4 5 符丁
パァン。
軽い音が鳴った。少し遅れて、眼前のコドモがじんわり赤くなった左頬に手を添えた。でもどこか慣れたような表情で、それがまた癇に障ったが、もう一度手を振りあげることはしなかった。つい昨日の洗浄の件が脳裏をよぎって、思わず顔が強張る。
叩いた方の手を胸の前で握り締めつつ、ベッドの上に座ったコドモを見下ろした。怒りで我を忘れそうになる自分をぐっと堪える。背後に回っていて視認はできないが、部屋の隅に居るはずのタチバナさんも黙ったままだった。
早朝。始業時間よりも前。通常なら、とっくに自室で作業に取り掛かっているはずだった。時間は幾らあっても足りない。私は自分の仕事を粛々とこなす義務がある。それなのに今朝、デスクトップに届いた「業務外緊急報告」と題されたメールには、信じられない言葉が並んでいた。
<昨夜午後8時16分頃、実験体KHC-2401-Nが体調不良により一時昏睡>
<現在は容体が安定。回復傾向有り。原因調査中。──立花>
だからこうして、私は彼の頬を二度も叩く羽目になった。
コドモは何も言わない。当然だ。自身の体調管理も出来ないモノは叱責されてしかるべきだ。コドモがきちんとそれを理解しているか、表情から窺い知ることは出来なかったが、それでもその沈黙は私の心を乱すには十分だった。
「もう良いです。もう、たくさん。こんな茶番はうんざりです」
ふるふると震える手を無視しつつ、静かに告げた。コドモは私の眼を虚ろに見返すだけだった。
「近々、貴方の『誕生日』でしたか? その時まで待ってあげようという院長の御厚意も知らない愚かなコドモ。いえ、ここまで来るといっそ哀れね」
口に出して納得した。ああ、そうだ。このコドモは哀れなのだ。
「これだから、これだからコドモは嫌いなのよ。刹那的な生き方で周囲を困らせ、大人たちに一から教える手間を乞う、そのくせ何一つ学ばない。だからこうしてここにいる。聞きましたよ、突然の体調不良で倒れたそうですね。自己管理も出来ないなんて残念です」
哀れなだけの生物は無能だ。生きる価値も、生きる意味も、いや生きる資格すらない。だから、ああ、我々が啓示すべきなのだ。
「だからええ、そうね。院長の御心を無碍にしない為にも、開示可能な事柄を先に教えてあげましょう。低レベルな知能しか備わらなかった貴方にでも分かるよう、丁寧に」
部屋の隅で黙って聞いていたタチバナさんが、今度こそ声を上げた。
「婦長、あと数日です。役員会の取り決めでは、」
「『あと数日』? あと数日が何だっていうの。私は十年待ったわ。そしてこの十年間、どれだけの資金と人員が浪費されて来たかタチバナさんも知っているでしょう」
「っ、婦長、名前は」
「もはやタチバナさんは『エル』などという偽名を使う必要はありません。そして私も『婦長』と呼ばれることに嫌悪すら感じます。なので結構。良いですか? この十年の間で研究所が新設できるほどの額と人員が使い潰されました。そして貴方の前任は狂気の内に自ら命を絶ちました。この元凶が誰であるか、火を見るより明らかではありませんか?」
声がこぼれた。コドモだった。凍り付いたような顔で私を見上げていた。
「――――死んだ? 『エル』が?」
ほらやっぱり、何一つ自分から知ろうとしていなかった証拠だ。
「ああ、貴方には『彼は研究所を離れた』と伝えていましたね。本当にそれで納得していたなんて。情報の鵜呑みは愚の骨頂だと知らないのかしら」
コドモが震えている。無表情のまま、俯いたまま、拳を握ったまま。
「私はこれまで十年間、ずっと待っていました。資金援助が断たれ、かえって清々するくらいです。私達は貴重な時間を無駄にしました。これ以上待つことに何の意味もありません。貴方があと数日生きることに何の価値も無いのです。ですから教えてあげます」
私は告げる。院長の慈悲を。無能な子供を諭すように。
私には、それが出来る。
「貴方の言う『誕生日』翌日。貴方は処分されます」
コドモは黙っていた。
「貴方は必要ない。貴方をこれ以上飼っても利益は生まれない。上はそう判断しました。ええ、私も全くの同意見です。これ以上貴方にリソースを与えても何の成果も上がらない。偽名を使ってまで貴方を育てた彼等の努力も、ここまで整えた茶番も、全て、全て無駄でしたね」
コドモは黙って聞く以外、何もしなかった。無能で、無価値で、無意味な生き物だった。
「本当に馬鹿馬鹿しい。劣化版のくせに。名前もないくせに。何も知らないくせに。無駄に言葉なんか覚えて、私達の猿まねじゃない。汚らわしい。そうよ」
────貴方みたいな生き物、さっさと殺しておけばよかった。
コドモはようやくベッドから降りて、駆け出した。簡易スリッパを履く素振りも無く、裸足のまま部屋を飛び出した。タチバナさんも、勿論私も、彼を止める気なんて更々無かった。裸足のまま外を歩くなんて正しく猿の所業だ。それしか感じなかった。
少しして、私はタチバナさんを振り返った。始業時間をゆうに過ぎている為、あれが開け放った扉の外は静寂に包まれている。私の声がよく通った。
「さあ貴方も仕事に戻りなさい。業務外の診療、ご苦労でした。ただし」
そこで少しだけ語気を強めた。
「貴方にも非はあります。自覚出来ていますか」
タチバナさんはわざとらしく溜め息は吐きながら、分かっています、と答えた。
「あれでしょう。生体検査に粗があったんじゃないか、ってことですよね。違いますよ。昨日はバイタルも血液検査も結果は正常。なので私の責任ではありません。昨日お渡ししたカルテにも書いたと思いますが」
「あれはクローン児ですよ。その点もきちんと検査基準の大前提として考慮していますか」
「してますよぉ、勿論。結果は正常ですけど、それはあくまで彼のこれまでの平均値だってことですからねぇ。外部の子供達と比べたら差なんてアリアリですよ」
「だから、昨晩起きた体調不良による失神も予想外だったと」
「そーです。予測出来たら神様です。それとも婦長は、昨日のカルテから予測できたと?」
ふっ、と溜め息を吐いた。
「ともかく。今日も含めた数日間のみ、検査項目を増やすなどして念入りに検査を行なって下さい。保って数日の命ですが、院長の決定は最優先事項です。どのような理由が在れ、それより先に死なれては困りますから。何なら日に一度の検査回数そのものを増やしても構いませんが」
いつものだらしない口調で反論されるかと考えたが、タチバナさんはきょとんとした顔で私を見ていた。
「……何か」
「あー、いえ。先程『婦長』と呼ばれることが嫌だとおっしゃっていた気がするのですが。それに『院長』では無く、以前までは所長、と」
胸がざわりと逆立つ。肺に異物を押し込まれたような、気持ちの悪い声が洩れる。一瞬タチバナさんの顔が笑顔に歪んだように映る。
「いえ、私の気にし過ぎでしたね、何でもありません。すみませんでした婦長」
「その呼び方を辞めなさいっ」
無意識に上ずった声について、タチバナさんは何も言わない。ただいつもと変わらないだらしのない喋り方で、はーい、と言っただけだった。
これだから若者は使えない。大学生気分が抜けず、仕事にも誠意が足りない。上司への敬意も礼儀も欠けている。本当に嫌いだ。
「────それよりタチバナさん。ちゃんと薬は用意できているのですよね」
どこか小馬鹿にしたような表情を今度こそ消し、タチバナさんが答える。
「ええ、准所長。注射器一本分。子供一人がきっかり死ぬ分量なので、手違いも無いと思いますよ」
彼女の言う手違いとは、別の者が別の用途に使う可能性のことだろう。特にあの三人。彼女等はあれに少々入れ込み過ぎている。
あれに手を懸けることが出来ず、万が一、自分達に使うようなことがあれば事態がより混迷を極める。コドモの死体一つならまだしも、前任の『エル』のような回りくどいことになってはいけない。資金の大半を研究所移転に回している今、不必要な出費は抑えなければならない。
「あと。役員会で決定された通り、彼の死に場所等に対する希望は全て叶えてよろしいんですよね?」
「ええ、勝手にしなさい」
適当に答える。あれの死に場所がどうなろうと、看取る者が居ようと居まいと、私の知ったことではない。あれがこれ以上誰の迷惑にもならず、規定通りに、「あの三人の内の誰かによって」処分されればそれで良い。
ああ、ようやく。ようやく終わるのだ。私はもうこの件に関与せずに済むのだ。そう思うと少しだけ、本当に少しだけ救われた心地がした。これほど心臓に悪い案件は誰かがやればいい。世界には研究者なぞごまんといるのだ。肩代わり可能な悪夢をずっと背負う必要はないのだ。
「タチバナさん、貴方もご苦労でしたね」
「いえ、そんなことは全然。本当に全く。彼の『誕生日会』には出るつもりないですし。ご苦労なことなんて何一つ」
「……まさかとは思いますが、あれの処分には立ち会うつもりですか」
「あー、それは一応? 三年間の集大成と言いますか。まぁでも」
私の質問にあっけらかんと応えた後、
「私が見るのは彼じゃないですけど」
彼女はそう言って、嬉しそうに顔を歪めた。