8 光
ぼくは、自分がどうやって生まれて来たかを知っている。
遺伝子複製。体外受精。生産ライン。人工保育。
それは、ぼくがはじめて学んだ「生命の誕生」だった。
命の生まれる瞬間、というものをこの眼でちゃんと見たことはない。勿論自分の生まれた瞬間だって覚えてはいない。
それでも、複雑に織り成された中に、どこか奇跡みたいなものが交っている。そんな過程を知って。
生命というものはなんて、なんてすごいんだろう、と思った。
生命誕生の流れをきちんと説明できる言葉はあるし、学問として解き明かされていることも数多いのに、細かくこまかく覗いていくと、絶対に見えない空白みたいなものが現れてくる。
手が届きそうで、でも心のどこかで届かないんだろうな、と思っている。届いたとしても納得できないかもしれない、とも考える。
もしこの世界に、みんなの言う『カミサマ』が居るのだとしたら、その『カミサマ』は本当にこの空白の中身を知っているんだろうか。そう首を傾げた時もあった。
9歳になった、いや、つい昨日10歳になったぼくは、もう色々なことを知っている。
生命の誕生の仕方は、ぼくみたいな遺伝子複製による体外受精以外にも、色々あるっていうこと。
『カミサマ』が世界のどこにも存在しないこと。
正確には『カミサマ』は、みんなが心の片隅で何となく信じている世界のシステムみたいなものであって、確固たる実体としては存在しないということ。
だからいつしか自分の中で、正しいかどうかは別として、一つの答えが出来上がっていた。あの日はじめて触れた生命の誕生についての知識、その中にある絶対的な空白。
あの奇跡みたいな空白は、誰もが「生命の神秘」と呼ぶものは。
きっと世界が消えてなくなったとしても、誰も理解できないんじゃないだろうか、と。
暗い廊下を歩いて行く。昼間だから電灯は消えていて、剥き出しのコンクリートがひんやり冷たい。色味の無いモノクロの景色。何度も見て、何度も歩いて、けれど今日で最後になる廊下を独りで歩いて行く。いつも過ごしていた、あの中庭を目指して歩いて行く。
廊下は静かだった。ユウも、ケイも、その他の良く知らない研究員の人達も、誰一人見当たらなかった。
敢えては探さなかった。
二人が何を考えているのか完全には理解できないことを教わったから。二人がぼくのことをどう思ってくれているのか、何となくは分かるかもしれないけれど。それはきっとぼく自身の希望だ。人間じゃない、ニンゲンですらないかもしれないぼくが、理解できないのに「ありがとう」とか「ごめんね」って言うのは、二人に失礼だと思うから。
その代わりに胸を張った。胸を張って、できるだけ格好良く見えるように。例えそこに居なくても。大好きな二人に格好良い、と思ってもらえるように。せいいっぱい胸を張った。
廊下は静まり返っていた。誰も居ないんだと思っていた。
だからエルがいたことには少し驚いた。中庭に続く廊下の入口、その柱の陰にそっと隠れるように立っていた。
でもエルの表情から分かった。エルは、この後ぼくがちゃんと「死んだ」か確認する為に待っているのだ。ついこの前、ロベリアを食べて倒れた日の夜、エルから聞かされたことを頭の中で思い返す。
エルのことは今でもよく分からない。昔のエルも今のエルも、ぼくは好きだったけれど、大好きではなかった。ぼくを見るときの眼や、ぼくと話すときの言葉が、どこか不可思議で、理解が難しかったから。
でもそれは度合いの問題だ。ぼくが二人を好きなことは変わらない。これからもずっと。
だから、ぎゅっと口を引き結んで、目線を合わせないようにエルの前を通り過ぎた。どのみち、ぼくにはエルの気持ちの底の底までは理解できない。ぼくには待つことしかできないんだから。
そして、ぼくは中庭の入口に立った。
花壇に咲く青紫色のロベリア。真ん中に立つ背の高い樹。その木陰に置かれたベンチ。その間を、少し暖かくなった風が吹き抜けていく。樹も、ロベリアも、レンガ道に散らばっていた落ち葉も。みんな風に任せて気持ちよさそうになびいている。ぼくの髪の毛もぶわぶわと乱れて、着ているシャツの裾もばたばたと忙しない。
少しだけ立ち止まって、鼻から空気を吸って、耳をすませた。風の音。葉っぱの擦れる音。暖かい太陽がきらきら輝いて、柔らかい光を中庭いっぱいに落としている。遠い雲が、犬のしっぽみたいに細い線を蒼空に描いている。
その真ん中にアイが居た。ベンチの傍で風に揺れる背の高い樹、その木陰いっぱいに広がった木洩れ日を全身に浴びながら。
その木陰へと伸びる赤茶色のレンガ道へ、ぼくはそっと踏み出した。
アイは、まるで世界のカミサマみたいに、そこで待っていた。
最初の数分間、ぼくらは何も喋らなかった。
ぼくはアイが何か話し出すのを待っていた。アイはずっと下を向いていた。
あのいつもの、何かを我慢したような笑顔はどこにもない。諦めとも哀しみとも、焦りとも恐れともとれる表情のまま、ずっと下を向いていた。ぼくらはただベンチに座ったまま、いつもと変わらない木洩れ日の下で、ひたすらに呼吸するだけの時間を過ごしていた。
不思議と気持ちは落ち着いていた。
ぼくはただ、いつもみたいにアイと並んでベンチに座っていられるのが心地よくて、それだけで嬉しかった。今日何のためにここに居るのかも、どうしてアイが何も喋らないのかも、何もかも忘れてしまいそうなほど、ぼくの気持ちは安らかだった。
けれどやっぱりアイの表情は暗かった。眼鏡の奥の、綺麗な薄茶色の瞳はどこか虚ろで、中庭の綺麗な景色なんて何ひとつ映っていないように見えた。青白くこけた頬。眼の下のクマ。心なしか関節の浮き出た指先。その一つ一つを横目で眺めて、アイがこうなった原因がぼくにあることを改めて自覚して、その自覚だけがまだぼくに現実感を与えてくれていた。
二人掛けのベンチ。風の音だけが聞こえる中庭。静まり返った研究所。
いつも通りの景色なのに、いつも通りの配置なのに。
こんなにも違ってしまっているのはきっと、ぼくの。
「ねえ、君」
アイが口を開いた。かすれて、震えて、でもぼくの耳を心地よく揺らした。
「君は。もう知っているんでしょう」
何が、とも、何を、とも言ってはいないけれど。ぼくらの間では十分すぎるほどだった。
ぼくがこくり、と頷くのを見て、アイはまた一段と表情を暗くした。
またしばらく間が空いて、アイは肺に溜まった空気を全部吐き出すように、大きく息をついた。
「正直、どうすれば良いのか分からない」
「うん」
「君に謝ることも考えた。君の嫌がることを言って、罵ってもらうことも考えた。いっそここから君と逃げてしまおうかとも考えた。その他にも色々、それこそ色んなことを」
「うん」
「でも全部違う気がした。全部嘘くさくて、馬鹿みたいで、現実味が無い。何も分からない。君に聞きたいこと。聞いてみたいこと。聞いちゃいけないこと。聞いたら全部が無駄になってしまうこと」
アイは言葉をつまらせながら、独り言を続ける。
「君は、あたしのことをどう思っているのかな。酷い人、優しい人、最低な人。どんなふうに映っているのかな。今まであたしを、どんな風に」
その問いに、ぼくは自信をもって答える。
「アイはアイだ。他には知らない」
「それはそうだ」
アイは力なく笑った。
「だって他に教えてないもの。当然だ、分かり切っている。君にはたくさん教えたけれど、あたしのことはほとんど教えていないでしょう。あたしが誰かも、あたしが本当はどんな名前なのかも、あたしがどんな人間かも」
ねえ。再びアイが尋ねる。
「君はあたしの何を知っているの?」
意地悪だった。ぼくに答えようがないのを知っていながら、それでも何かしらの答えを求めている。正解も不正解もない問題は卑怯だ。でも、ぼくの中には答えは一つしかなかった。そして、その答えで何がいけないんだろう、と。
「アイはアイだ。他には知らない。でも」
やっと振り向いたアイの眼を見すえた。
「ぼくはアイのことが好きだ」
空気が、凍った。
アイの顔から表情が消える。見る見る血の気が失せて、青白い頬がもっと白くなっていく。暖かさを失っていくその空気感が、なぜかぼくに、あの日死んだネズミ君を想い起こさせる。
「─────それはだめでしょう。それは言っちゃだめでしょう」
絞り出すようなアイの掠れた声が不安を誘う。
「それは違う、違うんだよ。君だけはそんなことを言っちゃいけないんだよ」
「……ち、違わない」
ぼくは反論した。何か言おうと。言葉は上手く見つからないけど、きちんと伝えなくちゃ、と。何も知らないまま、気付かないまま。
「何も違わないよアイ。ぼくはアイが好きだ、それの何が、」
アイが左手を振りかぶった。大きく、大きく、そして。
パァン。
乾いた音が鳴る。世界が止まる。じわり、と左頬が痛み始めたとき。胸倉を激しく掴まれた。
「あたしはいまから君を殺すんだぞ!」
血を吐くような、叫び声だった。
訳が分からなかった。訳が分からないまま、何かを間違えたという感覚だけが心を満たしていた。そして、その感覚こそが間違いなんだ、と知った。
ぼくは、アイに怒られたんだ。
そう自覚した瞬間、さっと背筋が冷えた。足先から深い深い穴に落ちていくような、暗い恐怖に襲われる。今まで感じたことのない何かで頭がいっぱいになる。
そんなぼくを置き去りに、いまにも喰らわんという距離で、アイは、今まで見たこともない表情で叫んだ。
「そうだ、あたしはいまから君を殺すんだ。知っているでしょう。もう君は知っているんでしょう。知らないふりなんてしないでよ」
喉よ裂けよとばかりに声をからして、アイは叫び続ける。
「君は怒っていいんだ、いや、怒るべきなんだ。あたしたちにも、ここにいる人達にも、この研究所にも。何もかもに怒るべきなんだよ。『どうして』って。『なんで』って。そうでしょう」
ぼくの襟首を掴んで、揺らして、叫ぶ。
怒る。みんなに対して怒る。繰り返される言葉。まるで現実感のない言葉。ぼくにはきっと、その感情が決定的に足りない。
「権利じゃない、こんなのは義務だ。君には怒る義務があるんだ。こんなのどう考えたって理不尽じゃない。怒ってよ。あたしが君にしてきたことはそういうことなんだ。あたしは間違えたんだ。間違えたなら怒られるべきなんだ。それなのに、なんで、」
なんで、そんなことが言えるのよ。
次第に声が震えていく。細くなって、小さくなって、ついには消えた。襟首を掴む拳から力が抜けて、アイは崩れ落ちた。ぼくの膝の上に顔を埋めるアイの背中を見ても。
怒る、なんて感情は、どうしても湧いてこなかった。
ただ痛かった。叩かれた頬が苦しいくらいに痛くて、叩いて赤くなったアイの左手はもっと痛々しかった。
ゆっくり考えて。言いたいことを考えて。そうしてゆっくり、アイの頭に手を置いた。
「────アイ、」
「謝らないで。謝ったりしないで」
「うん」
「君は怒るべきなんだ」
「うん。でも、やっぱりごめん。ぼくには怒りたいことがない。本当にひとつもない。どうしても、ありがとう、しか言えないんだ。ごめんなさい」
「……分からない。理解できない」
うん、とぼくはまた頷く。撫でる手の下、アイの髪が五月の光をさらさらと弾く。その煌めきに、あの日のアイとの会話が想い起こされる。
「アイは、憶えているだろうか」
「何を」
「生きる、の意味について、前に話したこと」
アイは何も言わない。ぼくはそのまま言葉を続ける。
「ぼくは未だに分からない。ぼくの命の重さについて、生きる意味について」
命の証明。比較できない価値。死んだネズミ君の重さだけ、ぼくは価値を知れたのか。
「分かったのは事実だけだ。ぼくには事実しか分からない」
ぼくがここで生まれたこと。
三人と一緒に生きてきたこと。
この静かな研究所の中で、いままで生きてきたこと。
正しいことなんて、間違いなことなんて、何ひとつ分からないけど。
ぼくが人間なのか、ニンゲンなのか、分からないけど。
「ぼくは生きられない」
アイが身を固くする。でもそれが事実だ。ぼくに与えられた事実だ。
「生きるの意味が分からなくても、生きる長さは分かり切っている。ぼくの命の長さはみんなに届かない。アイや、ユウや、ケイには絶対に届かない」
小刻みに震えるアイの背中を、木洩れ日の柔らかな光が滑っていく。中庭はいつもと同じ穏やかさで、そのどこかには、見えないけれどエルがいるはずだった。そして、他の人が見ている可能性もあった。
「それでも哀しくなんて無かった。辛いこともなかった。ありがとう、しかない毎日だったんだ」
たくさん話をした。一緒に本を読んだ。昼寝をして、一緒に食事して、誕生日を祝ってもらった。「幸せ」ってこんな感じかもしれない、と。そう思える程に。
たとえ、みんなの心の底を本当の意味で理解できなくても。命の価値の向うにある「不思議な空白」を理解できなくても。
ぼくが、ニンゲンじゃないとしても。
「ぼくがそう感じたのも事実だ。怒りたいことなんて何もなかった。ぼくはそれを、アイに分かって欲しいんだ」
「……分からないよ」
くぐもった声でアイが呟く。
「君の心を、あたしなんかが理解できるとは思えない」
「ううん、アイならきっと分かってくれる」
「できない」
「できる。きっと分かる」
「分かりたくない」
ふて腐れたような言葉。そんな様子がアイにしては珍しくて。何だか、いつものぼくらと入れ替わったようで。少し困ってしまいそうになる。
多分アイは、本当は覚えていない。あの日語ってくれた言葉を、アイ自身は忘れている。
それでも良い。
ぼくは忘れない、忘れるつもりはない、これからもずっと。いつまでも。
「分かって欲しい。ぼくは分かって欲しいんだ。みんなに、アイに、ぼくが生きた意味を分かって欲しいんだ。ここで生きたのは、みんなのおかげなんだ。だから間違いだなんて言わないで」
アイがしてきたこと。ユウがしてきたこと。ケイがしてきたこと。二人のエルがしてきたこと。そのどれも間違いなんかじゃない。
アイは傷つくだろう。きっとこれまでも、この後も。それでも。
「何も間違っていない。間違っていないなら、理解できる。アイは大丈夫だよ」
「間違いだよ。だって他に方法が無い。一つしか答えが無いなんて、そんなのおかしいんだよ」
答えはある。方法もある。あり過ぎるほどだ。しかもぼくは、その可能性を全てもらえた。ロベリアの群れ咲き。五月の空気。綺麗な空。楽しい記憶のいっぱいある中庭。座りなれたベンチ。植物図鑑とスノードーム。そしてアイが居る。これ以上の幸せはきっとない。
だから、ぼくはその想いを胸にしまう。何も言わずに先を促す。
「今日なんだ。今日しかないんだよ」
それでもアイは動かない。動いてくれると思っていたアイがまだ動かない。そう、本当に今日しかない。今日を過ぎれば、ぼくはアイ以外の誰かの手で。
だから少しだけ、少しだけ意地悪をする。
「ほら、婦長が見てる」
アイの肩が震えた。
「婦長が見てる。他の人も見てる。柱の陰にいっぱい人が居る。ぼくにも分かる」
握った拳に力が入っていく。覚えている限り、ぼくは今までアイに嘘をついたことがない。
ささやくように乞う。ねえ、アイ。
「ぼく、アイじゃなきゃ嫌だ」
アイが起き上がる。涙でぐしょぐしょになった顔。震える唇。それからようやく、白衣のポケットからケースを取り出した。
銀色に光る小さな長方形のケース。開いた中には注射器。透き通った、見なれた液体。
先端のキャップを外し、ぼくの左腕の袖をまくり、針先をそっと肘裏の肌に添えた。ぼくはささやく声を止めない。
「見てる。みんな見てるよ」
言いたくない言葉がこんなにも口を汚すなんて知りたくなかった。でも止めない。責めるように、刺すように、言い続ける。アイに告げる。
「アイにしかできない。アイじゃなきゃ嫌だ。お願い」
がくがくと定まらない注射器の先。蒼白くこけた頬を滑る涙が手元を濡らす。その様を、心のどこかで嬉しく想っているぼくがいる。肺の辺りが炙られたように痛む。鼻の奥がツン、とする。
────だからこそ。
「やっぱり、あたし、」
そう言って顔を上げたアイが固まる。ぼくがアイに手を重ねていたから。
注射器の先を自分の左腕の一点に据える。そして刺す。プランジャーを押し込む。冷たい何かが腕に入る感覚が酷く虚しい。
最初から、アイだけに背負わせるつもりなんて無かった。
霞む景色。力がどんどん抜けていく感覚。誰かの鳴く声。乱反射する五月の空。
全てが鈍くて遠いその中で、アイの声だけがはっきりと聞こえた。
リヒト。
確かにそう言っていた。
意味は分からなかった。それなのにアイは何度も同じ言葉を繰り返していた。
リヒト。リヒト。リヒト。リヒト。
ようやく、気付いた。
貰えたんだと。ぼくも貰えたんだと。プレゼント。アイからの誕生日プレゼント。決して消えることのない、ずっと前から欲しかった、ぼくだけのプレゼント。
涙が出た。泣かないと決めていたのに、ぼくだけは泣いちゃいけないと思っていたのに、涙が出た。涙というものが知らず知らずに出てしまう感覚とは、不思議と悪くなかった。
ぼくの名前。
五月の木洩れ日が網膜に焼き付いて、ぼくは死んだ。