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-x 輝億





 「生きる」って言葉が分からなかった。


 正確には実感が湧かなかった。「生きる」とは生命活動を継続的に行なうことを前提に、時に仕事をし、時に娯楽に溺れ、死ぬ瞬間まで日々を過ごしていくことである。そんな単語レベルの理解ならある。でも実感がない。どうしてもない。


 ぼくがいま「生きている」のは初めから決まっている事実だ。ぼくが立っていても座っていても、逆立ちしていても寝ていても。ぼくはずっと「生きている」。あまりに当たり前すぎて、だからこそ価値なんて分からなかった。


 生きていて良かったね。生きているって奇蹟なんだよ。


 そんな一般論としての価値知識は学んだ。教えてもらったはずだった。生きていることが難しい人の気持ちも、個々人の尊重理由も分かる。それなのに。分かっているのに。


 生れてから数年が経つはずのぼくに、実感は湧かない。


 それに「生きている」ことが果たして「良い」ことなのかもちゃんと理解できてはいなかった。もし「生きている」ことに価値があるのだとして。「生きている」ことが何物にも代えがたい尊いものだとして。どうしてぼくに当てはまるだろうか。


 あまり大きな声で言ってはいけない、と教わったことだけれど。世の中にはぼくより早く死んでしまう命があるらしい。それは病気だったり、事故だったり、誰かが原因だったり。理由は数え切れないほどあるみたいで。それは確かに哀しいことだと思う。


 ぼくも一度だけ、その哀しい死を体験したことがある。


 アイたちが使っている白いネズミを飼わせてもらったことがあった。そのネズミ君が死んじゃった時は、胸の辺りを鋭い何かで突き刺されるような、でもその部分にはぽっかりと穴が空いてしまっているような感覚がした。


 これを「哀しい」と呼ぶのなら、ぼくは本当に哀しかった。たくさん涙も流した。ぼくにとって、あのネズミ君の命には価値があった、と思う。


 でも果たして。ぼくの命にも価値があると言えるだろうか。


 自分の命の価値を証明するには、方法が二つある。一つは「他の命にも価値があるのなら、ぼくの命にも価値はある」という問題。でもこれは不可能だ。この世界には命を持つ物が、それこそ星の数ほどある、と聞いた。その全てを調べるなんてきっとカミサマにしかできない。出来る範囲で調べたとしても。「ぼくの命にも価値はあるかもしれない」みたいな不確定な結果しか出せない。昔教わった「ヘンペルの烏」と一緒だ。


 もう一つは、ぼくが死ぬこと。「ぼくが死んだ時に損失が生じたなら、ぼくの命にも価値はある」という問題。でもこれも無理だ。生きているぼくの命の価値を証明するのに、ぼくが死んでは話にならない。


 つまり。ぼくの命にも価値があるということは、完全には証明できない。


 仮に「全ての命に価値がある」という言葉を前提として考えたとしても。答えはほとんど同じだと思う。全部に価値があるのなら、それは価値がないのと同じだ。みんな平等に命を持ち、みんなの命には等しく価値があり、等しく無価値。


 ぼくの命がある。でもその命は価値があるとは言えない。価値うんぬんの話をすべて無視してしまうと、今度は「生きていて良かったね」の意味が分からなくなる。生きることも死ぬことも、特に変わりがなくなる。ただ心臓が停まっているか、停まっていないかの違いだけ。


 そんなことを考えるからか。


 ぼくは「生きる」実感がなかった。


 ぼくの命の価値が、よく分からなかった。


 ────ここまでの、特に意味のない、自分でもよく分からない長い話を、ぼくはアイに話したことがあった。いつもの中庭のベンチで。翡翠色の葉っぱが落とす濃い影の中で。ずいぶん前に死んでしまったネズミ君の、あの冷たい温度を思い出しながら。


 アイはまず、大きな声で笑った。いつもみたいな、空へ昇っていくような笑い方で。一瞬ムッとしそうになったけど、アイはぼくを馬鹿にしたわけではなさそうだった。


「キミ、面白い事を考えるね」


「おもしろい、かな」


「充分に。だって他の子は、キミくらいの歳にそんな小難しいことを考えたりしないよ」


 小難しい、という単語に背筋がぞくぞくするのを感じた。ちょっとだけ大人になったような。アイやユウやケイみたいになれたような。そんな感覚だった。それを気付かれないように、普通に、大人しく聞いた。


「ぼくと同じくらいの子は、何を考えているの」


「うーん、そうだね。まあキミぐらいの歳の男の子だったら、大抵おっぱいの事でしょうね」


 ……途端に頬が熱くなる。陽射しの温度と合わさって、首筋に汗が滲んだ。そうだよ、アイはそういう人だった。明け透けで、適当で、おおざっぱ。聞くんじゃなかった。


 恥ずかしさで顔がいっぱいになる。揺する足先を見つめながら、膝の上でこぶしを握るしかなかった。いまアイの方を見てしまうと誤解されそうで嫌だった。そして、そんなぼくを眺めるアイは本当に楽しそうで、ちょっとだけ殴りたかった。


「あはは、キミもそんな顔するんだ。ごめんごめん」


「もういい」


「でも、本当にキミはすごいよ」


「もういい」


「本当にすごいんだよ。ごめんってば」


 そこで、アイは少し笑顔を引っ込め、深呼吸をした。中庭を吹き抜ける風の匂いを大きく吸い込んで、傍の樹を見上げて、目を閉じた。白く痩せたアイの頬を木洩れ日が滑る。またご飯を食べてないのかもしれない。


「キミは本当に色々なことを考えるね。あたし達が見過ごしてしまうことを。脇に追いやってしまうことを。────いや、違うな。多分逃げたんだ」


「逃げた?」


「そう。考えると辛くて。どうしようもなく泣きたくなって。胸のこの辺りが刺されるように痛くなる」


 アイは自分の胸の前で、人差し指をくるくると回した。何故だかもう見ることに抵抗は無かった。


 想像したから。アイの胸に大きく赤黒い穴が空いてしまう、そんなもしもを想像して。頭の奥がすうっと冷めたから。死んだネズミ君の温度が、再びぼくの手の上で蘇る。


「そうなることに嫌気がさして、全力で逃げているんだよ、きっとね。仕事とか家族とか、好きな人とかお洒落とか、娯楽とか趣味とか。他のことで頭をいっぱいにして。考えないようにした」


 立派な逃避だよ。


 そうアイは呟いて、また傍の樹を見上げた。冷めた眼で、何かを諦めたように。


 ぼくもつられて樹を仰ぐ。深緑や黄緑に光る葉っぱの向こうに、痛いほど白い太陽と、透き通るような蒼空が見えた。星よりも強く輝く、幾つもの木洩れ日。アイの冷めた眼に映っていそうなものは、ぼくには見えなかった。


 そっと目を閉じる。


「ねぇ、アイ」


「何だい」


「アイも逃げたことあるの」


「……私は」


 アイは静かに笑った。


「私は、みんなが逃げる方とは反対方向に、全速力で走っている」


「逃げてないってこと?」


「どうだろうね。研究するってことも、結局は逃避なのかもしれないね」


 上手く理解できなかった。そんなぼくの空気を感じたのか、アイは苦笑いを洩らした。


「ごめんごめん。やっぱり慣れない比喩表現なんてするもんじゃないや」


 ぼくは首を振った。


「確かに、よく分からなかった。でもアイは伝えようとしてくれた。それは悪いことじゃない、と思う」


 アイは一瞬目を見開いて、それからクスッと微笑んだ。葉擦れの音が一際大きく鳴る。


「────キミの、そういう臆面もなく伝えるところ。私は好きだよ」


 疲れた顔。ずれた眼鏡。しわの寄った白衣。


 そんなアイを、まるで写真の中の人みたいだと思った。綺麗だと思った。


 それからアイは満足そうな顔で、でもね、と囁いた。




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