-4-3 友
ひと仕事終えた午後二時過ぎ。
読みかけの本と眼鏡を携えて、いつものように中庭へ向かうと、案の定あの子がいた。大きな図鑑のような物をパラパラとめくっている。目を通しているようにも、物思いに耽っているようにも見えた。
近付く私に気付いたようで、無言のまま手をひらひらと振ってくれた。特に会話をする事も無く、そのまま手元の大きな本へ視線を戻す。
私も静かに彼の傍らに回り、数度ベンチの上をはたいてから腰を下ろした。ローファーを脱いで、ベンチの上で膝を抱え、持って来た文庫本を開いた。
暖かく心地よい風が樹々を揺らす。それにつられるように、私たちに降り注ぐ木洩れ日が静かに踊る。花壇に咲く青紫の花々がゆらゆらと靡く。日と土の匂いが鼻先をくすぐった。
昼過ぎにベンチに集まり、無言のまま本を読み耽る。私と彼はこの、はたから見れば無意味にも映るような日課を、ほぼ毎日欠かすことなく行なっている。
どちらから先に始めた、というものでもない。いつの間にか自然とこうなっていたとしか言えない。
夏の暑い日は木陰の下で。冬の寒い日にはマフラーと毛布を巻いて。雨が降る日とチェスに興じる時以外、私と彼は一言も喋らないまま昼過ぎの余暇を過ごす。
昼食時の、アイとケイを巻き込んだ騒々しい時間とは反対に、水を打った様な静けさが満たす穏やかな時間。
ちらりと左側を覗き見る。彼が開いていたのはやはり図鑑だった。
草花や樹木のカラースケッチがふんだんに載った、植物図鑑。
彼はこの図鑑をとても気に入っている。擦れた頁の端。欠けた表紙。その頁の上を労わるように撫でながら、彼は静かに読み進めていく。
不意に思い出して、中庭の花壇へ視線を移した。そよ風のたびに、さわさわと揺れる青紫色の小さな花々。いつだったか彼に教えてもらった気がする。何という名前だったろうか。ロ―ベ、メア。ベルメア。ロメリア。いや違う、確かロベリア。
何度もその図鑑をめくっているからなのか、彼は、私たちが気にも留めないような草花の名前をよく知っていた。
皮肉。そう思ってしまうのはきっと、私に否があるからだ。
再びそっと彼を見やる。柔らかい頬の上で淡い木洩れ日が揺れている。
彼には名前がない。私たちは彼を名付けていない。
世間において野良猫や家畜に名前を付けないのは、情が移ると困るからだそうだ。それらの命は私たちの持つそれよりも確実に短い。あるいは意図的に人間側がその命を絶つ。だからこそ情が移っては話にならない。
そして私たちも、彼に名前を与えてはいない。「自我の確立が名前の有無に関与するか」という研究目的が最終的にこじつけられたが、結局は同じことだ。私たち研究員は自らの責任を棚に上げ、彼が一個の独立した存在になることを恐れた。
そんな彼が────名前のない彼が、世界中から集められた名前をしげしげと眺める。表情には出ていないが、瞳の奥がきらきらしているのが見て取れる。
彼が「名前」という概念を正しく理解しているかは定かでない。例えその概念を完璧に理解していたとして、自身に適用しているかも定かでない。知能テストは毎日のように行なわれていても、彼がどのような思想を持ち、どのような感性を育んでいるか、誰も知ろうとしない。
開いた文庫本の頁は一向に進まない。それなのに、何度繰り返したか分からない疑問が、いくつもいくつも湧いてくる。罪悪感や、背徳感や、得体の知れない感情がコップの淵から滴り落ちる。それらが足元に冷たく溜まる。静かに、緩やかに波紋を広げながら、足首を浸していく。
『だってお前、ニンゲンじゃないだろう』
いつだったか、ケイがこの子に告げた言葉。的を射ていながら、彼本人には欠片も理解されなかった言葉。どのような経緯でそんな話になったのか今となっては思い出せない。でも彼が応えた言葉は、今でもはっきりと耳に残っている。
『どういうこと。よく分からない』
彼は私たち三人に尋ねた。困ったような顔で、あくまで素直に、あくまで純粋に。
『ねえ教えて。ニンゲンってなに』
私はよく周りから、感情の薄い人間だと揶揄される。何にも興味が薄く、淡泊で、捉え処のない自動人形のようだと陰で言われていることを知っている。別段気にしたことはなかった。私は私。周りは周り。自分の時間がきちんと保たれていれば、周りに何を言われようが、周りに何されようが構わなかった。
でも彼の、哲学的で生々しいその言葉は、文字通り。
私のこれまでの人生を抉った。
「ユウ」
はっと我に返った。彼が私の顔を覗き込んでいる。慌てて取り繕った声が出る。
「ごめん。考え事してた。なに?」
「他の読み物ってどこにある」
「図書室は。もう全部読んだの?」
こくり、と頷く彼。
「全部じゃないけど、大体は」
「あそこ以外だと私たち用の資料室ぐらいしか」
言いかけた、その時。
「何故ここにいるのですか」
硬い声が中庭の向こうから飛んできた。ロベリアの咲く花壇の向こうから、婦長が険しい視線を投げかけていた。
「私は貴方の業務終了について何も報告を受けていませんが」
「……失礼しました、婦長。本日の業務終了をお伝えし忘れていました」
「怠慢です。速やかな伝達と組織としての連携に障ります」
そうこぼしながら婦長がこちらに歩いてくる。中庭に敷かれた煉瓦に、婦長の靴音が鋭く響く。私たちのベンチから数メートル離れた場所で立ち止まると、彼女の厳しい双眸が私を睨んだ。
「もし緊急事態に陥っていた場合、どうするつもりだったのですか」
「申し訳ありません」
私の言葉に対し、大袈裟にため息を吐く婦長。もはや彼女の癖としか言いようがない。
「謝罪は結構です。二度と同じことがないように。分かりましたか」
「……分かりました」
「では貴方に連絡をします。院長がお呼びです。二十分後に院長室へ向かいなさい。簡単な伝達事項があるそうです。くれぐれも粗相のないように」
「はい」
「連絡は以上です。質問は」
「ありません」
「よろしい。それでは」
返事を受け取るだけ受け取って、婦長が立ち去ろうとする。私も肩の力を抜きかけた。
その時。
「あ、待って」
彼が婦長に駆け寄った。ベンチから降りて、何か聞きたそうな顔で、去り際の婦長へ手を伸ばした。
彼の指先が婦長の手に触れて。婦長が振り返って。そして。
パァン。
乾いた音が鳴り響いた。
何が起こったのか。一瞬訳が分からなかった。彼が婦長の手に触れて、のけ反った婦長が咄嗟に彼の手を払って、横一線に薙いだ婦長の手が。
彼の顔を叩いた。
空気が凍り付いた。陽射しが急に温度を失い、風が止まった。弾けた音が中庭の壁で虚ろに反響する。時間が止まったような錯覚。
力の方向へ振られた顔をそのままに、彼は頬に手を当ててゆっくりと俯き、か細い声で呟いた。
「ごめんなさい」。
はじかれた様に彼の元へ駆け寄った。文庫本を地べたへ投げ、靴下が汚れることも忘れて彼の傍へ膝をついた。私から少しだけ顔を背けて、でも彼の身体は小刻みに揺れていた。
彼の肩を掴んだまま婦長の顔を見上げる。驚きとも、拒絶とも、侮蔑とも取れる表情を顔に張り付かせたまま、婦長は微動だにせず立っていた。
「―――何故ですか、婦長」
一瞬自分の声だと分からなかった。低い声。震える語尾。ただただ喉の奥が熱い。視界が赤い。
「彼は引き留めようとしただけですよね。そこまでするのは何故ですか」
「わ、たし、は、そんな」
「そんな」、何だ。言い訳か。そんな適当な言い逃れを、この人は。
言葉にならないどす黒いもので頭が痺れる。心臓がうるさい。表情が上手く作れない。でも。私は絶対。そこまで考えた時。
ぎゅっと抱き締められた。
数瞬遅れて、彼だと知った。
すうっと頭が晴れていく。たったそれだけで理性が戻っていく。震えながらも、その小さな膂力で私の背中に腕を回す彼。鼻先をくすぐる彼の匂い。日と、土と、草木の匂い。数秒前まで熱かった喉が、視界が、優しい速度で冷めていく。
一呼吸空けて。
「―――何か。聞きたいこと、ある?」
彼の耳元で、出来る限りそっと囁いた。彼の存在を確かめるように、念入りに確かめるように抱き締め返して、囁いた。
彼の言葉を受け止め、反芻し、再び婦長の顔を見上げた。もう心がざわつくことは無かった。
「婦長」
呼ばれた本人が一瞬顔を引き攣らせる。
「彼を資料室へ案内してもよろしいですか」
唇を噛んだまま。焦点の合わない瞳で、婦長はヒステリックに叫んだ。
「かってにしなさいっ」
血の気の失せた真っ白い顔のまま彼女は今度こそ踵を返し、口元を抑えながら駆け出した。こちらを振り返ることは無かった。
両腕の中にすっぽりと収まる彼は、婦長の靴音が遠い廊下の向こうへ消えると、その腕の力をそっと緩めた。もう震えていない。涙も流さない。頬を摺り寄せて縋る様なこともしない。けれど静かに囁く。
ごめんなさい。ごめんなさいと。何度も。何度も。
私は静かに首を振る。腕にまた少し力を込めた。彼が、痛い、と思える程に。
陽射しの温度が戻っていく。穏やかな風がまた吹き始める。花壇に咲くロベリアの色が、中庭の木々に映える。五月の空は少し暖かく、少し冷たい。抜けるような蒼空に白い巻雲が浮かんでいる。きっと私の背後には、いつものベンチに置かれた彼の図鑑と、地べたに落ちた私の文庫本と、煌々と海面のように揺れる木洩れ日が在るはずだ。
謝っていた彼が言葉を切り、そっと、ありがとうと呟いた。
ユウ、ごめんなさい。ありがとう。
再び首を振る。謝るのは私の方だ。
久々に怒ったせいで心身ともに疲れ切っている。婦長に対しての言葉も機械的で、これじゃあまるで周囲の陰口通り。出来損ないのロボットみたい。誰かをこうして抱き締めることだっていつ以来だろう。色んなことや感情がちぐはぐで、まるで現実感がない。
慣れないことはするもんじゃないな、と溜め息を吐いた。その間にも、重なった胸の向こう側で、彼の心臓が音を刻んでいるのが分かる。
彼はニンゲンであって人間ではない。元凶は、言うまでもない。人間という定義の中に彼を含める事が出来るほど、この世界は追い付いていない。にもかかわらず私たちは彼を生み出した。
細胞一つだけでも生物と呼ぶのなら、私たちは何度も「彼」を作り、何度も「彼」を適性検査にかけ、何度も「彼」を殺した。その中で設定基準値を超えた個体が、偶然「彼」だっただけ。それだけ。それだけの理由で私たちは彼を育てた。
でも、彼はここで生きている。私の腕の中で生きている。どんな言い訳を絞り出しても。どれだけ口当たりの良い言葉で飾っても。たとえ名前が無くても。
彼は人間だ。私はそう思う。
そして、改めて理解する。現実を。あと数日後には自分達の手で、正確にはアイの手によって、自分達の所業を罰する日が来る。そんな余りにも身勝手な現実を。
いま一度彼を抱き締めた。
熱を帯びた彼の身体。小さい体躯と響く鼓動。日と土の匂い。葉擦れの音。敷かれた煉瓦の上で無様に潰れた、私の文庫本。進まなかった頁。でも別に良い。
あの先を読むことは、多分もう無いだろう。