0 1 理非人
読みかけていた本を途中で閉じた。乾いた眼をしぱしぱ瞬かせて、固まった身体を伸ばす。気持ちいい所まで伸ばすと、身体が少し軽くなったような感じがした。そっと息を吐いて、ベンチの背凭れに寄り掛かる。
目いっぱい身体を反らせて上を向いた。ベンチの後ろに立つ背の高い樹がまず見える。ざわざわ揺れる木の葉の向こうに、傾き始めた夕日と、金色に染まり始める蒼空が透けて見えた。葉の一枚一枚が光に透けて、淡い緑色が水面みたいに揺れる。素潜りしたプールの底から水面を見上げたことがあるけど、それとよく似ていた。
夕日に照らされて少し暖かくなった風が中庭を吹き抜けていく。この樹も、花壇のロベリアも、レンガ道に散らばっている落ち葉も。みんな風に任せて気持ちよさそうになびいている。ぼくの髪の毛もぶわぶわと乱れて、着ているシャツの裾もばたばたと忙しない。癖っ毛だから後で直すのが面倒くさいけど、今はそんな事がどうでもいいほど心地いい。
耳をすます。風の音。葉っぱの擦れる音。金色の夕日がきらきら輝いて、遠い雲が犬のしっぽみたいに細い線を蒼空に描く。
「あ、いたいた」
声が聞こえた。身体を起こすと、ロベリアがちらほら咲く花壇の向こう側でアイが手を振っていた。
「ひとり? ユウとかケイは?」
ぼくも少しだけ手を振り返す。
「ユウは院長に呼び出された。ケイは知らない」
こっちにやってくるアイの眼鏡が少しずれている。着ている白衣も所々汚れていたり、皺が寄っていたりしている。研究が立て込んでいるんだろうか。靴がレンガ道を叩く音も心なしか疲れている気がする。
ぼくの心配をよそに、「そっか」と相槌を打ちながらアイが隣に立った。
「一人じゃつまらなかったでしょうに」
そう言ったアイの視線がぼくの膝の上に止まる。
「なに、そんなの読んでたの?」
少し子供扱いするような口調に少しムッとする。
「ぼくだってこれくらい読める」
「ああ、違う違う。そういう意味じゃない。これ婦長の論文でしょう。どこで見つけたの?」
「……ユウにお願いして、資料室に行って、読めそうなもの持って来た」
あはは、と笑うアイの声が夕空に吸い込まれていく。
「うちの資料室ってこんな堅苦しいものしか無いもんね。悪かったね」
「別に」
「理解できた?」
「だいたい」
嘘だ。一文読むのも一苦労だったし、知らない片仮名も一杯だし。三ページも読めなかった。でもアイは全部見透かしたような眼でぼくを見ただけで、それ以上何かを聞いて来ることはなかった。「今度何か本を持ってくるね」とだけ言って、さっきのぼくと同じように大きく背伸びをした。
「さあ、そろそろ夕飯だよ。食堂へ行こう。もうお腹ぺこぺこ」
「研究、大変?」
「まあね。でもそろそろ一区切りだし。そうしたらまたゆっくり相手できるから」
まただ。アイは時々ぼくをからかう。子ども扱いする。
「別に。一人でも平気だ」
ぼくもまだこんな返し方しかできない。それが悔しい。
「はいはい。分かった分かった」
「『はい』は一回。『分かった』も一回」
「はーい。分かりましたぁー」
「……バカにしてる」
「してない。ほら行くよ」
そう言って白衣を翻したアイが、思い出したように立ち止まる。
「そう言えばさ。君、今年で何歳だっけ」
「十歳」
何故だろう。何故今それを聞くんだろう。
不思議に思っていると、アイが突然ぼくを振り返った。思わず身構えたぼくの手元から論文の束を抜き取る。
「────これ、あたしが返しておくよ」
そう言って今度こそ、アイはぼくの前を歩き始めた。夕方の暖かい風でパラパラとめくれる紙束の音。それに合わせて揺れるアイの髪。葉っぱの擦れる音。金色の夕日。蒼空。ロベリアの咲く中庭。
「待って、アイ」
アイの後ろを追い掛けながら、さっきまで座っていたベンチを何となく振り返った。傍に立つ樹がジグソーパズルみたいな影をふわふわと落としている。その樹の向こう、夕日の落ちる方角とは反対の空が、少しずつ暗くなっていく。夜が穏やかにやってくる。あと何回か夜がやってくれば。
「ほらほら早く。先に行っちゃうよー」
アイの声が人影のない中庭に響く。ぼくは今度こそアイの後を追った。
あと何回か夜がやってくれば。
ぼくは十回目の誕生日を迎える。