-3-2 不調
手を洗っていた。液体石鹸の泡で真っ白になった手を大量の水で流し、汚れを落とす。ハンカチで水気を取りながら口元を拭い、備え付けの鏡に目を向けると、自分と目が合った。
顔が白い気がする。目の下に隈がある気がする。
昼食に何か入っていただろうか。最近眠れているだろうか。どちらも答えは「ノー」だと分かっているのに、思考が定まらない。何か食べなければ。それよりも少し仮眠を。
そう考えながら、まだ何か手に残っている気がして再び蛇口を捻る。手に液体石鹸を塗りながら、何故私は手を洗っているのだろうと思い返す。
そうだ。あれだ。
院長から先程メールが届いた。
「アライさんを院長室に呼ぶように」。それだけ書かれた簡素な所内メールだ。
院長は最近、主要な研究員たちと面談を行なっている。おそらく、この研究所が閉鎖された後の処遇についてだろう。私も一度呼ばれた。確か、これからも院長の下で働きたいと言った。そういえば院長はどのような表情だったろう。それとも私は何か別の事を言ったろうか。
ともかく今日はアライさんだった。彼女を呼ぶために、彼女の担当室へ赴いたが、生憎不在だった。部屋の中は綺麗に整理されていたため、今日の業務を終了したのだろうと考えて所内を捜した。
アライさんは仕事ができるが奔放だった。無表情で淡々と喋ることから分かるように、極度のマイペース。業務外の事柄には融通が利かない。時間になれば個人の意思で動く。指示を出すこちらの身にもなって欲しい。集団は統率されるからこそ機能する物であるのに。
結局アライさんを探すのに五分も掛かってしまった。彼女は中庭であれと共にベンチに座っていた。彼女に院長の主旨を手早く伝え、自室に戻ろうとした時、あれが。
そう。あれが。私の手に触れて。
私が思わず振り払って。
一瞬中庭が静まり返った。
私の手と何かがぶつかった音が酷く空虚に響いたのがまだ耳に残っている。でもよく覚えていない。アライさんに訊ねられて、私は何か言葉を返した気がするが。何を喋ったか、霞がかかったようにおぼろげだ。
手に付いた泡を擦りながら思う。
私は何故焦っているのだろう。何故こんなにも呼吸が乱れているのだろう。こんなことをしている暇は無いのに。
やらなければならない事はまだ山ほどある。一部であろうと、研究施設の閉鎖には時間と労力、そして繊細な注意力が必要だ。特にここは機密事項の巣窟。手抜かりがあれば、どこから世間の非難が降り注ぐか知れない。
私が。私が院長から任されたのだ。
院長が研究員たちへ直に連絡を取ることは無い。私に連絡が来て、私がそれを下に伝達する。顔を知っているのだって私と、一部の研究員ぐらいのものだ。院長は末端の研究員たちにとって「呼称しか知らない雲上人」だった。
その院長から任されたのだ、私が。この私が。
婦長。
不意に呼ばれた気がした。院長の声が。
婦長。
────いや違う。院長は私を『婦長』とは呼ばない。
ねぇ婦長。
これはあれの声だ。あれが私を呼ぶ、声。
蛇口を捻る。じゃばじゃばと醜くこだまする水音。袖口に撥ねる水滴。
あれは私を馴れ馴れしく呼んだ。あれは私の心情を構うことなく、とりとめも無いことをよく尋ねた。最近はようやく「謙虚な姿勢」というものを獲得したようだが、それでも目障りであることには変わりなかった。婦長、婦長、と。
純粋で、無能で、空気の読めないコドモ。繊細な感情の機微すら理解できないコドモ。
何故あんな物を生み出したのだろう。何故こんな研究を始めたのだろう。そもそも言い出したのは誰だったろう。あんなものの為にどれだけの費用が掛けられ、どれだけの人員が労働しただろう。あれのせいで前任の生体検査官は命を絶ち、その処理のために更に費用と人員が掛けられた。無駄な事この上ない。
でも大丈夫。大丈夫だ。それももうすぐ終わる。
婦長。ねぇ婦長。
耳元の声を無視して手を洗う。手の皮が擦れていく。婦長。そうこれは幻聴だ。大丈夫。ちゃんと自覚できている。連日の研究整理や雑務で少しばかり疲れているだけだ。ねぇ。健全な食事と良質な睡眠でカバーできる。どのみちあと数日でこの研究は凍結されるねぇ婦長。
ねぇ、ねぇ婦長。
中庭にいるあれの声が聞こえる。婦長。紫色の花が咲く花壇に囲まれて、土と陽の臭いが漂うベンチに座って、傍らの樹木から落ちる影の中で、私を呼ぶ。婦長婦長。あと数日で研究は凍結される。あと数日で。あれは。
────ねぇ婦長。ほんとうに、ぼくを、ころす、
不意に胃がせり上がった。鼻を突く胃酸の臭い。思わず洗う手を止め、洗面台に顔を突っ込んだ。きたないおと。いやなにおい。
急いで口を漱いだ。鼻腔に漂う酸い臭いを消すように、何度も口を漱ぐ。そして手を洗う。石鹸を塗りたくり、蛇口を最大まで捻って流す。とてつもない疲労感に襲われる。膝の力が抜けそうになる。しっかりしなければ。私だけはしっかりしなければ。大丈夫。大丈夫だから。どのみち執行するのは私ではない。私ではないのだから。
彼女だ。彼女が全責任を負う。私ではない。大丈夫。大丈夫だから。だから。
コンコンコン。
そのとき誰かが扉をノックした。意識がゆっくりと引き戻されていく。石鹸と、少しだけ残った胃酸の臭いが晴れて、頭が冴える。乱れた息だけが虚しい。
部屋の隅に位置する洗面台から壁掛け時計を仰ぎ見た。もうこんな時間。ということは恐らくタチバナさん。
急いで口と手を拭いてデスクに戻る。換気をしようと思ったが、一瞬眼が窓を探して、探した自分に嫌気がさした。
この研究所には窓が無い。どの担当室にも。どの部屋にも。外の景色が見られる場所は無い。全て灰色のコンクリートで追われている。さながら閉じ込められているような。幼い日に読んだ童話に出てくる塔のような。誰も中が分からず、誰も外が分からない。外が見られるのは中庭だけ。でもあそこにはあれがいる。仕方ない。
そう、全部仕方ないことなのだ。
願掛けのように換気口のスイッチを入れ、最後にもう一度口元を拭い。
私は扉に向けて「入りなさい」と告げた。