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5 6 憂





 何故、こんなことをしているのだろう。真っ先に浮かんだのはそんな思いだった。


 晴れ渡った蒼空の下。穏やかな日差しと快い風の中。鮮やかな色彩を放つあのロベリアに囲まれて。


 プラスチック製の簡易テーブルと、椅子を四脚、人数分のカトラリー、安いライター、カッティングナイフ。そして。


 テーブルの上に置かれたショートケーキ、四つ。


 それらを一言の会話も無く黙々とセッティングする私達。


 アイも、ケイも、表情がまるで無い。最初こそ何とか会話をしようと、脈絡の無い言葉を繋いでいたけれど。いつしか、ひび割れていく陶器のように、次第に感情が崩れていった。誕生日を祝われるはずの彼もそんな雰囲気にあてられたのか、黙々と作業をこなしている。その様子に、また胸が締め付けられる。


 一つ何かを運ぶたびに、一つ何かを置くたびに。この子の首が絞まっていく気がする。ざあ、と風が吹く度に、胸の奥が冷たくなっていく。


 カタン、カタン。


 並べられていく食器が音を立てるたびに息苦しくなる。気が狂いそうになる。いま握っているフォークを、足元に敷かれた煉瓦へ向かって投げ捨てれば、夢から醒めるだろうか。こんなの馬鹿馬鹿しい、と叫んでしまえば醒めてくれるだろうか。そんな考えが、それこそ馬鹿げた考えもが脳裏に浮かぶ。


 カタン、カタン。


 出来るわけない。出来るわけがない。折角用意したのに。側に居られる時間はもう残されていないのに。この子の最期の誕生日なのに、そんなこと。


 カタン、カタン。


 だから淡々と完成させていく。勝手に動いてしまわないよう、自分の手を必死に抑えながら。優しい五月の陽気が嘘みたいだ。


 本当に、何故こんなことをしているのだろう。


「できた」


 幼くも柔らかい声で、彼がそっと囁いた。去年と同じようにセッティングされたテーブルを、どこか満足げに眺める彼。ああ神様、なんて最低な言葉が柄にもなく、無責任に心に浮かんだ。


 彼の、十歳の誕生日パーティが始まった。





 本当はみんな知っていた。みんな、エルを通して聞かされていた。


 婦長が彼に暴露した、と。前任の『エル』がこの子の検査担当に耐え切れず自殺していたことも。私達の名前が偽名であることも。明日、処分されることも。


 最初それを聞いたとき、一瞬我を忘れた。あの子にまだそんなことを強いるのかと。せめて最期まで穏やかな日々を、なんて願いさえ踏み躙るのかと。思えばあの感情は、私が生まれて初めて抱いた「殺意」だった気がする。


 でも、アイが言ったのだ。


 力の入っていない腕でエルの白衣の裾を掴んで、いまにも崩れ落ちそうな声で、縋る様な光を眼の奥に湛えながら、それでも彼女が言ったんだ。


『────パーティは。誕生日会は、していいんだよね?』


 あの時。私達三人は完全に狂ったのだと思う。





 途中で止めることも出来たはずだった。なし崩しに諦めることだって出来たはずだった。自分の中にある、祝ってやりたい、という想いを殺すことだって。あの時までの私達なら、いや、私とケイなら出来たはずだった。


 でもアイの言葉で思い知った。この期に及んで、自分の感情とあの子の感情を天秤にかけていた理性を、頭の中でそっと握り潰した。


 ああ、これが罰なのか、と。


 そう思った。


 絶対口にはしない。言葉にしたって私の罰は消えない。こんな日に、こんな日だからこそ、言う訳にはいかないと思った。もう選択肢は残されていない。だから。


 身を切るような沈黙の中。綺麗に整えられたテーブルを囲みながらも、誰も座れないその空気を振り切るように、声を絞り出した。


「ねえ」


 みんなの視線がちゃんと私に集まったことを確認してから、彼に見えるように、白衣の内ポケットに忍ばせていた物をテーブルの上に置く。


「これ、君にあげる」


 彼は少し驚いた表情の後、テーブルの周りを回って隣までやって来て、私の置いた物をしげしげと眺めた。


「ぼくに? いいの?」


 力強く頷いた。


「君のは大分擦れてたから。新しい品種と、名称の由来が載ってる簡易版」


 植物図鑑だった。それなりの厚さはあるけれど、ポケットにすっぽり収まるサイズ。


 彼が愛用していた図鑑は既に脆い。表紙は欠け、頁の端は擦れて黄ばんでいる。所々破れてもいたし、彼が持ち運ぶにしては些か大き過ぎた。ここには生体化学の書籍はそれこそ山のようだが、植物関係の書籍は数も少ないし、種類も乏しい。新しいものを読ませてあげたいとは以前から考えていた。


 彼の図鑑と同じ出版社が刊行している、新品種や由来などを主に採録したもの。草花や樹木をカラースケッチで描く体裁はそのままだ。半年ほど前に外部へ発注し、検査を通過させ、手元に置いていた。


「表紙も装丁もシンプルだし。以前のよりは少し見劣りするけど」


 こぼれた言い訳に、彼は首を振ってくれた。


「嬉しい。すごく、すごく嬉しい。ありがとうユウ」


 眼を輝かせながら、頬をほんのり上気させながら、彼は小さな新しい図鑑を大事そうに胸に抱えた。少しだけ、緊張の糸が緩んだ。


 私はそっとしゃがみ込んで、彼を抱き締める。あったかい頬の感触。生きている実感。冷え切った自分の心に、狂いかけた心に油を差すように。彼の前ではまだちゃんと『ユウ』として笑えるように、願いを込めて。


「……おい、なに二人だけ浸ってんだよ」


 顔を上げると、ケイが複雑そうな表情を浮かべていた。怒っているような、泣いているような、でもどこか照れ隠しのような、そんな顔。


「用意してたのがユウだけなワケ無いだろ」


 ケイが私と同じ様にポケットから出した物を見て、彼が歓喜とも呼べる溜め息を洩らした。


「すごい、ケイすごい。これは何。キラキラしている。初めて見た」


「ただのスノードームだよ。逆さに振って、中のキラキラ見て遊ぶ玩具。ガキは好きだろ、そういうの」


「ぼくはガキじゃない。でもすごい。嬉しい」


 余程気に入ったのか、彼はケイの言葉なんて意に介さず、しきりにスノードームを振っている。この子のこんな表情を見られたのは、いつ以来だろう。それがどこか嬉しくて、どこか辛かった。


 彼に気付かれないようケイにそっと耳打ちする。


「いつの間に買ったの」


 ケイは数ヵ月前に、役員会で『院長』含め数名を殴り飛ばしたかどで、研究所員としての資格を剥奪されたはずだ。


 外側から嗜好品を購入するには所員資格を通じての手続きが必要となる。私の図鑑だって、いまテーブルにちょこんと乗っているショートケーキ四つ分だって、搬入までかなりの手間が掛かるはずなのに。ということはもっと前だろうか。気になったけれど「別に良いだろ、そんなの」と小さく舌打ちされただけだった。


「というか、アイ。お前も何かあんだろ」


 私の視線から逃げるようにケイが声を荒げる。


「勿体ぶってねぇでさっさと出せよ」


 私とケイと彼の、三人の視線がアイに集まる。でも。


「―――────なに、それ」


 アイは呆然としていた。


「無いよ。あたし、いま何も持ってない。そんな話していなかったでしょう、そうよね?」


 たじろいだようにケイが声を洩らす。


「いや、してねぇけどさ。ほらコイツ十歳だし。これくらい」


「私も、今回ぐらいは、と」


 私も助け舟を出す。でもそれがいけなかったのだろう。アイが狼狽え始める。


「あたしも少しは考えたよ。色々忙しかったし、ケーキの搬入だってあったけど。一緒に頼むつもりで。でも、何を? 何をあげるの。二人は何であげようなんて思えたの?」


 アイの顔が歪む。語尾が震える。崩れていく。


「出来ない。普通出来ないでしょう。出来るわけないじゃない。だって明日よ、明日になったらこんなの全部何もかも、」


「────黙れ。止めろ」


 ケイの硬い声が飛んで、アイが黙った。でもそれはもう言ってしまったも同然だった。もう私達に秘密は無い。この子も含めた、この場に居る全員が知ってしまったこと。


 誰もがぎりぎりの精神で触れずにいたラインを、アイは越えてしまった。


 皆が口を閉ざす。中庭は静かになって。整然と並んだ食器も、その真ん中に据えられた四等分のショートケーキも、全てが滑稽な残骸に成り下がる。


 音も無く揺れ続ける木洩れ日も。柔らかい五月の空気も。何もかもが死んでいくのが分かった。


 ケイの視線に促されて、私は彼の背をそっと押した。彼は小さな植物図鑑と、冷たい光を反射するスノードームを抱えたまま、素直に従ってくれた。


 私と彼は、一緒に中庭を後にした。





 彼の自室に向かって無機質な廊下を歩く間、私も彼も口を開かなかった。中庭に溢れていた暖かさは遠く背後に去って、言いようのない冷たさだけが背筋を這う。重たい影だけが寄り添う。


 彼の数歩後ろを歩きながら、アイのことを思った。


 あの夜。彼が倒れたあの夜。エルは、ロベリアの話をしなかった。


 彼が、いま目の前を無言で歩く彼が、あの日食べたであろうロベリア。中庭に咲き乱れる小さな青紫の花の群れ。


 自室に帰って調べたが、分かったのはその毒性と危険性についてだけで、何故彼があんな物を食べたのかは分からなかった。翌朝に三人でエルから話を聞いた時も、花に関して話題に上らなかった。あの話しぶりからして、おそらく婦長にも報告していないのだろう。


 アイも、婦長も、たぶんケイも。彼がロベリアを食べたという事実を知らない。エルの手によって意図的に伏せられている。


 アイに対する配慮だ、と彼女は後に私へ告げた。精神が崩れる寸前のアイの負担を鑑みたのだと。婦長に要らぬ報告をして誕生会が取り止めになれば、アイの心は「誕生日翌日」まで持たない。だからここでアイに余計な負担を掛ける訳にはいかないのだ、と。もっともらしく語った。


 全てを信用した訳では無かった。でもエルが何も言わないのなら、私が横から口を挟む理由もない。むしろ私の方こそ、誕生日パーティが開けなくなった場合、耐えられる自信が無かった。だから黙っていた。でも結果はこの通り。


 食べられるはずだったケーキも、祝われるはずだった彼も、迎えられるはずだった最期の誕生日も、水の泡だ。


 アイの感情が理解できるからこそ何も言えない。怒りも湧かない。だって私とアイは紙一重だ。


 アイは壊れる覚悟で彼を愛し、私は冷めた心を軋ませたまま、のうのうと生きている。だから彼に心から謝ることが出来ない。それがとても、とても悔しかった。


 何もかも出来ない私は、彼に何を言えるだろう。彼の何を語れるだろう。


 そんな言葉すら酷く陳腐に思えて、そんな言葉の先が見つからなくて。嗄れた喉に引っ掛かったまま、無言で彼の後ろを歩き続けるしかなかった。


 明日、までに。彼は図鑑を開いてくれるだろうか。




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