-5 1 刑
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始まりは「院長」―――所長の提案だった。
ヒトクローンの製造。
現代技術を用いればヒトクローンの製造なんて簡単だ。ヒツジやサルでの成果は既に証明されている、人間に適用できないわけがない。そして技術的にも理論的にも可能ならばそれは実行されてしかるべきだ。
それなのに世間は、人間のクローンについて考えることを否定する。
食用肉を大量生産するために家畜を製造する。食べられるように野菜の遺伝子を組み替える。体外受精もデザイナーベビーも可能。そしてその現状を受け入れている。それなのに、ただ「人間である」だけでヒトクローンを否定する。いつヒトクローンの製造が解禁されてもおかしくない現状を、世間の人々は見て見ぬふりをする。「神の領域」という大それた言葉を用いて避ける。
顔の見えない無数の人々が持つそれらの感情を、所長は「進化への冒涜」と名付けた。そしていつか訪れるその日のために、いま必要なのはただ一つだと言った。
モデルケース。
おそらくどこの国でも、どこの研究所でも、既に研究は着手されている。創作世界では、ヒトクローンなぞもはや手垢の付いた設定にまで堕ちている。その上で我々は、ヒトクローン製造が禁止されたこの国で準備を進めるべきだ、と。海外からの圧力に屈し始めている現政府なら、もはやヒトクローン製造の解禁は秒読みと言っても良い。それならば我々が機を逃さず、この国の技術的先駆者として、いつでも情報公開できる環境を整えておくべきだ、と。
実際にヒトクローンを作り、ある程度整備された生産環境で育て、経過を観察する。ヒトクローンがもたらす周囲への影響や障害、それらの結果を正確に記録する。それには、ここみたいな「窓のない研究所」はうってつけだった。外から隔絶された建造物。高度な技術力。それを保証する最先端のセキュリティ。
所長は、好奇心の権化みたいな奴だった。それでいて冷静で、冷徹だった。所長にとって研究対象は、知識の渇望を補うための踏み台でしかなかった。自分の好奇心を満たすためにあらゆる物を用意し、排除し、進み続けた。
所長の前では道徳も倫理も世間の声も、全てが塵同然だった。平気な顔で、淡々と、まるで道端の蟻を磨り潰すように。
そんな所長がトップに立つ研究所に、まともな奴が集まるわけがない。ここで働く研究員たちは案の定、どこか頭のおかしい、螺子の外れた奴ばかりだった。
アイは、このクローン研究にいち早く参加を決めた一人だった。ヒトの細胞から人工的に造り上げた生殖細胞の選別と管理。そこから生まれたヒトクローンの育成と経過観察。それらの役回りを真っ先に引き受けた。
アイツがどんな心情で参加を決めたのかは知らない。興味もない。ただ、生まれてきたクローン児を眺めて「本当に生まれた」と呟いた時のアイツの表情には吐き気がした。それだけは言える。今じゃあの頃と真逆。人を呪わば、の言葉通りだが。
ユウは、そんなアイとは正反対だった。その技術手腕を買われて参加を命じられたユウは、積極的でも消極的でも無かった。所長みたいな淡々とした好奇心も持ち合わせていなかった。ユウはこの案件を「仕事」としか認識していなかった。
そして俺は。参加するしかなかった。
いや、そう自分に言い聞かせていたんだ。
自分の中にある汚れきった好奇心を、絶対に認めたくなかった。周りの奴らみたいな、命を命として扱わない思考が自分の中にあることが許せなかった。
そのくせ、ここまで来て言い逃れしようとか、そんな虫のいいこともしたくなかった。
結局俺も、ここの人間と一緒だったんだ。
あいつを。段々大きくなって、言葉を覚えて、外側に暮らす他のガキ共と同じくらいにまで成長したあいつを。どうしてもニンゲンだとは思えなかった。
クローンは、所詮クローンでしかない。それ以上でもそれ以下でもない。
クローンと言っても、オリジナルの人間と全くの瓜二つに育つわけでは無い。環境や経験によって、外見も中身もオリジナルから離れる可能性は十分にある。だから今回は偶然かもしれない。無数に存在する可能性の、ほんの一回分を引き当てただけなのかもしれない。
それでも。成長するにつれて、声も、顔立ちも、次第に俺に似ていく。あいつの中に自分の人格が一部でも垣間見えるのではないかとか、そんな不安が降り積もっていく。
所長は何も言わない。何にも関与しない。
婦長はその仕事の大半を、俺達三人に押し付けるようになった。設定基準値以上の生産ラインを確保できたのが俺達のチームだけだったから。製造物の責任は製造者にあるから。自分はあくまで監督役だから。そんな綺麗事を抜かして。
周りから人影が絶えていった。ここが「窓のない研究所」だから。研究に参加したのが自分だけではないから。結果が知りたかっただけだから。そんな理由をこじ付けて。
結局みんな畏れたんだ。
現実でも虚構でも有り触れた設定のはずだったそれが、どうしようもなく目の前にあることが。
自分達が関与した研究成果が。理由を盾に自分達の手で造り出した存在が、どう見ても「人間の子ども」にしか見えないことが。
けれど絶対に「人間ではない」という事実が。怖くて仕方が無かったのだ。
その事実に気付いた時には、もうあいつは七歳になろうとしていた。
前任のエルが死んだのは、丁度その頃だった。
生体検査担当官だったあいつは、遺書を残すことも無く。周囲に「もう無理だ」とだけ告げ。その日の夜に自分の部屋のバスルームで手首を切った。
警察を研究所に入れる訳にはいかなかった。コドモの存在を誰にも知られる訳にはいかなかった。外側は未だこの事態を許せる環境ではない。エルは研究者数名でしめやかに葬別された後、どこかに運ばれた。所内に閉じ込められている俺達には想像することしかできないが。少なくとも、まともな処理などされないだろう。
この研究所は、創設当初「閉じた楽園」と呼ばれていたらしい。誰にも知られず、誰にも見られない。研究者にとって都合の良い「楽園」。
今となっては皮肉でしかない。
俺達は外に出られない。中を知ったからには、中で手を穢したからには。外に出ることは許されない。今いるこの研究所を本物の楽園だと信じ込み、この中で暮らすしかない。
本当に、本当に馬鹿げた話だ。
そんな自分達と同じ空間で生きるクローン。人間じゃない、ニンゲンですらないコドモ。
もちろんあいつも、外の世界の存在を認知できた。中で生まれ、中で育ち、外についての教育を一切受けなかったにもかかわらず、あいつはわずかでも、外に何かがあることに気付いていた。
『この建物の外は、どうなってるの』
今でもはっきりと思い出せる。
「エル」が研究所から姿を消し、新しい「エル」がまだ赴任していなかった頃。「情緒の発達」段階として、三人であいつの話し相手をするようになっていた頃。
一度だけ、あいつが外について尋ねて来たことがあった。
その日はあいつの「昼食を一緒に食べたい」という提案の下、俺達は中庭に集まっていた。今まで三人で顔付き合わせた食事なんてしたことが無かった俺達は、各々何かしらの食事を持ち寄り、言葉少なに胃に詰め込み、午後の始業までの時間を持て余していた。会話の糸口を探ることすら億劫で、互いに無視をしあっていた。
その時。近くのベンチに座って中庭の蒼空を見上げながら、あいつが呟いた。
『この建物にも、外ってある?』
『あるよ。物には中と外があるからね』
捕捉にふぅん、と生返事をしただけのあいつに、アイが聞き返した。
『ねえ。君は外に行ってみたいのかな』
『……無理だろ』
咄嗟に口を挟んでいた。思ったより声が大きく、あいつやアイがきょとんとした目で俺を見つめた。悟られないように視線を外すしかなかった。
苛立っていたんだ。俺達はここから出られない。快適な中に居座ることと引き換えに、俺達は外を失った。どこにも行けない。どこにも出られない。それでも人はこの中で死んでいく。運命のように死んでいく。「エル」が死んだように。
それなのに。
『どうして?』
コドモは首を傾げた。純粋で、他意すらない。何も知らないコドモ。
穢れ切った俺達に囲まれながら。外に出ることへの渇望を中で埋めるしかない惨めな俺達に育てられながら、何も知らないコドモ。写真の中でしか会わないはずだった子供時代の自分。汚い現実を知らない自分。
羨ましかった。息苦しい現実を知らないコドモが羨ましかった。無駄に積まれた自分の人生を、経験を、初めて憎んだ。代われるなら代わって欲しかった。この屑みたいな世界の中で、知らないことがどれだけ幸せか思い知らせてやりたかった。
そんなことを考えてしまう子供じみた自分が、心底嫌いだった。
だから言った。言ってやった。一番傷つくだろう言葉で、一番傷つくだろう言い方で。傷つけ、傷つけ、と願いながら。
『だってお前、ニンゲンじゃないだろう』と。
────なのに。
『どういうこと。よく分からない』
コドモは訴えた。無垢な眼で。無垢な言葉で。無傷な心で。教えて、と。
『ねえ教えて。ニンゲンってなに』
あいつは、ニンゲンが何であるかすら知らなかった。
『ニンゲンなら外へ出られるの』
あいつは、外を知らなかった。
『アイは。ユウは。ケイは。ニンゲンなの』
あいつは、俺達が何者なのかすら知らなかったのだ。
『……ぼくは。ニンゲンじゃないの』
あれほど空虚な「ニンゲン」を、俺は多分知らない。
あの時から三年が経った。研究所内で許されたカレンダーを何度めくっても、もう三年が経つことに代わりは無い。少なくとも俺にとっては酷く短い時間だった。
研究所にこれまで出資してきた一部の投資家たちが、この研究事業から手を引くと言い始めた。
研究所が新設できるほどの莫大な費用。十年という長大な時間。それに見合わない成果。
挙げればきりがない理由をまくし立て、機密保護に関する契約書類すら焼き捨て、彼らは俺達との縁を切った。当然のごとく「閉じた楽園」の研究資金は底をついた。事業縮小とともに研究所の移転が決まった。
そして所長から言い渡された、被検体の処分。
世界的な条約でも取り決められている禁忌を、僅かながらも国家予算を享受している研究機関が行なっていいはずがない。外部にも公開している他の研究分野は継続、クローン生成によるモデルケース実験は凍結。
所長の遺伝子を使わなかった理由は。一介の研究員の遺伝子で実験を行なった理由は、こういう時の為であったはずなのに。処分の決定は覆らなかった。
『私達に、あの子を殺せと言うのですか』
役員会からの呼び出しで聞かされた時。アイも俺も何一つ言い返せなかったあの場で響いたユウの声が、今でも思い出される。
あいつが大人になることは無い。そもそもクローンである以上、遺伝子情報の摩耗による短命は避けられない。それでもあいつは処理される。
十歳の誕生日を迎えさせてやるのはせめてもの温情だ、と言われた。
ふざけるな、と罵ってやりたかった。実際そうした。加えて所長、いや「院長」を含めた数人を殴った。自分でもちょっと驚いた。むしろ清々しい気分さえした。あいつの処分決定を受けたその日に、俺の研究員としての資格一切は剥奪された。
自分と顔が似ているからとか。被検体が惜しいからとか。ここまでしてきた研究成果を手放したくないとか。行き場の無い怒りを押し付けているとか。そんな理由じゃない。
もう良い。
俺は、あいつを失いたくないんだ。
最初から気付いていた。俺が見ないよう避けていただけだ。禁忌だから、人間だと思えなかったから、生まれてはいけないコドモだから。そういう、他の奴らと同じような理由を盾にして。愛想の欠片もない態度を振りかざして。
あいつが人間じゃない事実は変えられないし。俺と同じ遺伝子を持った単なる被検体であることも変えられない。そんなことは初めから分かっていたんだ。それでも俺は、もうあいつがいない時間を想い描くことができないでいる。
ここまでの事実を。ここまでの感情を。
早く、あいつに伝えておけばよかった。
いま、それだけが心残りだ。
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なんて。
言葉にならなかった感情を、仕事の暇潰しついでにテキストファイルへ書き出してみて。やっぱり自分は典型的な理系脳なんだな、と思った。
文章に脈絡がない。表現が安っぽい。
まるで遺書みたいだ。見るに堪えない、それでいてどこまでも事実な、出来損ないの遺書。
電気も点けていない薄暗い自室で、パソコンの淡いブルーライトに照らされながら、しばらく画面上の文字列を眺めた。何度か目を走らせ、最終的にバックスペースキーを長押しすることにした。
ぐしゃぐしゃと潰えていく夥しい数の文字を、ただ見ていた。
俺は結局あいつに謝りたいのか。自分を責めたいのか。そのどちらも自分の柄ではない気がしたし、そんなことはしたくなかった。罪悪感というのはつまるところ、既に罪を犯したことが原因なんだ。そして罪は消えない。「犯罪者」がその責任を投げ出すことなど許されない。
俺は。少なくとも俺は。
あいつを生み出した責任を背負って、生きなければならない。
傲慢だ。身勝手だ。「ニンゲン」とすら呼べないかもしれない、それでも俺にはもう「人間」だとしか思えない、そんなあいつの命の上に生きていく、なんて。
最初は嫌悪の対象でしかなかったあいつが次第に大きくなって。あいつの無表情の中から、多少なりとも感情の機微が読めるようになって。遠ざけたいと思うのに、傍に寄って来たあいつの顔が頭から離れなくなった。
あいつに責められたらどれだけ楽だろう。何故自分を生み出したのかと、涙ながらにあいつが俺を殺してくれれば、どれだけ心が救われるだろう。
あいつと一緒に死ねたらどんなに良いだろう。
せめて、あいつに名前を。
その時。
コンコン。
無機質な音。自室の扉がノックされる音。続いて。
『ごめん、ケイ居る? 居るなら開けて』
外からの、切羽詰まった声。アイだ。
ちら、と壁の時計を見上げた。もう夕飯時も終わろうかと言う時間。
画面上の文字が全て消えていることを確認してから席を立ち、扉の鍵を外した。扉が開き切ることも待てない様子でアイが部屋に押し入り、部屋の中を忙しなく見渡す。
「……何だよ、急に」
「居ない? 居ないのね? あなたのところには来てないのね?」
「だから何だ。話が見えねぇから落ち着けよ」
切れた息で肩を上下させながら、アイが怯えたように告げる。嘘みたいな内容を。
「あの子が消えたの」