x 私
「はい、ストップ」
誰かの声が聞こえて、一瞬だけ手が止まる。
部屋の入口に誰かが立っている。電気を消した部屋からは逆光で、誰なのかは分からない。
でも、いい。どうでもいい。どうでもいいから、止めていた手を再び紐の淵に添える。
「ストップだってば」
声の主がツカツカと私に歩み寄り、手首を掴んだ。振り解こうとした手も背後の壁に押し付けられる。
「─────離して」
掠れた、酷い声だった。自分の声だと気付くのに、幾分時間がかかった。それなのに相手は、エルはお構いなしに私に笑顔を向ける。
「手は離さないよ。でも、お口はそのまま」
「アンタと、話すことなんて、ない」
「私はあるの。今日のカウンセリング、まだでしょ?」
「もうしない。行かない。離して」
「じゃあ別の話しよう。久々にする? リヒト君の、」
反射的に、掴まれていた手首を振った。バランスを崩したエルが、驚いたように尻餅をつく。その表情がわざとらしくて、憎くて、憎くて、吐き気がして。エルの首に手を懸ける。
「アンタがあの子を語るな」
手を懸けた首にゆっくりと体重を乗せる。
「アンタがあの子を穢すな、アンタが、」
その直後、腹部に鈍い痛みが走った。頭が追い付かないまま、エルの右足に吹っ飛ばされた私は、左腕を背中に捩じ上げられ、床に押さえつけられていた。
危なかったぁ、と頭の後ろでエルが溜め息をついている。
「今のアイちゃん、体重が軽いから助かった。絶食中だもんね」
身動ぎしようとしたが、一向に振り解けない。むしろそれ以上の力で関節を曲げられる。呻きを上げるのは私ばかりだった。
「あ。あんまり動かないでね。護身術だけど、痛くしようと思えば痛くできちゃうから。でも、これで話を聞いてくれそうだね。良かったぁ」
呑気な声とは裏腹に、言葉の端々に緊張感が漂っている。本気で私の腕を折るくらいやりかねない。荒い息を落ち着けるように、少しだけ力を抜く。
その様子に緊張感を解いたのか、エルは私の部屋に視線を回し、ドアノブに掛けていた紐を鼻で笑った。
「お粗末。本気だった?」
自分の覚悟を貶されても、何も感じない。もしかしたら私の中に覚悟なんて無かったのかもしれない。或いは、私はもう、感情すら湧かない獣になったのだろうか。
あの日から。あの子がこの世界からいなくなった日から。どれだけ時間が経ったのか、私にはどうでも良いことだった。
頭の中に何もない。心臓の中に何もない。
ただ、紐を首に掛けた。
人生に、失われたあの子を足して、得られる結果は分かり切っていた。私の死は分かり切っていた。そこに本気も、感情も、何も含まれていないことは、可笑しいことなんだろうか。
「アイちゃんは、さ」
背中越しのエルが囁く。
「あの子が居ない世界でも、生きて行こうと思わないの?」
「……なんで」
なんでそんなことを訊くのだろう。なんで、私の気が変わると思っているんだろう。
弱々しく零れた言葉に、エルは濃い笑みで返した。
「だって、足掻いて欲しいんだもん」
「あがく」
「上っ面とか、建前とか、そんなの飽き飽きしてるの、私。もっと人間臭くなきゃ。地べたを這いずり回って、泥臭く足掻いてくれなきゃ、見てて面白く無いでしょう普通。だからアイちゃんには、たくさん足掻いて欲しいの」
「────侮辱しているのよね、あたしのこと」
「確かに。でもさ、このクソつまらない場所で、一番人間らしかったのは。多分アイちゃんなんだよ」
エルの語り口は、淡々と、でも確かに紡いでいく。
「自分で始めたことから目を逸らさずに、格好悪くもがいて、でもあの子とちゃんと向き合った。自分の責任を抱えたまま、最後まで葛藤して、きちんとけじめをつけた。凄いよね、ザ・人間って感じ。この研究所の隅っこであれこれ理由こじつけて隠れてる他の人達に比べたら、よっぽど素敵じゃない?」
だからね、とエルは告げた。
「アイちゃんが育てたあの子も、気色悪いくらい人間だったんだよ」
疑念が渦巻き始める。なんだろう、この言い回し。蔑むような言葉で外堀を埋めていきながら、核心だけがわざとらしく隠されている感覚。
「クローン生物のくせに、人間であろうとしてたんだよあの子。『生きたい』って。『生きなきゃいけない』ってずっと言ってた。そういう風に教えたのは、アイちゃんだったんじゃないの」
────やめて。
「『みんなが逃げる方の反対へ、全速力で逃げるんだ』だってさ。本当に凄い感覚だよね吐き気がする。でも、私はアイちゃん達の方が好きだから、あの子の口車に乗ってあげた。あの子はこんな閉じたごみ溜めみたいな場所なんかじゃなくて、ずっと外を見ていた。アイちゃんは嘘つくのが下手だから、多分一度騙さないといけなくて、心苦しいとは言ってたけど。そんなの私には関係ない。私はアイちゃんが苦しんでる顔を見たかった。だからアイちゃんも、したいようにすればいいんじゃない」
「やめて」
「……何を」
「期待させないで」
そう言い返すのが精一杯だった。気付いたから。エルが敢えて言わないようにしていることに気付いたから。それでも信じられなくて、あまりにも理想過ぎて。だから期待したくなかった。
それなのに、エルは笑う。いつもの薄い笑みを湛えながら。
「期待すればいいじゃない。そんなに私が信じられないなら、事実だけ教えてあげようか?
一つ目。前任の『エル』って人が死んだ時、死体はここですぐには処理されず、一度外に運び出されたらしいよ。その後どうなったかは知らないけど。情報元は婦長ね。
二つ目。ケイ君が、ついさっき正式に解雇処分を言い渡された。ここでの研究内容を絶対に他言しないっていう誓約書付きだけど、荷物まとめて外に出たってさ。
最後。あの日、私が薬品を用意してアイちゃんに注射器を渡したけど。中身、一度でも確認した?」
聴くが早いか、エルの拘束を振り解いて、私は駆け出していた。
無機質な所内の廊下を全力で駆ける。力の入らない足が縺れる。眼の奥がちかちかと明滅する。急な疾走で過呼吸になる。
それでも走った。走った。あの日以来、あの子のいないベンチを直視するのが怖くて、一度も足を踏み入れられなかった場所へ。たとえそこには居ないと分かっていても。
もう始業時間を過ぎているのか、廊下には誰もいなかった。冷たいコンクリートの床を蹴って、その振動で目の端から熱いのが落ちて、落ちたそれは音も無くコンクリートに吸い込まれていった。跡なんて残らなかった。
一目散に走って。訳が分からないのに走って。でも鼻をくすぐったのは、樹と日と土の匂い。
いつの間にか、あの中庭に立っていた。
朝の澄んだ空気。さわさわ揺れる葉っぱの音。かすかな風に踊るロベリアの花。照り出した日のせいか、足裏の煉瓦がほんのり温かくて、また視界が滲んだ。
ふらふらの脚を引き摺って、膝の力が抜けたみたいにベンチへ腰を下ろす。
いつもの光景。樹と、花と、影と、空と、日の光。
隣にあの子だけが居ない。
けれど、ベンチに落ちた木洩れ日は、どうしようもなく暖かかった。
眼を閉じる。エルが言っていた、あの子の言葉を想い出す。
みんなが逃げるのと反対方向へ、全速力で逃げる。
私が、かつて彼に言った言葉だった。
<ごめんごめん。やっぱり慣れない比喩表現なんてするもんじゃないや>
<確かに、よく分からなかった。でもアイは伝えようとしてくれた。それは悪いことじゃない、と思う>
<────キミの、そういう臆面もなく伝えるところ。私は好きだよ>
<……うん>
<でもね、君の命には確かに価値がある>
<……?>
<生きることの価値なんて分からない。そもそもそれは自分で決められることじゃないんだよ。君を知った周りの人が決めることだ、たとえ残酷だとしてもね>
<言っていることが矛盾している。それともアイが決めたの?>
<そのどちらでもあるし、どちらでもない。「生きることの価値」なんて本当に誰も分からないし、知らない。人生の最期や、命の終わる瞬間に価値を求める人もいるけど、それもどこか的外れだ。生命エネルギーが、テロメアの摩耗が、とか私達が講釈垂れた所で誰にも理解できないし、みんなが納得する訳じゃない。だから答えは無い>
<答えが無いなら問いとして成立しない>
<そ。みんなそうやって悩みながら、それでも生きていくんだよ。価値が在ろうと無かろうと生きてしまうんだから、生きていくことは義務なんだ、とあたしは思う。それは産んでもらったからとか、世の中の道徳だとか、周りに死んでしまう人がいるからその分までとか、そんな他力なもんじゃないけれど。でも生きていくんだ。答えが無いから頭をどんなに捻ったって疲れるだけで、みんな困惑して、迷っている。それでも、問うことは無駄じゃないとあたしは信じたいし。それを臆することなく、ひたすら問い続けながら生きる人が、あたしは好きだ>
<おかしい>
<おかしいね。あたしは変わってる。もしかしたら狂っているだけかもしれない。でもあたしは君が大好きだ。恋でもない、愛とも少し違うけど>
<アイお得意のダジャレ?>
<あたしがダジャレを得意げに言ったことが一度でもある? まあいいや。君がそれだけ知っていてくれれば、あたしは今日も生きていける。面倒くさい仕事もやってやろうって気持ちになる。ご飯が美味しいと感じられる。楽しいことは楽しいと思えるし、泣きたい時はちゃんと泣ける。君と一緒に生きていけるんだ>
そうだ。そうだったね。忘れていたのはあたしの方だ。
謝らなきゃ。ちゃんとあの子に謝らなきゃ。どれだけ時間がかかろうと、いつか。
私の言葉で、私の本当の名前で、面と向かって、君に。君と一緒に生きていく為に。
ねぇ、光。