小比賀由美③
「じゃあ、午前中のパート練習はここまで。午後イチで一楽章の合わせをやるから、終わらなかった分の譜読みは昼休み中にしておいて」
そう言うと、塚原先輩は小さくため息を吐きながらメトロノームを止めた。容赦なくダメ出しされまくった私と平井先輩は、バツが悪そうに黙り込んでいる。
仮入部期間も終わって、私は正式な部員になっていた。吹奏楽部に力を入れている高校だけあって、練習は仮入部期間から結構厳しく、心折れて来なくなってしまった一年生も何人かいたみたい。
最初の頃こそ、経験者っていう強みとか、自分は上手い方だっていう自信とか、そんなのを振りかざしてうぬぼれていた私も、すぐに「井の中の蛙」だってことに気付いて落ち込む日々に変わった。当然だけど、ほとんどの人が中学からの経験者で、想像以上にレベルも高くて、私の演奏なんか箸にも棒にもかからない有様だった。
塚原先輩だって例外じゃない。初めて会ったときに全力で敵視してしまった自分が恥ずかしくなるくらい、先輩の指摘は鋭く的を突いていて、私は何も言い返せなかった。とても太刀打ち出来るような存在じゃなくて、悔しいけど……今はもう「ただの凄い先輩」だ。
今日はゴールデンウィークの初日で、学校自体は休みだった。午前中は各パートに別れて練習、午後から合奏がある。コンクールの曲も決まって、本格的に練習が始まったのに、ぜんぜんついていけてない。
「あ、ユミちゃん!! お弁当、一緒に食べようよ!!」
「……すみません。今、誰かと一緒に食べる気分じゃなくて」
平井先輩からお昼に誘われたのに、断ってしまう私……。こんなんじゃ、塚原先輩の言うとおり恋愛なんてしてる場合じゃないし、平井先輩だって振り向いてくれるわけがない。
最高に灰色な気分で一人ご飯を食べ、適当に校内をふらつき始めた。お昼休憩は……1時まで。あと40分くらいある。譜読みは終わってるから大丈夫だけど、合奏で足を引っ張らない自信は無かった。……どうしよう、このままじゃ……吹奏楽部も平井先輩も、ダブルでロストするかもしれない。あーっ、もう!! こんなハズじゃなかったのにぃっ!! どうやったら塚原先輩を倒せるんだろう!?
「……あれっ? 小比賀……?」
頭を抱えて悶絶しているところを、通りすがりの人物Aに見られてしまった。……まってまって、最悪すぎる!! 普通、見て見ぬふりするでしょ、思春期の女子なんだからさぁ!! 一ミリも気を遣わずに声かけてくる甲斐性なしは、一体どこのドイツだっ!?
「やっぱ小比賀じゃん。今日も部活? 今のは……なんかの練習?」
振り返ると、そこには……いつか私の譜読みを容赦なく遮ってきた、あの小林君がいた。いやいや、練習なわけないし練習だとしたら何の練習だよ私は演劇部じゃなくて吹奏楽部だっつーのバカヤロー!!
「チガウよ……。さっきのは、えっと……なんでもないから聞かないで」
……内なる叫びを全力で心の中に押し込んで、無難な返答で誤魔化す私。なんだか、小林君に声かけられる度にイライラしてる気がする。せっかくクラスメイトが話しかけてくれてるのに、これじゃあダメだよね。……でも、小林君がいつも最悪なタイミングで声かけてくるのも事実だし、私が百パーセント悪いってわけじゃないと思う。誰か私をスロットル全開で肯定してください。……マジで。
「そっか、分かった。とりあえず小比賀のクセってことにしておくよ」
「……まって、なんかそれもチガウ。クセじゃない」
「クセじゃ無いの? じゃあ……」
「いつまで引っ張るつもり!? 出来ればもう触れて欲しくないんだけどなぁー!?」
……小林君って、もしかして私をわざと怒らせてる?
「ごめんごめん。ところで、今は休憩中?」
「うん。あと……30分くらいしかないけど。お昼休み中だよ。小林君こそ、休日に学校で何してるの? 部活……?」
「部活というか趣味というか……、せっかくだし、見ていく?」
「見ていくって……? 何を?」
「僕のアトリエ!! すぐそこだからさ!!」
……アトリエ? そう言われて案内されたのは、美術準備室だった。彼が部屋の引戸をあけると、そこには……
「……わぁ。す……ご……い……」
色とりどりの花の絵が、びっしりと飾られていた。よく見ると、鳥とか、風景とかもある。私はあまりの衝撃に、口をポカンとあけたまま固まってしまった。
「こ……これ、全部小林君が……描いたの……?」
「そ。意外だった? 実は僕、小さい頃から絵を描くのが好きなんだ。吹奏楽で挫折してからは、ずっと絵を描いてる」
「すっごい……。信じられない……。小林君って……何者……?」
ついさっきまで私の心を埋め尽くしていた小林君へのイライラが、急速に引いてゆく。小林君が見つけた「吹奏楽とはまた違う楽しみ」って、これのことだったんだ……。
「……これだけ才能があったら、画家でも美術の先生でも、何でもなれるんじゃない?」
「んー……、どうかな。それは……難しいかもしれない」
「……え?」
褒めたつもりでそう言った私は、彼がとても悲しそうな顔をしながら黙り込んでしまったので、少し困惑した。確かに画家として生きていけるような人はわずかかもしれないけれど、既にこんなに上手な絵が描けるんだから、もっと自信持ってると思ったのに。
「……そうだ、この中の絵、一枚あげようか?」
しばらく二人して沈黙していたら、小林君が突然そんなことを言い出した。いや、正直欲しいとは思ってたけど、私……たった今ふらっと寄っただけですよ? そんな人にあげちゃっていいの!? どう見たって、そんな簡単にかけるような完成度じゃ無いし!!
「えっ……!? なんで!? いいの!?」
「うん。好きなの持って行ってよ。置き場所もなくて、捨てることになっちゃうかもしれないから」
「捨てるって……まってまってまって!! そんな、個展でも開いたらいいじゃん!! 先生に頼んであげよっか?」
「アハハ、冗談だよ。そう言わないと、もらってくれないと思っただけ。僕は小比賀にプレゼントしたいんだ。だから好きなの持って行けよ、遠慮しなくていいから」
そ……そんなこと言われても……。どれも素晴らしすぎで、選べそうにない。タッチも色々。鉛筆だったり色鉛筆だったり、水彩だったり油絵だったり……。みんな違ってみんないい。一枚じゃ無くて何枚か欲しいんだけど……なんて、さすがの私も言えないし。うーん……
「あれ? コレは……」
そんな中で、私は隅の方に忘れられたように置いてある、白い布の被ったキャンバスを見つけた。
「……あ、ちょっと待って!! それはだめっ!! まだ途中で……」
……ってことは、これも小林君の作品? しかも、なんだか凄く慌ててる。そう言われると気になるなぁ、ちょっと覗いてみちゃおうか。私は小林君の制止を振り切って、その布を取り払った。
「……えっ?」
それは……。肖像画だった。白い大きなキャンバスの上の方に、鉛筆のみで小さく顔が描かれている。下の余白には、身体を描くつもりなのかな? それにしても、この絵のモデル……。これって……
「……もしかして、私?」
彼は真っ赤な顔をして、恥ずかしそうに頷いた。……まじで? めちゃくちゃ……嬉しいんですけど……。
「ご……ごめん、勝手に描いちゃって……。お……小比賀がさ、その……、綺麗……だったから……」
その言葉を聞いた瞬間、ボンッって私は真っ赤になった……と、思う。私が自他共に認める美少女だってことは疑いの無い事実だとしても、綺麗だから描いてくれただなんて……嬉しすぎる!! 白状すると、そんなこと他人から言われたの……初めてなんだよね私……。
「……これ。この絵、欲しい」
私は、今し方布を取り払った絵を指さしながら、ぼそって言った。小林君が目をまん丸にして、私の方を見返してくる。……そんな顔して見ないでよ。緊張……しちゃうじゃん……。
「こ……これで、いいの? でも、コレ……まだ途中だし……」
「だからっ!! 完成したら、ってことだよ!! ちゃ……ちゃんと完成させてよね、その絵っ!! 約束だから!! あ、あと……」
急に恥ずかしくなってきた私は、美術準備室の出口へ向かって駆け出した。そのまま飛び出すつもりだったけど、部屋を出る直前に言いたいことを思い出してしまい、一旦立ち止まる。
「私のことは……ユミって……呼んでいいから」
完全に捨て台詞。直後にまた顔を赤くした私は、今度こそ部屋を飛び出してしまった。あぁ、なんか一方的に話つけてきちゃったけど、やっぱりまずかったかな……。でも……。
……あの絵、完成したらどんな感じになるんだろう。色とかもつけてくれたりして……楽しみすぎる!! それにしても、小林君ってあんな才能をもってたんだ。私もトランペット……頑張らなくちゃな。
私は壮大に浮かれた気分のまま、音楽室へと戻っていった。