?」
ぬいぐるみは頭に疑問符を浮かべて固まってしまった。私とこいつの需要と供給は一致しているはずなのに、どうにも契約の文言に違和感を感じる。
「私、死にたい。あなた、魂欲しい。だから魂あげて終わりじゃダメなの?」
「だめだ。契約は飽くまで引き換えとしている。」
「えー…っと、じゃあ身体を傷つけずに殺して欲しいって言う望みで。」
「それはだめだ!俺は人殺しはしない!」
「えっ」
ぬいぐるみは突然焦ったように声を荒らげた。顔色こそ変わらないものの、だめなんだ…と呟いている。どうやら人殺しはタブーなようだ。
「でも…それじゃあどうするの。私、それ以外に望みなんて無い」
「何かあるだろう!捻りだせ」
「そんなこと言われても」
例えば上司を殺してくださいというのも、人殺しに当たるのでだめだろう。会社に恨みはあるけれども、今働いている同僚が困ってしまうから会社を潰して欲しいというのも良くない。
「じゃあ美味しいもの食べたい」
「良いだろう。どれくらいだ?」
「え、そんなの一食分とかでいいけど」
「だめだ」
「なんで?!」
「魂に見合わない」
魂に見合わないとは。今度は私が疑問符を浮べる番だった。ぬいぐるみは先程とは対照的に、やれやれと言いたそうに首をすくめている。本当にいちいち可愛くないぬいぐるみだ。
「お前にとってどんなに無価値でも、魂というものには俺が欲しがるだけの価値がある。そして契約は等価交換で無ければならない。つまり、お前の魂を譲り受けるからには、それ相応の対価を渡す必要があるんだ。分かったか?」
「それを先に言え」
知ってたら今頃飛んでたわ。なんなら今からでも飛んでこようかな。遺体がグロくなるのは本当に申し訳ないけれど、このぬいぐるみに付き合ってはいられない。
その考えを読んだのかぬいぐるみは「無駄だ」と言った。無駄ってなによ。
「お前は既に契約に乗りかけている。言わば仮契約状態だ。お前が何をしようとも俺は止めることが出来る。」
「なにそれ。私はまだ契約するなんて言ってないのに!」
「いや、お前は契約してくれと確かに言ったぞ」
「は?そんなこと言って」
無い!と続くはずだった言葉は、力なく喉の奥に引っ込んだ。思い返してみると数分前に言っていた。「じゃあもう契約?だかなんだか知らないけど、しちゃってよ。」と。まさかこれのことなのか、そんな馬鹿な!と思うが、ぬいぐるみは意地悪く笑っている。当たりらしい。
「お前はもう契約からは逃げられない。さあ望みを言え!」
ヤクザのやり口。よくは知らないけどこれは絶対そう。人の揚げ足をとって契約だと言い張っている。この相手が人間ならば然るべき機関に訴えかければワンチャンどうにかなるかも知れないが、相手は悪魔だ。頭がおかしいと思われて終わる。
はたと思いついて、私は立ち上がり台所へ向かい目当ての包丁を手に取った。刃渡り17cmの、買った当初だけ鶏肉を捌いたりした包丁である。最近は握ってすらいなかった。久しぶりの使用がこんなことになるなんて包丁もさぞかし不本意だろうが、申し訳ないとしか言えない。
包丁を逆手に持って、自分の喉に向けた。出来れば苦しい死に方はしたくなかったけれどあれに付き合っていられない。
ごめんね、この部屋を次に借りる人と大家さん。ここは今日から事故物件です。
目を閉じ、ぐっと包丁を握る手に力を込めた。そして、素早く腕を引く。
「…」
「無駄だ。言っただろうが。お前が何をしようとも止めることが出来るんだよ」
私の腕は、あと少しのところで固まってしまった。先程屋上で身体が落ちる寸前、石のように固まってしまったのと同じだ。
「諦めて望みを言え」
「だから…魂に見合う望みなんて無いの!死にたいとしか思ってなかったんだからそんなのあるわけないでしょ?!」
私は声をはりあげた。当たり前に生きて、当たり前に死ぬ。そんな人並みのことが出来なかったから私は今こうなっているのに、人並みの人でさえ困る条件を私に提示しないで欲しい。明らかに人選ミスだ。
「分かった分かった!それなら一旦保留でいい!」
「は?」
「望みはゆっくり考えろ。俺は魂さえ手に入るのなら、少し待つことくらい構わない。心の広い悪魔だからな!」
えっへん!と副音声が聞こえてきそうなほどふんぞり返る二頭身。その間抜けな姿に、いやでも気が抜けていく。いやだから、無いんだって。あんたが早く魂持ってってくれればすべて解決なんだって。
「…もういい」
いつの間にか動くようになっていた腕を下ろした。気が抜けたら力も抜けた。そしてこのぬいぐるみに怒るのも馬鹿らしくなったのだ。なにせ、話が通じているようで通じていないのに謎の力だけはある相手だ。まともに取り合う方が損というもの。
「保留でいいから。…もう眠い」
「ならば今日は寝てしまえ。色々疲れただろうからな」
全くだよ。ぬいぐるみを睨みつけても、こてんと首を傾げられて終わった。私は重くて長いため息をこれ見よがしにたっぷり吐いたあと、包丁を元の場所に戻してベッドに身を投げた。
「子守唄でも歌ってやろう」
「いらない」
とにかく情報をシャットしたくて目を閉じると、疲れと眠気もあってすぐに意識は眠りに沈んだ。遠くで下手くそな子守唄が聞こえた気がした。
気づいたら悪魔がアホになっていきますね。どうしよう。
雨野あきら