小林彰人④
平井さんとは、月に2~3回のペースで会うようになっていた。最近は、少しずつ頻度も上がってきているように感じる。平井さんと会う機会が増えるごとに、僕の中の罪悪感も増していった。
……多分……というか絶対に、平井さんは彼に僕と会っていることを話してない。彼に内緒っていう時点でもう、この関係は不倫なのかもしれない。不倫……。その単語は、想像以上に重く、僕にのしかかってくる。
唯一の救いは、恋愛対象としての好意をお互いに全く示していないことだろう。僕が彼女に「好きだ」と言ったこともなければ、彼女から「好きです」と言われたこともない。ただ単に僕は平井さんの悩みを聞いているだけで、今も彼女が愛したいのは彼だけなのだ。
……でも、残念ながら僕は違う。僕が彼女と会っているのは、もちろん彼女の事が好きだからだし、僕が愛したいのは彼女なのだ。ただ伝えていないだけで、相変わらず僕は……彼女の事が、大好きだった。
そのことを何も知らずに、彼女は僕と会っている。彼女にとってはただの相談でも、僕にとっては不倫も同然だ。こんな関係が、いつまで続くのだろう。どんなに続いたとしても僕が選ばれることはないし、彼女が彼と上手く行けば用済みになるだけなのに。
……どうして僕は、彼女に恋をすることしかできないのだろうか。
あるいは、神に弄ばれているのかもしれない。決してかなわぬ恋を見せつけ、さらにその人を目の前で痛めつけ、絶望する僕を不敵に笑いながら眺めているのだ、神は。そう、未だに彼のことを愛したいという彼女の体には……、会う度に、傷が増えていた。
……彼と引き離したい。確かに、僕にもチャンスが欲しいという利己的思考もあるにはある。だけど、傷ついていく彼女をこれ以上見たくないという想いの方が、今はずっと強かった。
それに、こうして僕と会っていることが彼にバレたら、ただじゃ済まない気がする。話を聞く限り、洗濯物のたたみ方が下手だとか、食器洗うのが雑だとか、たったそんなことで手を上げるような人間だ。……いや、間違いなくただじゃ済まない。そこも心配だった。
僕が原因で、平井さんが殺されてしまったりしたら……。そんなあってはいけない可能性までもが頭をよぎり、悪寒が走る。……チクショウ、僕はどうすればいいんだ。僕は、何をするべきなんだ?
「……小林君? ……あ、ごめんね。いつも重い話ばっかりで」
「えっ……? いや、ちょっと考え事してただけだから。大丈夫!!」
平井さんの声で我に返った僕は、彼女を心配させないような明るい声色で、そう返した。……それがわざとらしかったせいで逆に不安を煽ってしまい、あからさまに表情を曇らせてしまう彼女。
「離婚……した方がいいのかな」
そしてポツリと、けれどはっきりと、彼女は……口にした。
いつもと違い、今日の会食は突然だった。「今すぐ会いたい」……こんな連絡が入って、その日のうちに会うことになったんだ。住んでる場所がそこそこ離れてることもあって、今までは連絡が入ってから会うまでに、平均して一週間くらい期間があったというのに。
彼女の切迫した雰囲気に危機を感じた僕は、すぐに彼女のもとへ向かった。話を聞くと、次回の演奏ツアーのスケジュールを巡って彼と口論になり、逆上した彼に頬を思い切り殴られたらしい。彼女は大きなマスクで顔を隠していて、レストランに入ったものの料理は僕の分しか注文しなかった。
「……うん。ごめん、そこは……否定できない。離婚は……した方がいいと思う。たぶん、相談相手が僕じゃなくたって、そう言うよ」
「そう……だよね……。小林君にも……迷惑だもんね……」
そのマスクの下がどうなっているのか、想像するのも恐ろしかった。ほとんど家出同然で飛び出してきてしまった彼女は、ついに……自分の居場所すらも失ってしまったんだ。
「僕が迷惑とか、そんなんじゃなくて。このままじゃ、平井さんがもたない。死んじゃうよ……。もういいだろ、彼は君を愛してないんだ」
「そんなこと……な」
「そんなことあるだろ!! いい加減気付いてくれよ!! 君にとって、顔を殴られることは普通のことなの!? 違うでしょ!? 周りを見てみろよ!! 君みたいに傷だらけの子、いないだろ!? 目を覚ま……」
「ご……ごめんね……!! ごめんねごめんねごめんねっ……!!」
少し強く言ってしまっただけで、彼女はボロボロと涙を流しながら何度も何度も頭を下げてきた。見ていられない。可愛そうとか、そういう次元じゃない。親から虐待を受けている幼い少女そのものだ。彼女をこんなにしてしまった彼に、怒り以外の何も感じなかった。
「僕の方こそごめん……。今のは僕の方が悪かった。あんなに強く言うことなかったんだ。ごめん、本当にごめん……!!」
むせび泣く平井さんを慰めながら、これ以上彼女は耐えられないと思った。もう、精神的にも限界が近づいてきていると思った。
「本当に大丈夫……? 何かあったら、いつでも僕に連絡して」
彼女が落ち着くのを待って、僕たちは店を後にした。時間は夜の8時くらいだろうか。帰る場所がないという彼女は、とりあえず近くのホテルで夜を明かすと言った。不安は拭いきれなかったけど、僕の狭くて汚いアパートへ連れ込むわけにも行かず、そうして貰うしか方法がなかった。
「今日中に色々調べておくから。明日、弁護士事務所へ相談にいこう」
「うん……」
「……やっぱり、まだ彼に未練があるの?」
伏見がちに黙り込む彼女。多分、まだ完全には吹っ切れていないのだろう。そう言うと僕に怒られると思って、言葉が出てこなくなったに違いない。……我ながら、今日は本当に失敗したと思う。
「……もし、彼と別れたら。小林君は私のこと、愛して……くれますか?」
しばらく沈黙した後に、彼女は小さくそう呟いた。突然のことに激しく動揺してしまった僕は、脳内に溢れ出した言葉を整理することに手間取り、なかなか言葉が出てこなかった。
「……やっぱり、彼がいなくなったら、私のことなんて誰も……」
「愛すよ!!」
あれこれ考えたクセに、結局……たった一言、「愛すよ」としか言えない僕。こんなに薄っぺらい台詞で想いが伝わったとは到底思えないけど、何も言えないよりはマシだと思った。
彼女がどういう意味合いで僕に「愛してくれますか」と言ったのか、正確には分からない。彼女が僕のことを好きになるとも思えない。だけど、「愛してください」と言われたら、全力で愛せる自信はある。だから、僕は何も変なことは言っていない……ハズだ。
僕の「愛すよ」に対して、彼女は一言「ありがとう」と呟くと、「じゃあ、また明日」と続けて僕から離れていった。そんな彼女を見届けてから、僕も帰途に就く。……明日も会うなら、アパートへ帰るよりはホテルに泊まった方が、コスパもいいし時間もかからない。僕は、近場にあるカプセルホテルへ向かうことにした。
恐らく、弁護士を代理人にして、彼と平井さんを直接会わせない法的処置をとることは出来るだろう。結婚もしていない僕が離婚調停の仕組みを調べるなんて、なんだか変な話だけど。
……しかし、彼女は本当に大丈夫なんだろうか。嫌な胸騒ぎがする。ホテルに着くまでは、僕が付き添うべきだったかもしれない。……そんなことを考えながら歩いていた時だった。裏路地から突然、息を切らせた人が僕の目の前に現れたんだ。必死に誰かを探しているようにも見える。一体何事だろうとその人の方へ視線を向けたその時、街灯に照らし出されたその顔が、僕の目に飛び込んできた。
「ユミは……ユミはどこにいるっ!?」
そして、僕を怒鳴りつけるように、その人は突然叫んだ。……が、僕が何よりも驚いたのは怒鳴られたことじゃない。その人……僕と目が合ったその人は……
……僕と、全く同じ顔……同じ姿をしていたのだ。
そしてその人は、僕の返事を聞くまでも無くどこかへ走り去ってしまった。一体……何なんだ……? 今のは、一体なんなんだ!?
あまりにも色々考えすぎて、幻覚でも見たのか……? それとも、僕が今見たのって……、まさかドッペルゲンガーか?
――ドッペルゲンガー。ドイツ語で、『二重の歩く者』という意味。姿形が全く同じもう一人の自分が現れるという、怪現象。世界中で似たような現象が発生しており、一般に、ドッペルゲンガーに遭遇した人間は死ぬとされている――
……全くいい予感がしない。しかも、さっきヤツが叫んでいた「ユミ」という名前……あれは、平井さんの下の名前と同じだ。もしかして、平井さんの身に何か危険が迫っているのではないか……?
僕は慌てて踵を返した。まだそれほど経っていないし、彼女は近くにいるはずだ。さっきのは、何かのお告げに違いない。鼓動が高鳴り、呼吸が荒くなっていくのを感じながら、僕は夢中で走った。そして……
「ダメッ!! 逃げて小林君っ……!! 来ちゃダメ!!」
……平井さんの声に気がついた時にはもう、引き返せないところまで来てしまっていた。
「……君かい? 僕のユミに変なこと吹き込んだのは」
座り込む平井さんの前に立っていたのは、爽やかな顔をした美青年。一見、話せば分かるタイプの人間に見える彼は、貼り付けたような乾いた笑顔で僕を見つめながら、ゆっくりと近づいてきた。
「……台無しだよ。君のせいで、全てが台無しだ。まったく、とりあえず責任は取って貰うよ? このままじゃ、僕の気が収まらない」
その瞬間、僕の腹部に鋭い痛みが走った。何が起きたのかがわからず、恐る恐る……視線を下へと移していく……。すると……
「ウソ……だろ……?」
僕の腹部には包丁が突き刺さり、鮮血が……流れ出していた。
「あんまり僕を恨まないでくれよ? お互い様なんだからさ」
「……ひら……無事……な……ぁがッ……」
「心配しないで。ちゃんとユミは僕のものにするから」
彼のその言葉の意味が分からず、言い返そうとしたけれど、僕にはもう……なにもできなかった。
パトカーのサイレンが、薄れゆく意識の中で僕の耳に届いた。