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 カルテの最後に自分の名前をサインして、ペンを置いた。確認がてら、もう一度紙面に目を通しつつ溜め息を洩らす。


 身体測定の結果、前日からほぼ変化なし。


 血液検査、成分量も血圧も正常。異常値もなし。


 問診結果、体調も問題なし。


 結局、いつもと同じ。


 よし、と回転椅子を押して立ち上がる。電気を消して、ファイリングしたカルテと部屋の鍵を手に取り、手鏡でメイクチェックをしてから担当室を出た。


 鍵を閉めていると、殺風景な廊下の向こうから微かに風が流れて来た。土と草木と夕日の臭いが鼻につく。多分中庭から流れ込む風だろう。その匂いに背を向けて、廊下を歩き出した。


 人影も物音もない廊下に、私のヒールの乾いた音だけが響く。


 あの三人はどこにいるだろうか。まだ残りの業務に追われているのかな。先にお夕飯を食べていようか。まだ早いかな。一人だけ仕事が早く終わるというのも暇で暇で仕方ない。


 扉の枚数を数えつつ廊下を進み、一つの前で立ち止まる。三回ノックすると、しばらくして「入りなさい」という声が聞こえた。


「失礼しまーす」


 重々しい扉をスライドさせる。扉の先には、簡易ソファと幾つかの本棚。潔癖に整とんされたデスク。そして、咎めるような目で私を睨む婦長。


「タチバナさん。いつも言っていますが、そのだらしない喋り方を止めなさい」


「それは謝りますけど。婦長の方こそ、本名で呼ばないでくださいよぉ。バレちゃいますよ?」


 私の抗議に、婦長は軽く鼻を鳴らしただけだった。


「そんなミスを私が犯すわけが無いでしょう。それに『エル』なんてふざけた名前、あれの前でしか使いませんよ。子供じみている上に、必要性の欠片もない」


 はいはい、という言葉は心の中にとどめた。ヒステリックな完璧主義者はこれだから扱い辛い。


「あ、これ今日のカルテです」


 持参したカルテを婦長のデスクに置く。けれど婦長は「そうですか」と受け取ったカルテを机の脇に移動させただけ。内容なんて見もしない。今日もきっとゴミ箱行きだ。私に書かせる必要性が欠片もないのなら、さっさとそう言えばいいだろうに。


「それよりタチバナさん」


「エルです」


「タチバナさん。彼女の様子はいかがですか」


 そっとため息を吐いた。もういいや。


「大体は普段通りですよ。ただやっぱり睡眠不足と食欲低下が目立ちます。何度も月や日にちを確認しているので、精神的にもかなりキてるんじゃないですか」


 そこまで言ったけれど、婦長は疲れたように首を振った。


「そんな事は聞いていません。意図を理解してください。もう一度、彼女の様子は」


 さすがに頭に血が上った。でも我慢、我慢だ。こういう理不尽な人は自然災害みたいなものだし。それに、今の聞き方で改めて分かった。


 婦長が彼女を何とも思っていないこと。言いたくないことは言葉にすらしないこと。自分の唇は決して汚さないこと。


 だから深呼吸をして、言葉を捩じ込む。


「大丈夫です、安心してください。彼女はちゃんとあの子を殺しますよ」


 殺す。「処分」でなく「殺す」。そう言った甲斐があった。婦長の右頬が引き攣ったのを視界に収めると、ゆっくりと溜飲が下がっていった。


「じゃあ私、もう今日は上がりますんで。お疲れ様でした」


 悠々と言い残し、私は婦長室を後にした。





 婦長室から出たはいいものの、カルテを書いてしまえばその日の業務は終了してしまう。お夕飯にはまだ早い。時間つぶしに、特に行く当てもなく廊下を歩き回るしかなかった。


 改めて研究所を歩いて見渡すと、少し感慨深い気がしないでもない。ここへやって来てもう三年近く経とうとしているだなんて不思議だ。大学生だった三年前が、淡い夢のようだ。


 研究所への就職。簡単な業務。機密厳守で、割の良い仕事。


 大学生活が楽しくて、就活が面倒くさくて、もっと遊びたかったあの頃の私は、そんな呼び込み口上に何の疑いもなく乗った。


 やってみれば確かに何てことは無かった。毎日あの子の生体検査をするだけだったし、カルテに書き込むべき内容は異様なまでに少なかった。


 きな臭く感じて、それとなく探った事もあったけれど、特に問題は無かった。大学生向けに生体検査官を募集していたのは前任の『エル』の辞職が原因だったみたいだし、簡略化されたカルテはその前任者が、仕事の能率化のために行なっただけだった。


 前任の『エル』が何故辞職したのかも何となく耳にしたけど、お給料はきちんと労働時間分出るし、生活空間の快適さもお墨付き。心残りと言えば、研究所内に「いい感じ」の人が少ない分、出会いなんて皆無だったことくらいだ。


 私は何不自由なく、この狭い研究所で三年間の時を過ごした。


 逆を言えば、三年間しかここにいない。私が来た時には、あの子はもう七歳だった。


 知性も理性もある程度備わった男の子。純粋無垢で擦れてない、吐き気がするほど普通の男の子。


 そんな彼の周りにいた三人。アイちゃん。ユウちゃん。ケイくん。


 あの子のどこにそこまで惹かれたのか、さっぱり理解できなかったけれど、三人は自然とあの子の元に集まっていた。昼休みになるとあの中庭に集まって、よく四人で過ごしていた。ご飯を食べたり、本を読んだり、昼寝をしたり。


 あの子はそんな三人に囲まれながら、時々目をキラキラさせたり、年相応のふくれっ面をしたり、安らかな寝顔を晒したりしていた。日々機械的に繰り返される検査の間でもほとんど無表情なあの子が、三人に対しては何の躊躇もなく気を許していた。


 多分あの子は、三人が思っているよりもかなり聡い。私の全てを知っている訳では無いのに、子どもの特権なのか、何となく雰囲気を嗅ぎ分ける。そして、婦長や他の研究員達と接するときと同じ様に、私を避ける。


 彼は間違っていない。むしろ正しい。


 だって私はあの子が嫌いだ。


 でも。そんなあの子とは逆に、三人はかなり鈍かった。


 この研究区画とは別の場所に常駐している他の研究員から聞いたことがあった。三人は毎年、あの子の誕生日パーティを開くらしい。


 中庭にお茶とケーキを持ち寄って。アイちゃん主催で、ユウちゃんとケイくんが何となく手伝う態で、細やかだけど華やかなパーティだそうだ。


 私も一度だけ、遠くから眺めたことがある。外部から特別に搬入した市販のショートケーキを四つ、白いお皿の上に並べて。小さな蝋燭を立てて。ユウちゃんが火を付けて。アイちゃんが歌って。ケイくんが興味なさげに。各々声を合わせることも無くあの子に告げる。


 「誕生日おめでとう」。


 私はあの子に同情なんて感じたことがないし、三人を軽蔑する気も更々ないけど。これまでも、これからも、単なる研究対象でしかない子供に向かって、幸せな笑顔で誕生日ケーキを並べて。あまつさえ「おめでとう」なんて。


 あまりに馬鹿馬鹿しくて。あまりに滑稽で。


 あまりに哀れだった。


 でも私はそんな三人が大好きだ。


 世の中に掃いて捨てるほど溢れている道徳やモラルをちゃんと理解した上で、好奇心の赴くまま無意識にそれらを踏み躙り、それでもなお狂わない彼らが。その隠さない人間臭さが。


 とても好きだった。愛しているとも言えた。


 表面を取り繕うだけの度胸のない男より。相手を馬鹿にする心を偽りながら社交辞令を欠かさない女より。それでいて相手の内面を一ミリも理解できていない凡人より。彼らの方が数倍好ましい。


 そして思った。知りたい、と。


 彼らが本当の意味で自分達がしていることを理解し、改めてあの子と心から対峙したとき、彼らの心に過るモノが知りたい。その時の顔を見たい。人間臭いまま堕ちていくその瞬間が。不安定で曖昧で些細なことに振り回されて、壊れる、その瞬間が。


 ふと気付くと、アイちゃんの担当室の前に立っていた。スライド式扉の窓から中を覗くと、暗い部屋でキーボードを叩くアイちゃんがいた。そうだ、後で温かい飲み物でも用意してあげよう。自分の担当室へ帰るため、元来た廊下を戻り始める。


 アイちゃんは最近よく「今日は何月か」と聞くようになった。ほとんど無意識に尋ねて来る。何度も。何度も。


 アイちゃんは限界だ。そしてあの子の誕生日が来る。


 私は。そんな彼女を見るたびに背筋を震わせる私は。多分この研究所の誰よりも、ニンゲンを馬鹿にし過ぎている。


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