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あの子が居なくなった。それだけでこんなにも周りが見えなくなるだなんて知らなかった。
ケイと一緒に研究所内を駆け回りながら血眼になって探す。夜の帳がすっかり降り切った午後八時。所員用の食堂や個室に飛び込んでは、あの子が居なかったか、ほとんど悲鳴のように訊ね回る。でも外部経路の警備アラートが鳴っていないからか、誰一人私達みたいには動いてくれない。薄々勘付いていたけれど、実際に直面すると、腸が煮えくり返りそうだった。
私達が周囲から疎まれているのは知っていた。忌避されているのも何となく肌で感じていた。だからあの子が外部へ出る方法を知っているわけがない。私達の誰かが教えた可能性もあるけど、少なくとも私は教えてないし、様子を見るに他の二人も同じようだった。念のためエルにも確認をしたが、そんなことしてないよ、と社交辞令みたいな対応をされただけだった。
所内で動ける範囲は、あの子は勿論、私達でさえかなり限られている。この階層から出たのはこの十年間でも、数ヵ月前に所長を交えた会議に出席した時と、つい先日所長との個人面談に呼ばれた時の二回しかない。その時でさえ面倒くさい検査に何重にも懸けられた。だからきっとここに、中庭のあるこの階層にしかいないはず。
それなのに、どうして。
殺風景な廊下の途中で息を整えていたケイが、チッと舌打ちをする。
「もう一回あいつの部屋見に行くぞ。中庭もだ」
「そこは一番最初に見た、当たり前でしょ。居なかったから探してるんじゃない」
苛立ち紛れにそう言い放つと、ケイが急に急に立ち止まった。ずかずかと歩み寄って、私の胸ぐらを掴みあげる。襟糸が千切れる音がする。
「な、なに。八つ当たり?」
「八つ当たりしてるのはお前の方だろ、いい加減にしろ。お前は周りが見えてねぇ。最近ずっとだ。さっきからぎゃあぎゃあ喚き散らすだけで要領も無い。分かってんだろ、自分で」
ぎりっと奥歯を噛み締める。
「いまそんなこと言ってる場合じゃないでしょう! それより早く、」
「じゃあ今日は何日だ」
「────は?」
「今日が何日か、俺の名前は何で、お前の名前は何か。……言えるもんなら言ってみろよ」
ケイの怒気が一層増す。こんな茶番をやってる暇なんてないのに。それより、早く、早くあの子を。
そんな想いに反して、視界がぐらっと歪んだ。ケイの顔がぶれる。廊下の灯りで網膜が焼かれる。喉が笛のように情けない音を立てる。
「ケイ」の────いや違う、こいつの名前は。本当の名前は。私達が偽った、名前は。
一瞬のような数十分のような時間の後、ケイがほら見ろ、といった表情を浮かべた。
「やっぱり見えてねぇんだよ、お前。だから真面目に考えられていない」
掴んだ手を緩めながら、まあ俺も、と言い掛けたケイは再び首を振った。
「戻るぞ。どのみちアラートは鳴ってねぇんだ」
そう言って元来た道を走り出すケイの背中を見やり、力任せに壁を殴った。
言い返せなかった。自覚しているからこそ何一つ反論できなかった。
新しい日付が上滑りして。刷り込み過ぎて咄嗟に名前が思い出せなくて。ああ、やっぱり。
私、いま壊れかけているんだ。
その時、ポケットの所内用端末が震えた。別行動で探し回ってたユウからの一言だけのメッセージ。
『見つけた。エルの部屋に来て』
膝に頭を埋めたままベンチに蹲っていると、足音が聞こえた。
「……もう就寝時間。早く寝るべき」
両手に缶を持ったユウが私を見下ろしていた。何か喋ろうと思ったけれど、どこか億劫で。結局視線を合わせただけで再び顔を埋めるしかなかった。ユウの溜め息が聞こえる。
「隣、座るね」
ユウの動く気配。衣擦れの音。缶を置かれたベンチの板が、カコン、と静かに鳴った。
照明も無い夜の中庭はひどく寂しかった。新月なのか空は真っ暗で、離れた廊下から洩れる灯だけが、頼りなげに地面の煉瓦を照らしている。
暖かくも冷たくもない夜風が傍らの樹々を少し揺らしては、うなじを抜けていった。
「あの子はいまエルが診てくれている。アイは寝た方がいい」
ユウが囁く。その声にも隠し切れない憔悴の色が見えて、なんだ私と同じじゃないか、なんて。そんな想いが湧いて消えた。
私とケイが、医務室も兼ねたエルの部屋になだれ込んだ時、あの子は簡易ベッドの上で眠っていた。怖いほど白いカーテンに仕切られて、怖いほど白いシーツの上で。
ほとんど半狂乱だった私を宥めるように、何度もエルが繰り返し言った。
大丈夫。大丈夫だよ。少し疲れてたみたいだから寝てるだけ。心配しないで。
理性の欠片もない私にも否はあったが、それでもエルは詳しい事情を話してはくれなかった。アイちゃん、今日はもう休んで。この子は今晩はここで寝かせるから。大丈夫だから。諭すようにそう言うだけで、何も。
結局、起こしては悪いから、とエル以外の私達は部屋から追い出され、そのまま解散となった。あの子の無事が確認できたからか、ケイはいつの間にか自室に引き上げていたけれど、神経が昂ぶっている私が、はいそうですかと寝付ける訳もなかった。
今の私に出来るのは、持て余した疲労感をずるずると引き摺ったまま、あの子の居ない冷たいベンチで膝を抱えていることだけだった。
「エルは毎日あの子の検査をしている。私達より、」
「分かってる。……ごめん、ありがとう」
ユウの言葉を遮るのも煩わしい。彼女の心配が分かるからこそ無碍にも出来ない。でも、そんな分かり切った言葉で納得できるはずもない。
震える肺に無理やり息を通して、声を絞り出す。
「ユウが見つけたんだよね、あの子を。何処にいたの」
「ここ。中庭。すぐそこの花壇の影」
重たい頭を上げて、隣の彼女の視線を追った。微かな廊下灯に浮かび上がる花壇の輪郭に目を凝らした。嗚呼やっぱり、さっきまでの私は何も見えていなかったんだな。そう思い知らされたようで、また涙が出そうになる。
「そこに寝転がってた。……多分疲れてた、んだと思う」
言い淀むユウの瞳が苦しそうに歪んだ。何かを押し殺すような声で、謝る。
「ごめんなさい。私も、理由はよく、分からない」
そっと首を振った。
「ううん。最初に気付けなかったのはあたしだ。悪いのはあたしの方だ」
「違う、アイは悪くない」
「最初に探し始めたのはあたし、最初にここに来たのもあたし。いや、そもそもこんな」
こんなことを始めたのも、こんなことに成ったのも、結局は全部。
そこから先は言えなかった。奥歯を噛み締めて、我慢するのが精いっぱいだった。情けない。情けない話だ。
ユウは私の無様な自虐に対して何も言わなかった。少しだけ息を吸って、息苦しさを振り切るように、夜の中庭へ溶かすように囁く。
「エルは、明日にはあの子も元気になるって言った。信用できる言葉。だから今日はもう寝よう」
頷く。ただ頷く。虚ろな疲労感を抱えた私に出来るのはそれだけ。
再び、夜風が吹く。暖かくも冷たくもない風がうなじを吹き抜けていく。
薄っすらと滲んだ視界では、星なんて視えなかった。




