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-1 0 哀





 パソコン画面に広がるおびただしい量の文章。そこに最後の句点を打ち込んだ瞬間、凄まじい疲労感に襲われた。


 溜め息と共に、回転椅子の背凭れへ身体を預ける。ギシッと悲鳴を上げる椅子、凝り固まった肩、乾いた眼。どれもが鬱陶しい。


 殺風景な研究室の、何の変哲もない地味な天井を、ぼうっと眺める。あと何しなきゃいけないんだっけ。薬品棚の整理。散らばった資料の整理。器具の点検。他にもまだ、たくさん。


「お疲れ。終わった?」


 いつの間にか、隣にエルが立っていた。両手に持った二つのマグカップからは湯気が立ち上っている。エルはその一つを、資料が雑多に積まれた私のデスクにコトリと置いた。


「あぁ、ありがとう。とりあえず書き切ったよ」


「大変だねぇ。でも、その報告書って元々婦長が書くやつじゃない?」


「『監督者は貴方なのだから』だってさ」


「相変わらず人使いが荒いねぇ、あの人って」


 そこでエルが不意に言葉を切った。唐突に私の顔を覗き込む。


「……なに? 何か顔についてる?」


 しばらく私を凝視した彼女は、わざとらしく顔をしかめた。


「アイちゃんまたお化粧してないでしょ。ケアもまともにしてない」


 少しほっとした。何だそんな事か。


「最近忙しいし、これくらいどうってことないよ。それにここじゃ誰も気にしないって」


 その言葉にエルが深い溜め息をつく。


「ダメ。女の子は常に細かい所まで気を配らなくちゃ」


「あたしもう女の子って言える歳じゃないけど」


 エルが結婚式用の花束なら、私はせいぜい野末の雑草。毎日髪を結って、毎日白衣に合うお洒落な服を着て、毎日完璧なまでにフルメイクするなんて。私からすれば考えられないことだ。


「それに、あたしが顔合わせるのなんてケイくらいでしょう。あいつが、あたしのお洒落に興味あるとは思えないけど」


「どんな男を前にしても手は抜かないの。それくらいの気概は必要でしょ」


「あたしには無いね、残念なことに」


「それにケイ君って結構イケメンの部類だよ? 性格キツいけど」


 彼女の言わんとすることは分かる。ケイは人当たりがキツい。嫌いな相手に対してはっきりと「お前のそういう所が嫌いだ」と言うような性格。私は別段気にしないけれど、それでも嫌われている人に笑顔を振り撒く意義も感じられない。仕事上の関係だけは崩さないよう配慮するだけだ。当の本人も、それが元で距離を置かれようと気にしないようだった。


「ケイに何か言われた?」


 一応フォローしようかと思ったけれど、エルは「まあちょっとね」と濁しただけだった。


「でも、そういうことをはっきり言ってくれる男子って結構貴重だからねぇ。今のうちに声掛けておこうかなぁ」


 そう言って、エルはふふっと微笑んだ。


「ここが無くなったら、次会えるか分かんないもんね」


 ────マグカップに伸ばした手が止まった。頭の奥が痺れたように冷めていく。あの子の後ろ姿が、小さな後ろ姿が、脳裏でちらつく。


「ねえエル」


「なに」


「……エルは賛成なの?」


 しばしの沈黙。そして彼女は答えた。


「何が?」


 そうか。


 全てを理解していて。全てを納得していて。それでも白を切る。私は最初から何も知らない、と言うように。さらりと優しい嘘をつくように。あぁ、やっぱり。


 結局彼女も「上」と一緒なのか。


 デスクの資料を適当にまとめて、パソコンの電源を切って立ち上がった。さっき伸ばし掛けていた、湯気の立ち上らない冷たいマグカップは最後まで逡巡して、結局飲み干した。それが私と彼女の関係のように思えた。


「今日は何月だっけ」


「……五月だよ」


「そう。ありがとう。ちょっと出て来る」


 そう言い残して研究室を後にする。


「アイちゃん」


 エルの声が背中の遠く向うから聞こえた。切なく、それでいて潔いエルの声。


「私、そんなアイちゃんが好きだよ」


「あたしもよ」


 それが精一杯だった。





 研究室の扉を乱暴に閉めて、中庭を目指した。きっとあそこにいる。そう思って、また胸が塞ぐ。


 あの子は、物心ついた時からあの中庭が好きだった。


 ここ三年間の出来事が、鮮明に、まるで昨日の事のように思い出せる。中庭の樹の傍に設置されたベンチでユウやケイと昼食を取った。本を読んだり、昼寝をしたり、暇潰しにチェスをしたり。


 その中心にあの子は居た。それまでそんな時間の使い方を知らなかった私達が、あの子の行動に感化された。いま考えても不思議だ。三人で昼食を囲むなんて考えたことも無かったのに、気が付けばあの子につられて、昼休みには自然とあの中庭を目指すようになった。


 透き通る木洩れ日の中、膝の上で眠るあの子を、私は何度見たか知れない。


 気ままに過ごして、時々ちょっとだけ笑い声が弾けるような。静かで、緩やかで、穏やかな時間だった。はずだった。


 いま研究所内は無音の忙しさに包まれている。なるべく悟られないよう、しかし着実に近付く終わりのために。不要な物は片付けられ、整理され、そして処分される。風景が、ゆっくりと色味のないものに成り果ててゆく。


 廊下を囲む冷たいコンクリートの壁が途切れ、風の音が聞こえ始めた。葉擦れのささやき。淡い夕日。長く伸びる影。


 壁の影からそっと中庭を覗く。ベンチに腰掛けるあの子が見えた。紺や紫の花がちらちらと揺れる花壇の向こうに、背凭れに寄り掛かって木洩れ日を見上げる、小さなあの子が見えた。


 心臓が痛い。息が詰まる。硬くて冷たい何かの指が、今にも首を絞めてくる光景を最近何度も夢に見る。今の私には穏やかに眠ることすら許されない。


 安らかに目を閉じることができたのは。あの子の隣で気持ちの良い夢が見られたのは、一体いつの事だったろう。


 強張った肺に無理やり空気を入れる。表情筋を緩めて、声を作った。あの子が何も気にすることがないように、柔らかく。


「────あ、いたいた。ひとり? ユウとかケイは?」


 あの子はその小さな掌で、私に小さく手を振ってくれた。


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