小比賀由美④
「小比賀って、絵は描かないの? 吹奏楽部だから、芸術的なセンスもありそうな気がするけど。……あ、僕は全然音楽出来なかったし、やっぱ音楽と美術はカンケーないか」
キャンバスに筆を走らせながら、小林君はハハッと笑った。
偶然校内で小林君と遭遇し、彼の素晴らしい作品を見せてもらったあの日以降、私はお昼休みにちょくちょく美術準備室へ通うようになっていた。ハルカは相変わらず、図書館で勉強してるみたい。
彼の隣に座って、彼の描く絵を見つめていると、あっという間に時間が過ぎる。最初は鉛筆だけで描かれていた絵に、だんだんと魂が吹き込まれてゆく過程は、万物を創造した神様が今まさに新しい命を生み出している瞬間のようだった。……凄いとかいうレベルじゃない。
今日もまた、一枚の絵が完成した。描かれているのはシクラメン。正直、本物よりもこの絵の方が好きだ。
「残念ながら、絵のほうは全然……。音楽も、小林君みたいに才能あるわけじゃないし……。あと、私のことはユミでいいってば」
出来上がったばかりの絵に見とれながら、私は彼に答えた。この小林君の絵と同じレベルの演奏ができているのか……と問われれば、とてもとてもそんなことはなくて。恐れ多すぎて、比べることすらできない。小林君は、完成した絵にサインをしながら、「謙遜すんなって」と言って笑い、さらに話を続けた。
「おび……じゃない、ユミは自分を低く見積もり過ぎ。僕からしてみれば、ユミのほうがずっと凄い。だから見てみたいな、ユミの……」
だけど小林君の言葉は、途中で詰まってしまった。その後の沈黙が長かったので、少し不安になった私は、伏せ気味になっている彼の顔を覗き込んでみる。すると、彼は弱々しく微笑んでいた。
「……違うか、早く聴かせてくれよ、ユミの演奏。……こう言わなきゃダメだった」
完成したシクラメンの絵をちょっと寂しそうに見つめながら、小林君はそう続けた。
「ゴメン、まだとても……小林君に披露できるような腕じゃないよ。しっちゃかめっちゃかで形になってないし……。絵なんてなおさら。小林君はいいなぁ、神様がこんな才能をプレゼントしてくれて」
別に私は、彼を傷つけるつもりはなかった。なかったんだけど……、その言葉を聞いた彼は……
「……もし神なんて存在が本当にあるんだとしたら、ソイツは僕を、弄んでるだけだ……」
なぜかもの凄く、もの凄く傷ついてしまった。
……そういえば彼は、私の絵の続きを一向に描いてくれなかった。毎回さりげなく見てるんだけど、やっぱりそこには……小さな顔が描かれているだけ。何の変化もなかった。
別の絵はどんどん増えていくから、時間がない……ってことじゃないのは明らかだった。でも、催促するわけにもいかなくて、私はいつも……もどかしい思いをしながら、その絵を眺めるしかなかった。
もしかして、私が彼の心を踏みにじってしまったのだろうか……。そのせいで、彼は私のことを……嫌いになってしまったのだろうか……。今日、彼と話をしていた私は、ふと、そんなことを思ってしまった。確かに私には、図々しいところがたくさんある。
例えば、ついさっき言ってしまった台詞。彼が頑張って、努力して手に入れた才能に対して、「神様がくれたプレゼント」だなんて……冷静に考えれば、こんなに失礼な言葉はない。そうだ、私より凄い人は、みんな私より努力してるんだ。塚原先輩だってそう……。それを、「神」という一言で済ませてしまった私は、なんて愚かなんだろう。彼の気持ちを全く考えていない発言……もとい失言だった。
「ごめんなさい……」
私は彼に謝った。きっと私は、今みたいに知らず知らずの内に失礼なことをたくさん言って、彼を傷つけてしまっていたんだ。これで彼の気持ちが晴れるとは思えなかったけど、面目なさ過ぎて謝らずにはいられなかった。自己満足……、そう、ただの自己満足なんだよね、こんなの。そうは分かっているんだけど……。
「なんで急に謝るのさ? ユミはなんにも悪くない。悪くないのに謝っちゃダメだよ。そんなんじゃ、将来……苦労するぞ」
小林君は別の白いキャンバスをイーゼルにセットしながら、なんとも感情がくみ取れないような口調で答えた。……そう言いつつも、結局私の絵は描いてくれない。私は少し、悲しくなった。
「私……傷つけたと思って、小林君のこと。だから、謝った。自己満足なのは分かってる。でも、自分が許せなくて……」
「傷つけた? なんで?」
「さっき、神様のプレゼント……とか言っちゃったから。小林君だって、凄く苦労してここまで描けるようになったんだよね? それを、神様のせいにしちゃって……。最悪だった」
それを聞いた小林君は、一瞬キョトンとしたような顔をしたかと思ったら、プッと吹き出した。
「ははは、そんなこと一ミリも考えてなかったし。そもそも、努力なんかしてないから。物心ついたときには、既に得意だったんだ。好きなことをやっていただけさ。だから、ユミの言葉に傷ついたりはしてないよ。確かにこれは、神からのプレゼントだね」
……そんなわけ無いと思った。小林君は絶対、私に気を遣ったんだ。私は、この前あった中間テストで、小林君の成績がものすごく良かったこともさりげなく知っている。……絵だけじゃなくて、他のことにも……小林君は一生懸命だった。
そういえば、ハルカだって何だかんだ謎の勉強を頑張ってる。最初はただの中二病だと思ってたのに、理科とか数学とか、理系科目の成績が明らかに良くなっていた。彼女が何を目指しているのかは未だによく分からないけど、私より努力してることは間違いない。
……それに引き換え、私は何? 私にはトランペットしかないのに、それさえも自信を失いかけてる。出来る人のことは神様のせいにして、自分が下手くそだっていう事実を正当化しようとしてる。
……こんな考えの人間じゃ、音楽どころか何をやったってダメだ。何を頑張ったの? 何を努力したの? ……昨日だって、帰ってからは漫画読んで寝てしまった。そんな間にも、塚原先輩はコンクール曲のアナリーゼをしてるのかもしれない。このままじゃ私は……
「……ごめん、今日はもう行くね。……もしかしたら、しばらくここには来れないかもしれない」
「……え? どうして……?」
「小林君のお陰で、ダメだって……気付いたから。もっとたくさん努力して、もっとたくさん練習して、いつかきっと……小林君を感動させるような演奏をして見せる。だから今は……頑張らなくちゃ」
「……そっか。分かった」
小林君は、笑顔で頷いてくれた。でも、その笑顔はどこか寂しそうだった。その表情を見て、小林君にとって私はどんな存在なんだろうと、ふと思う。……小林君は私のこと、好き……なんだろうか……。
美術準備室を後にする直前に、私はもう一度、例の描きかけの絵を見つめた。あの日からまだ何も変化していないあの絵には、どんな意味が込められてるのかな……、そう思いながら。
もし小林君が私のこと嫌いになってて、そのせいで描くのが嫌になってたんだとしたら、さっきの寂しそうな表情の意味がわからない。でも、私のことが好きなんだとしたら、続きを描いてくれない理由が分からない。どうすれば、あの絵は完成するんだろう……。
「……あ、先輩……。こんにちは……」
悶々としながら音楽室へ立ち寄ってみると、そこには数人の先輩方がいた。その中には、塚原先輩の姿もある。突然顔を出した私に少し驚いた表情をした先輩は、すぐにまた、もっていた楽譜へ目を落とした。
「……かわいい後輩が来たのに、リアクション薄くないですか?」
私は塚原先輩の隣まで歩いて行って、若干疎ましそうにする先輩へ声をかけた。……というか、「急に何だコイツ」みたいな顔された。
「……何の風の吹き回し? 小比賀さんは、私のこと嫌いでしょう」
「……バレてました?」
「邪魔するだけなら帰ってくれる? はっきり言って迷惑」
はっきり言い過ぎだし……なんて心の中で思いつつ、いつか譜読み中に小林君が話しかけてきたことを思い出し、共感もする私。でも私には、今ここで先輩に宣言しなくちゃいけないことがある。
「私……、もっと真面目に……練習します……」
「は? なにそれ。今までは真面目に練習してなかったってこと?」
「……はい。すみません……。今までは、うぬぼれてました……」
私が白状すると、先輩はむちゃくちゃ大きなため息を吐いてから、「それでもあれだけ……」とブツブツ何か言った。前から思ってたんだけど、この人……ホントため息多い。
「やっとそこに気付いたんだ……」
「はい……。……え?」
「小比賀さん、あなたには……才能があると思う。ちゃんと練習すれば、次のコンクール……相当いいところまで狙えるかもね」
塚原先輩は吐き捨てるようにそう言うと、音楽室を出て行ってしまった。……って、今なんつった先輩!? 私に才能がある!? どういうこと!? もしかして……
塚原先輩も、私のことライバル視してたってことなのかな? 私の一方通行じゃなくて……? ……いや、考えすぎ? でも……
今度こそ私は、本気で頑張る。私が本気出したら……凄いんだから。