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小林彰人③

 遥か雲の上の存在だと思っていた平井さんから突然食事に誘われ、連絡先の交換までしてしまったあの日から、数日が経過していた。未だに僕は、あの出来事が夢だったんじゃないかと疑っている。


 どうしてこんな、どこにでもいるしがないサラリーマンを食事に誘ってくれたのか。曰く、高校時代に僕たちは一度出会っていて、僕が記憶をなくしているだけらしい。……そんな、僕にとって都合の良すぎる展開もまた、あの出来事を現実離れさせる要因の一つだった。


 その後、念のために卒業アルバムも確認してみたけれど、彼女の写真はもちろんなかった。お互い違う高校なのだから、当たり前だ。


 嬉しいはずなのに、素直に喜べない――。そんな気持ちを抱えつつも、僕は、彼女が帰り際に言っていた「また会おう」という言葉に、少しだけ期待を寄せていた。


 もちろん、既婚者の彼女に対して僕の方から連絡をする度胸なんてあるはずも無いから、このまま連絡が来なければ彼女とはそれっきりだ。僕は「期待する」ことしか出来ない小さな存在であり、そういう意味では、彼女は未だに雲の上の人間なのだろう……。


 そして、僕の想いとは裏腹に、しばらくは何事もなかった。転機が訪れたのは、演奏会から一ヶ月ほどが経過したある日。彼女の方から突然メールが届き、そこには「今週末会える?」という文言と、具体的な時間や場所が記されていたのだ。僕は驚きと動揺の中、すぐに「是非お会いしたい」と返信した。


 ……分かってる。彼女は既婚者だ。僕との間に恋愛感情が芽生えるなんて、絶対にあり得ない。彼女は純粋に昔を懐かしみたいだけで、僕はその「材料」に過ぎないのだ。……一体、何度自分にそう言い聞かせたのだろう。とにかく、自分を納得させるのに必死だった。


「……なんか、急にごめんね。小林君の顔見るとさ、安心するんだ」


 最初に顔を合せたとき、彼女は微笑みながら僕にそう言った。そしてそのまま、彼女が選んでくれたレストランへ二人で向かう。……そこは、普段だったら絶対に行かないような、少し高級なレストラン。


 席に案内された僕たちは、向かい合う形で座った。平井さんは僕と目が合うとクスリと笑い、「懐かしいね」……そう一言呟いた。


「高校時代で一番落ち込んでたとき、そばにいてくれたのは小林君だった。……なんだか、あの時と似てる気がして。私……」


 とても寂しそうに笑いながら、そう続ける平井さん。サイン会で彼女から感じた「哀愁」は、僕の勘違いじゃなかったらしい。……あの時よりも、明らかに「寂しそうな表情」の割合が増した笑顔だった。


「どうしたの? 演奏活動、上手く行ってないの? そうには思えないけど……」

「ううん、演奏活動は、自分でも怖いくらいに順調。だけど……」

「だけど……?」


 そこで彼女は黙り込み、そっと……自分の左手首にある痣へ、右手を添えた。苦しそうな表情だった。……もう、笑顔を作る余裕すらないのかもしれない。彼女は、何かを堪えるように小さく震え始めた。


「……あの、大丈夫? その手首……どうしたの? だいぶ酷いあざがあるみたいだけど……」


 そう声をかけると、彼女は唇を噛みしめ、バタバタと涙をこぼしながら泣き出してしまった。どう慰めたらいいのかも分からず、そっとハンカチを差し出すことしかできない僕……。


「難しいね、愛し合うって……」


 そして呟かれたその一言が、僕に全てを悟らせた。ハンカチで涙を拭いた平井さんは、やっぱり寂しそうに笑っていた。


「小林君は、結婚してるの……?」

「……してないよ」

「……好きな人はいる? 愛してる人は……いる……?」

「……好きな人も愛してる人も……いないよ」


 ……この会話を、青春真っ盛りの高校生の時にしていたら、僕はたぶん、「平井さんのことが好きだ」……と言っていただろう。もちろん、今そんなことを言っちゃうほど、僕は分別のつかない人間じゃ無い。……いや、こうして彼女と会い、こんな会話をしている時点で、分別なんてついていないのかもしれないけれど。


 ……どうしてこんな質問をしてくるのか当てがついたからこそ、なおさら「平井さんのことが好きだ」なんて、言えなかった。


「もしかして、DV……受けてるの?」


 僕は、あえて単刀直入に尋ねた。ここまで来たら、ぼかしても仕方が無い。コクリと小さく頷く平井さんを見て、憶測は確信へと変わる。


 ……彼女は、僕に気があるわけでも、僕と恋バナをして盛り上がりたいわけでも無い。単純に、「愛」というものについての客観的な意見が欲しかっただけなんだ。最愛の人から暴力を受け、愛を見失っていた彼女のもとに、たまたま顔見知りの僕がやってきたから思わず声をかけてしまった。……ただそれだけのことだったのだろう。


「彼とは……、高校の時に部活で出会ったんだ。優しくて、かっこよくて、私は……ずっと彼に夢中だった」

「部活って……やっぱり吹奏楽部?」

「うん……」


 キノコのリゾットを食べながら、僕たちは会話を続ける。今日もまた、僕は平井さんと同じメニューを注文した。


「きっと、DVって言うほど……大げさじゃないんだよ。ただ、彼のこと好きな女子は多くて、みんなから羨ましがられたからさ。幸せな家庭を築けてるって思われたくて、ずっと誰にも言えなかった……」

「そっか……。それは辛かったと思う……。それでも、別れようとは思わないの?」

「……好きだった頃の彼が、忘れられなくて。ううん、……今でも、本当はもっと……彼のこと、愛したい。だって……」

「……だって?」

「私のことを愛してくれるのは、彼しかいないから……」


 ……衝撃を受けた。こんなに綺麗で魅力的な人でも、「他に愛してくれる人はいない」なんて決めつけたりするものなのか。DVを受けると冷静な判断が出来なくなるとは聞いていたけれど、人の自信をここまで無くしてしまうものなのか。


「そんなことない。今の相手と別れても、平井さんを愛してくれる人はきっといる。それに、彼はもう……君を愛してないよ」

「……なんで、そんなこと言えるの? 彼のこと何も知らないくせに、適当な意見言うのは止めて。私を愛してくれるのは彼だけなの。昔は『自分は可愛くてモテる』とか思ってたイタい女だったけど、今はちゃんと……冷静に自分を見れるから……!」

「冷静に見れてないよ……! そんな痣つけられるほど暴力振るわれて、どうして『愛されてる』なんて思えるの!? おかしいじゃん!!」

「それは私がッ……!!」


 僕の言葉を遮るように、彼女が声を荒げた。直後、お互い感情的になっていることに気付き、クールダウンする僕と彼女……。


「それは私が……頼りないからだよ。不束者だからだよ。この前殴られたのも、私がサランラップを切らせちゃったからだし……」

「それだけのことで怒って暴力振るう方が、よっぽど悪いと思う」

「違うの! 私がちゃんとしてれば、彼は優しいの。いつも私が原因作ってるのに、彼をうまく愛してあげられない私ってなんなの? 彼は私のこと、愛してくれてるのに……。それに子どもも……」

「……子ども? もう子どももいるの?」

「……ううん。妊娠はしたんだけど、……ダメだった。私の体調管理が出来てなかったせいで、流れちゃって……」

「……それは絶対、君のせいじゃない」


 ……ダメだ、完全に彼に支配されている。僕がどんなに説得したって、きっと彼女には伝わらない。でも、このままにしておいたら、いつか彼女が壊れてしまう……。そうなったらもう、あの素晴らしい演奏だって、聴けなくなってしまうかもしれないんだ。


「確かに僕は、彼のことを知らない。だから、彼が悪いのかどうかは判断できないかもしれない。……だけど少なくとも、君は悪くない。もう、必要以上に自分を責めちゃダメだ」

「私のどこが……悪くないの? 私、トランペットの演奏しかできないんだよ……? 普段の生活じゃあ、彼に迷惑かけてばっかり……。私だけ好きなことやって生きて、彼には苦労させて……。それなのに私は、彼を愛してあげられないんだよ……?」

「……あんなに素晴らしい演奏ができたら、それだけで十分だ。僕だったら……もう他に何も求めない」

「……そっか。相変わらず優しいんだね、小林君は」


 彼女のその台詞は、皮肉のようにも聞こえた。君は優しい以外に取り柄の無い人だね……そんな行間があったようにも思えた。


 食事を終え、僕たちは席を立った。今日こそは僕が奢ろうと思っていたのに、平井さんはてこでも僕に払わせてくれなかった。


「今日は……本当にありがとう。少しだけ、気持ちが楽になったよ。だけど、もう私……、もたないかも……しれない。どうすれば……耐えられるのかな? 私はあと、何を頑張ればいいのかな……?」

「何も……頑張らなくていい。平井さんは、自分のやりたいことを精一杯やればいい。だから、もう自分を責めないで。辛くなったら、逃げて欲しい。……君をもっと大切にしてくれる人は、必ずいるから」

「……ありがとう。そうだと……いいな」


 そう言いながら、平井さんは僕の左手を握りしめてきた。そんなさりげない行為に年甲斐も無くドキドキする僕は、やっぱり彼女の事が……好きなのだろう。好きで好きでたまらないのだろう。


「また……連絡するね」


 そして、最後にそう付け加えた平井さんは、静かに僕のもとから去って行ったのだった。

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