小林彰人①
外側に面した壁が全てガラス張りになっている、白を基調とした近代的な個室のベッドに、僕は横たわっていた。その巨大なガラス窓からは、シンプルなデザインの高層ビルがいくつも並んで見える。この建物もそんな高層ビルの一つで、僕はその九十八階にいた。
……いつの間に、人類の文明はここまで進歩したのだろう。
ベッドの隣には椅子が一つあって、そこには女性が座っている。……僕の、世界で一番大切な人。彼女と目が合い、僕は優しく微笑んだ。そんな僕へ返事をするように、彼女もまた、寂しそうに微笑んだ。
彼女は、業界じゃ知らない人はいないほど、名の通ったトランペット奏者だった。僕は、彼女よりも先に、彼女の演奏に恋したのだ。
中学生のときに吹奏楽部の経験があった僕は、よくオーケストラや室内楽などの曲を聴いて嗜んでいた。特に金管楽器の音が好きで、その中でもトランペットは僕のお気に入りだった。
あるとき僕は、「いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ」という、無駄にシチュエーションの細かい奇抜なタイトルの曲が収録されているCDを見つけた。
僕は単純に、それがどんな曲なのかが気になり、そのCDを購入した。CDには、他にも9曲ほどが収録されていたように思う。僕は家に帰ると、早速そのCDをかけてみた。
……再生されたその音を聞いた僕は、まるで雷にでも打たれたかのような衝撃を受けた。魂へ訴えかけてくるように鋭く、それでいて清く澄んだ美しい音色を放つトランペット……。今までに聞いた音とは、次元が違う。僕は、一瞬でその音の虜となった。一体どんな人間が演奏すれば、こんなに美しい音色が飛び出してくるのか……。咄嗟にケースを拾い上げ、アーティスト名を確認する。
……平井由美。奏者は、女性だった。
僕は、まるで何かに取り憑かれたかのように彼女の事を調べた。歳は僕と同じ、音大を卒業した後の数年間は講師をしていて、演奏家へ転身したのは最近だということが、すぐに分かった。
そしてなにより、彼女は美しかった。彼女の奏でるトランペットの音を、そのまま擬人化したような容姿……。僕は画像検索で見つけた、トランペットを胸の前で掲げて微笑む彼女の写真に見入った。
それからというもの、僕は彼女の演奏が収録されているCDを片っ端から買いあさり、時間の許す限り聴きまくった。もはや、トランペットに関しては彼女の演奏しか受け入れられなくなっていた。
同時に僕は、複雑な感情に悩まされるようになった。もともとは彼女の「演奏」に感銘を受けていたハズなのに、今は「彼女自身」のことが好きになっている気がしてならない。
……彼女の事が好きなのか、彼女の演奏が好きなのか。あるいは、その両方なのだと思う。……仮に、そうだとしても。
……僕は、ただのしがないサラリーマンだ。吹奏楽の経験があるとは言え、彼女に認めてもらえるようなレベルの演奏など到底出来ない。僕にとって彼女は、神も同然の存在……。それに……
……彼女は、既婚者だった。そういう意味でも、決して思いの届かない一方的な恋だった。……アイドルに恋するオタクのようなものだ。
こんな、雲の上の存在に恋をしてしまった僕の毎日は、次第に……辛く苦しいものとなっていった。いっそ、身近な女性と結婚してしまえばこんな気持ちも無くなるだろうと、婚活を始めたこともある。
……しかし、彼女以外の女性に魅力を感じることも無く、膨らみ続ける想いに終止符を打つことは……できなかった。こんなに辛いなら、いっそ死んでしまおうか……。気付けば、そんなことを考えている自分さえいる。ここまで誰かを好きになったのは、生まれて初めてだった。もちろん、恋でこんなに辛い思いをしたのも……。
ちょうどそんな時、彼女の演奏会が近所で開かれることを知った。彼女の演奏と出会って以降、初めてとなる演奏会だ。僕は迷うこと無くS席のチケットを購入し、その演奏会に臨んだ。
彼女の生演奏は、想像を絶していた。巧妙なテクニックもさることながら、そこへ込められた情熱に圧倒された。全てが美しかった。全てが芸術だった。……僕のような平凡な人間が入り込む余地など全く無いのだと、改めて思い知らされた。
演奏会の後には、サイン会があった。そのことを事前に調べていた僕は、彼女のデビューCDを持参していた。……といっても、サインを貰うというのは一種の口実で、本当は生身の彼女に間近で会いたいだけだった。
……会ってどうするのか、という気持ちもあった。別に距離が縮まるわけでもなく、この苦しみから解放されることもないというのに。
……だけど、沸き立つ気持ちを抑えることなどできず、結局僕は、彼女の元へ向かった。
まだデビューしてそれほど経っていないこともあってか、サイン会の規模は想像していたよりも小さかった。それでも、百人近いファンが押し寄せてはいたのだが……。
……恐らく、ここの会場にいる男性ファンの一部は、僕のように彼女への煮え切らない、モヤモヤした想いを抱えているのだろう。もはや、「好きになる」という行為が犯罪的なものに思えてくる。
ずらりと続いていた行列が、だんだんと短くなってゆく。それに伴って、僕の鼓動は徐々に早くなっていった。
前の人たちを観察している限り、彼女がサインを書いて渡してくれるまでの時間は、わずかに二十秒ほど。その限られた時間の中で、どのように彼女の雰囲気を感じ、どのようにその姿を目に焼き付ければいいのか、僕はずっと考えていた。そして……
……はっと我に返ったときには、もう僕の番になっていた。
僕は震える手を押さえながら、持参したCDを彼女へ手渡す。最初は彼女を直視することもできなくて、サインを書くために少し俯いている彼女のつむじの辺りを、ぼんやりと眺めていた。
吸い込まれるように黒い、艶のある長い髪の毛……。全体的に、ゆるくウェーブがかかっている。その黒と対比するように白い素肌が美しく、そして、周囲には甘い花のような香りが漂っていた。
……僕は、そんな彼女へ話しかけることすら許されない。僕たちは所詮、彼女がサインを書き上げ、それを受け取るというだけの関係。
マジックのキャップを閉める「パチン」という音が、この至福のひとときの終了を告げた。彼女はCDを両手にもって、「有り難うございました」という言葉を添えながら、僕にそれを差し出した。
その時に初めて、彼女と目が合った。柔らかい笑顔がまぶしくて、僕はスッと目をそらしてしまう。……その後で、ふと思った。確かに彼女は笑顔だったけれど、……どこか少し、寂しそうだったな、と。
「あの……」
そんなことを考えていたせいで、僕は彼女に話しかけられていることに全く気がつかなかった。次の人もいるからと、CDを受け取った僕はすぐにその場を離れようとする。すると……
「ちょっと待ってください!!」
……濁りの無い美しい声が、僕を呼び止めた。その声が僕に向かって放たれたものだということを、なかなか理解できなかった。振り向いた僕に彼女が目を合せてくれたことで、ようやく受け入れる。
「すみません、その……。えっと、私のこと……見えてますか?」
特に冗談を言っている様子も無く、僕にそう問いかけてくる彼女。僕には、その真意が全く分からなかった。
「えっ……、見えて……ますけど……?」
戸惑いながらも、とりあえずそう答える。すると今度は、ハッキリと寂しそうな表情を刹那的に見せてから、彼女は……信じられない一言を口にしたんだ。
「……あなたもしかして、小林彰人くん……じゃない?」
……あり得なかった。確かに、僕の名前は「小林彰人」だ。だけど、……彼女が僕のことを、知っているハズが無い。恐らくというか、同姓同名の人違いで間違いなかった。……なのに。
「はい、確かに小林彰人ですが……」
「やっぱりっ……!! あの、この後って……時間あったりする……?」
「あります……けど……」
「……じゃあ、夕方6時に、ここで会おう……?」
……人違いじゃないですか? ……この一言を、僕は言えなかった。そうしているうちに話が進み、彼女から小さなメモ用紙を一枚渡された。そこには、お店の名前と住所が書かれている。
僕はメモ用紙を受け取ると、「じゃあまた夕方!」と小さく手を振る彼女の前から……立ち去った。……立ち去ってから、酷い罪悪感に襲われた。彼女と話したくて、彼女の知っている「小林彰人」のフリをしてしまった。百歩譲ってまだ名前が同じだったから「嘘」は吐いていないけれど、これが違う名前だったとしても僕は「そうです」と言ってしまっていただろう。……本当に、自分はクズだと思った。
まぁ、話を始めれば僕が別人だということにすぐ気がつくはずだ。そしたらその時に謝ろう。……そう軽く考えて、僕はその日、約束の店へと……足を運んだのだった。