小林彰人②
平井さんの知り合いと勘違いされたらしい僕は、それを指摘することもできず、言われるがまま彼女から指定された飲食店へ向かって歩いていた。
約束の時間は、確か午後の6時。このペースで歩けば、丁度良い頃合いになるだろう。
僕にとって神も同然だった平井さんと一緒に食事ができるなんて、本来なら気絶するほど喜んでも良いはずなのに……。「すみません、人違いでした」……そんな結末になるのが分かりきっているせいで、気持ちは晴れなかった。
……だけどまぁ、それでもいいのか。どんな理由にしろ、彼女と話せるんだから。たとえ僕が知り合いだろうと初恋の相手だろうと、今の彼女が既婚者である以上、恋に発展することはあり得ない。だったら結局、僕が何者でも、僕にとっての結末に大差はないということだ。
あるとすれは、彼女との「世間話」が、すぐに終わるか長引くか……その程度の違いくらいだろう。
店に到着すると、入り口には既に平井さんの姿があった。カジュアルな服装に身を包んではいるものの、素顔は普通に晒している。
「あ……あの、すみません。待たせちゃいましたか……?」
「ううん、平気! とりあえず、中入ろっかー」
「……その、大丈夫なんですか? 素顔で……」
「えっ? あ、大丈夫大丈夫!! 私まだそんなに有名じゃないし、テレビとかにはほとんど出てないから。誰も気付かないよ」
「そんなこと……」
僕くらいのファンがいれば、間違いなく一瞬で気づく。そもそも、コンサートがこの付近であったばかりなのだから、マスクくらいしてはどうか。……ゴシップ誌なんかに取り上げられてしまったら、僕の方が申し訳ない気持ちになってしまう。
……なんてことも言えず、僕は平井さんと店の中に入った。ドキドキしている原因が、単に有名人と一緒だからなのか、平井さんと一緒だからなのか、あるいはその両方なのか、僕には分からない。
「さ、どうする? 今日は私が奢るから、遠慮しなくていいよ」
「え? ……いや、さすがに自分の分は払います」
「いいから。CD買ってくれた上にコンサートまで来てくれた人に、お金なんて払わせられないよ」
「いえ、それは僕の好きでやったことなので、それとこれとは……」
「あとさぁ、タメ口で話しかけてくれない? ……そんなによそよそしくされると、……さすがに私も寂しいよ……」
哀愁を垣間見せながら、平井さんにそう返された。その瞬間、僕の罪悪感はピークへ達する。……これ以上は、もう耐えられない。人違いだということを……白状しよう。そう思って口を開いた僕へ……
「あの、僕……」
「……知ってるよ。覚えてないんでしょ? 何もかも」
……平井さんから、予想だにしない返事が飛んできた。あまりにも想定外すぎて、頭による処理が追いつかない。
「覚えてない……って? 僕がですか……?」
「……うん。次に会うときは何も覚えてないけど、いつか必ず会える時が来るから……って、意味深な言葉を残して君は消えちゃった」
「そんなこと……言われても……」
……覚えてるとか覚えてないとか、そういう次元ですらない。何かを忘れている……という心当たりさえ、ないのだから。
「それは、いつ頃の話……?」
「高校生の頃かな」
「平井さんって、高校はどこだったんです……あ、どこだったの?」
「え? 小林君と同じ、坂之上高校だよ」
……坂之上高校。確かに、進学先の候補にそんな校名があった気もする。でも、僕が最終的に選んだ高校とは違う。……やっぱり人違いだ。僕は記憶喪失じゃない。最初から君のことを、知らないんだ。
……だけど。
「そうだったんだ……。ごめん、高校の頃の記憶がぜんぜんなくて」
僕は、「記憶がないフリ」をしてしまった。そうすれば、彼女の知っている「小林君」になれるから。僕にとってあまりにも都合の良すぎるその展開は、実はもう別人だと気づいている彼女が、気を使って「記憶喪失」という設定を作ってくれた……ようにも思えた。
「……絵は? まだ……描いてるの?」
その割には、次々と飛び出してくる身に覚えのない話題が、僕を苦しめる。……絵って何のことだろう。「小林君」は、絵が描けたのか?
「……ごめん、記憶がなくなったときから描いていない……」
「……そっか。それは残念……。小林君の記憶って、やっぱり治療のせいでなくなったのかな……。その目、ちゃんと治ってるもんね」
「目……? 僕の目がどうかしたの?」
「……ううん、何でもない。これは思い出さなくていいよ。私も恥ずかしいし。でも、ちょっとだけ……寂しい……かな」
そう言う平井さんは、頬をほんのり赤く染めていた。……目とか治療とか恥ずかしいとか、……何が何だかさっぱりわからない。そりゃそうだよな、僕は「小林君」とは何の関係もない赤の他人なのだから。
「……ごめん、せっかく会ったのにこれじゃあ……台無しだよね」
「そんなことない。確かにちょっと寂しいけど、その顔も、声も、雰囲気も、全部昔のまんまだから。記憶がなくても、私は嬉しいよ」
……いや、それはさすがにあり得ないだろう。他人の僕に、そんな面影あるはずない。……彼女はいったい、何をどう勘違いしているんだ? それとも本当に、僕が記憶をなくしているのか……?
「それより、早く注文しちゃお? 私はオムライスでいっかなー。小林君は?」
「えっ? じゃあ……僕もオムライスで」
そう返すと、彼女は控えめに「ふふっ」と笑った。
「あの……、何か変なこと言ったかな?」
「別にそういうわけじゃないんだけど、……昔のまんまだなって。小林君ってさ、そうやっていっつも私と同じもの選んでた」
「そう……だったっけ……?」
「そうだよ。記憶はなくても、そういう性格って……変わらないんだね。あ、じゃあ店員呼んじゃうよ? いい?」
僕は無言で頷くとともに、考え込んだ。……やっぱり平井さんは、「別人と気づいたので、気を使って記憶喪失という設定を作った」わけではなさそうだ。彼女は、僕が「小林君」だと本気で信じている。そして、僕の「人としての情報」は、彼女の話といくらかかみ合う。……が、「今までの経歴」が全く一致しない。
……どういう……ことなんだ? どう考えれば辻褄が合うんだ?
探偵にでもなった気分だった。だけどあいにく、僕は推理というのが死ぬほど苦手だ。考えれば考えるほどどうでもよくなってゆき、最終的に「平井さんと関りが持てればいい」という結論で落ち着いた。
……そう、記憶がないのだから、真実を知る必要もないのだ。僕がどんな振る舞いをしようが、全て「記憶がない」で片付いてしまうのだから。そう開き直った僕は、何気なく彼女の手元へ目をやった。白くて小柄な両手が、さっきからずっと水の入ったグラスへ添えられている。……その手首に赤黒い痣があるのを、僕はサイン会の時から知っていた。……もちろん理由はわからないし、聞く勇気もない。
「……あのとき、小林君がいなくなってなかったら。私、小林君を選んでたかもしれないのにな」
その言葉にドキリとして、だけど何を言ったらいいのかがわからなくて、……ごまかすように水を飲む僕。
その後、届いた料理を二人で食べたものの、あまり会話は弾まなかった。したとすれば、おいしいね、そうだね……こんな、中身のないありふれたやり取りくらいだった。
当たり前といえば当たり前だけど、記憶がないのだから昔話に花が咲くことなんてない。僕はただひたすら平井さんに見惚れ、平井さんは時折僕を見て微笑んでくれた。……ただそれだけの時間。しかもその笑顔は、やっぱりどこか寂しそうだった。
……きっと、平井さんにとっては退屈な時間だったのだろう。僕は、これが彼女との最初で最後の食事になると思っていた。だから……
「また……会おうよ」
……帰り際に平井さんからそう言われたとき、僕は耳を疑った。しかもやや強引に、連絡先の交換までされてしまう。当然僕は嬉しかったけれど、平井さんが僕に会う理由はなんだろう。半ば放心状態になっていた僕は、ぼんやりとそんなことを考えながら……帰途についたのだった……。