別の惑星
『どうも初めまして、神様です』
『この手紙を読んでいるとき、私はもう生きていないでしょう』
『ええ、私は死んでいます。神ですが、自殺しています』
『なぜかというと、本来死ぬはずではなかった貴方を、私は間違えて殺してしまったからです』
『というか、貴方を間違えて殺してしまったことを、上司や先輩や親戚や恩師や最高神様に咎められたからです』
『一応、私は貴方に何かの償いをした後、さらに罰を受けねばなりません』
『貴方を殺したことを悪いとは思っていますし、何かの償いをしなければならないことはわかっています』
『ですが、私は耐えられません。貴方に償いをした後には、もう監視下に置かれて自殺さえできないでしょう。なので、貴方に会う前に自殺することにしました』
『貴方は日本ではなく、地球でもなく、どこか別の世界で生きてもらうことになります』
『貴方には伝説の武器だとか道具だとかを、ランダムでお渡しします。それを売るなりなんなりすれば、きっと遊んで暮らせるでしょう』
『我ながら無責任だとは思いますが、これが衰弱した私にできる精いっぱいの償いです』
『さよなら』
※
「死ね」
戦船銀鉤。ごく普通の日本男子であり、高校生である。
その彼は、目が覚めると見たこともない部屋で、ベッドで横になっていた。
混乱しつつも枕元に置いてあった手紙を読んで、状況を把握していた次第である。
間違えて殺してしまったことに対して、自殺して責任をとるというのは正しいのかもしれない。しかし、ある程度の責任を果たしてから自殺してほしいところであった。
「っていうか、どこにあるんだよ、伝説の武器は」
ベッドで寝かされていた、というのはありがたくはある。しかし、周囲にそれらしいものは何もなかった。
というか、どうやら異世界へ転生したらしいのに、一切ファンタジー要素がない。
ベッドはとても清潔で、どう見ても手作りではなく工業製品だった。おまけに、羽毛などの天然素材ではなく人工の素材でできている。
部屋の中を見回しても、どこかのモデルルームかと思うほどにシンプルな内装だった。
絨毯があるわけでもないし、ランプがあるわけでもないし、暖炉や囲炉裏もない。
木や土などなく、プラスチックだとかカーボンだとか、工場で生産されたであろう物で部屋そのものが構成されていた。
ベッドがあり、机があり、スタンドライトがあり、そもそも天井にはLEDらしき照明がある。
服を入れる収納スペースや本棚などもなく、それこそ必要最低限の物だけある『新居』という感じだった。
「なんにもねぇじゃねえか……」
というか、そもそも異世界なのかあやしい。はっきり言って、近未来嗜好の部屋です、という感じで『異世界らしさ』がまるでないのだ。
部屋の中に、エクスカリバーだとかグラムだとか、そんな感じの伝説の武器はない。仕方がないので、部屋の外に出ることにした。
部屋の外へ出る扉も、普通に触ると開くタイプの自動ドアだった。
「ある意味、SFも異世界だけどさあ……」
別に異世界転生したいと切望していたわけではないのだが、どうせならある種スタンダードな世界がいい、と思わないでもない。
というよりも、SFの世界で伝説の武器なんぞ手に入れたところで、カネに替えることもできないし有効活用できるとも思えないからだ。
それにSFの世界ということは、自分は原始人のようなものである。部屋を出るときに自動ドアにしても、百年ほど昔の人間なら何が何だかわからずにパニックを起こしていた可能性がある。技術の進歩をよく知っている日本人だけに、未来の技術に囲まれて生きていくのはごめんだった。
ある意味快適かもしれないが、それなら日本でもよかったはずである。
「というか、本当に人がいないな……なんでだ?」
ドアの大きさやベッドの大きさからして、この建物は人間が暮らす大きさに設定されている。もちろん人間と同じ大きさなら他の生物でもいいのだろうが、それでも人がいなすぎる。
部屋を出ると、そこは廊下だった。窓もなく、ただ自分が寝ていた部屋と変わらないであろう部屋のドアが並んでいる、マンションの廊下のような通路だった。おそらく、本来はたくさんの人が通るであろう道のはずが、誰もいない。それはどうしても不気味で、恐怖を駆り立てるものだった。
「誰かいませんか~~!」
べたべたなことを言いながら、彼は廊下をとぼとぼと歩いていく。
流石に自分が寝ていた部屋以外のドアを開けようとは思わなかったが、それでも廊下を歩いていくうちにそうしてもいいような気がしてきた。
というか、とんでもなく通路が長い。団地というレベルではなく、通路の双方に備えられているドアの数はざっとでも百を超えているのではないだろうか。
ホテルだとしても、一階分だけで百も部屋をそろえるわけがない。普通に階層を重ねればいいだけのはずだった。
「……まさか」
猛烈に、嫌な予感がした。
生命が危機に瀕するとか、そういう恐怖ではない。ただ、なんとなく好みと違う展開になりそうだとか、そんな感じの恐怖だった。
たとえるなら、買ったマンガが思っていた方向と違って、しかもそんなに面白くなかったとか、そんな予感がしていたのだ。
「おいおい……まさかまさか!」
彼は走り出していた。
そして、ついに廊下の末端にたどり着き、そのうえでそこにあったドアを開く。
その扉の先には電話ボックスほどの大きさの部屋、淡く光る床だけがあって……それを踏み込むと……。
視界が、一気に切り替わっていた。
『おはようございます、艦長』
ワープしたのだ、と直感的に理解した彼は、腰を抜かして『座り込んで』いた。
おそらく、艦長の座る席であろう場所にワープした彼は、深く椅子に座りこんでいたのだ。
『鬼神級魔導艦『玄武』、現在正常に飛行中です』
一般にRPGといっても、一切のSF要素がない、というゲームばかりではない。
むしろ現実以上に発展した科学技術が存在し、それを舞台にしたゲームもある。
加えて、すべての『伝説の武器、道具』が装備できるものとは限らない。
例えば、ゲームの最終盤に入手できる飛行可能な船というものも、場合によっては伝説の武器や道具にカテゴリーされるだろう。
『艦長、オーダーを。玄武は如何なる命令にも従います』
下手をすれば、ダンジョンとして攻略されるべき広大な船でさえ、入手できたかもしれない。その可能性を、彼は引き当ててしまっていたのだ。
※
『当機は一万年前に空中都市アレクサンドリアにて製造された、四隻の鬼神級魔導艦の中の一隻です』
『他の三隻はすべて経年劣化などにより、完全にロストしております。当機のみが完全に正常な状態を保っているのか、なぜアレクサンドリアの市民ですらない艦長をマスターと認識しているのか、すべて説明できません』
『ですが、当機は与えられたプログラムに従い、貴方を主と認めたうえで今後航行します』
『何なりとご指示ください』
「いきなりそんなことを言われても……」
これが空中戦艦なのか普通の船なのかも怪しいが、とにかく移動機能があることは確実のようだった。
しかし、こっちはワールドマップはおろか、この船から一歩も出ていない。
そんな状況でどこかへ行きたい、などといえるわけもない。
思考を一旦停止させ、背もたれに体を預けて天井を見る。
そこまで高くない天井には、やはり照明が存在して自分を照らしていた。
「……この船に、俺以外の人間はいるか?」
『現在、搭乗員は艦長ただ一人です。当機は自動運転も可能なため、航行に支障はありません』
一番気になることを、とりあえず聞いてみる。
その内容がいいのか悪いのかは、まだわからない。しかし、少なくともこの船の中で人を探すのは無謀なようだ。
そのうえで、今いる部屋の中を改めて見回す。
どうやらこの船の操縦席、というかブリッジらしき部屋の中には、自分が座っている椅子の他にも多くの席とモニターが存在していた。自分の目の前のモニターも含めて、すべて白くなっている。おそらく、電源は入っているが映像がない、ノーシグナルとかそんな状態なのだろう。
たくさんの席があるのに、自分しか座っていない。それは孤独さをどうしようもなく助長していた。
「……この近くに、人はいるのか?」
この近くに敵はいるのか、という意味も込めた質問だった。もちろん、主な思惑は寂しいので周囲に人がいないのかを知りたい、という思いだったが。
『現在、当機周辺に人間の生体反応はありません』
「そうか……じゃあどこまで行けば人間の住む土地につく?」
実際に行くかどうかはともかく、人間のいると力どれぐらい離れているのかを、とりあえず聞きたかった。
『当機は現在月面に着陸しております。母星へ帰還せねば、人間と接触することはできません』
「はあ?! 月面だと?! ここ、月なのか?!」
『左様です』
おそらく、和製RPGなら最終局面か、あるいはその手前あたりで到達する場所である。
地球人類でも足跡を残すのがやっと、という近くて遠い星。それが月なわけである。
地球という言葉がない異世界でも、月は大抵存在する。二つあることもないではないが、とにかく普通の手段では到達できないはずだった。
それこそ、ワープでもするか最終盤で手に入る空中戦艦でも使わない限り。
「これ宇宙戦艦なのかよ……」
『宇宙を航行可能な戦闘機能を持つ艦、という意味では適切です』
これはもうワールドマップどころの騒ぎではない。月面など、普通のRPGならワールドマップの外側である。なんでいきなりワールドマップの外側から話が始まるのだ。
「その……月面都市とか、そういうのはあるのか? ああ、人がいないんだったな。だったら遺跡でもいいけど」
『アレキサンドリアでは月面に入植する計画もありましたが、少なくとも当機の周辺にそれらしいものは存在しません』
「ああ、うん、わかった……じゃあなんで月面にこの船があるんだよ」
『不明です』
とにかく、状況は確定していた。
「周囲に敵はいるのか?」
『敵性体は現在定義されておりませんが、動体反応は一切ありません』
最悪中の最悪、つまりはいきなりモンスターに囲まれました、なんてことは一切なかった。
もしかしたら今の『母星』とやらでは人類が存亡の危機に立たされているかもしれないが、少なくとも今の彼に一切の脅威は存在しない。
「ああ、あれだ……酸素とか水とか食糧は?」
『問題ありません。月の魔力を集めることによって、半永久的に供給が可能です』
「そうか……」
いよいよもって、なんの問題もなくなってきた。
この船に搭載されている人工知能的な何かが正しいのなら、それこそこの船から一歩も出る必要さえない。この船を動かす必然性も、一切ない。
「ニートじゃん……」
そう、これでは完全にニート生活が可能だった。
一切の労働が不要で、金銭も不要で、好き勝手に暮らすことができる。
娯楽の問題は存在するが、少なくとも生存は全面的に保証されていた。
「少なくとも……スローライフじゃねえよ」
この状況で、優雅かつ気ままな生活ができるほど彼は異常ではない。
この状況でくつろげるのは、それこそよほど人間関係を嫌っている者か、あるいは月の旅行にあこがれている者だけだろう。
少なくとも、ここが月面だという事実を認識しただけで、彼は圧迫感や閉塞感、あるいは息苦しさを感じていた。板子一枚下は地獄とは言うが、彼の場合は宇宙船に乗っているとはいえ、月面にいるのだ。それこそ、隕石でもぶつかって壁に穴が開けば、そのまま一気に窒息死である。
極限状態における、精神的な限界。はっきり言って、なんの訓練もされていない日本の子供が、月面にある宇宙船の中へ一人だけでいて、まともでいられるわけがない。
「……なあ」
そのうえで、同時に楽観や願望もあった。
もしかしたら、今自分が置かれている状況は、そこまで悪くないのではないかと。
つまり、何かの間違いではないのかと。
「なあ、この船に宇宙服ってあるか?」
ちょっと確かめてみたい。
そんな安易な発想が脳裏をよぎったとしても、さほど不思議ではないだろう。
※
「これが宇宙服か……思ったよりも本格派だな」
『船外活動には、この宇宙服を推奨します』
玄武の内部は重力制御されているらしく、月面でも地球と変わらない活動が可能だった。
しかしそれは、彼にとっては自分が本当に月面にいるのかを疑わせるものだった。何から何まで『魔法です』と言われれば、納得できるわけがない。
いいや、ここが異世界でも月面でもないのだと、彼は信じたいのだ。これがどっきりであってほしいと思い、嘘であることを確かめるために『外』へ出ることを彼は選んでいた。
ブリッジからふたたびワープし、船外活動用の装備がある『第三小型格納庫』に赴いた彼は、人工音声の指示に従って宇宙服を確認していた。
宇宙飛行士になりたかったわけではないが、教養というか常識として宇宙服を知っている銀鉤は、自分とサイズが合うらしい魔法の宇宙服を見て生唾を飲む。
「てっきり魔法でバリアでもはるかと思ったんだが……」
潜水服と変わらない、着ぐるみのようにもっさりとした外観。ヘルメットの顔部分は、過酷な宇宙線から目を守るためにやや黒くなっている。
背中には酸素ボンベらしきものまであり、持ってみると重量もしっかりとある。
偽物である、というにはあまりにも本格的だった。
「これで……月に行くんだよな」
嘘に決まっている、誰かが自分を騙そうとしているのだ。
そう考えつつも、置かれている状況が本当であると信じかけている彼は、一気に不安になってきた。
なにせスキューバーダイビングもスカイダイブもバンジージャンプも未経験な、一般的な日本の高校生である。
いきなり宇宙遊泳、どころか月面へ一歩を踏み出すのだ。真空の恐怖を知る日本人として、そうそう軽々に表へ行けるわけもない。
「いやいや、どっきりに決まってる!」
どっきりに決まっているのなら、それこそ宇宙服など着る必要がない。
そもそも、この小型格納庫へのワープも、彼の知る科学技術では不可能なことだった。
だが、それでも自分で確かめる。
なんでもできる、どこへでも行ける。
そういわれたからこそ、彼は最初の一歩を自分の足で踏みだそうとしていた。
「これでいいのか?」
『気密を確認しています……問題ありません』
今までは艦内放送として、壁などに取り付けられているスピーカーから話しかけていた人工音声が、宇宙服のヘルメットに内蔵されているイヤホンから返事をしていた。
当たり前だが、この船の外に出れば耳元から話しかけるつもりらしい。
『月面では、船外活動用の魔導車をご利用ください。船外活動服でも気密は保てますが、天文学的な確率によって隕石などが直撃した場合、即死は免れません。魔導車の付近なら結界によって保護されます』
「バリア付きの車かよ……」
格納庫の中にあった、かなり大きめの装甲車がライトアップされる。
宇宙船の中にいるので今更だが、人生で初めて車を運転するのが月面というのは人生わからないものだった。
「……俺、免許ないけど」
『半自動で運転が可能であり、危険を察知すれば停止します。月面は公道ではありませんので、講習などを受ける必要はありません』
「アレキサンドリアってのも、意外と常識的らしいな」
軽口をたたきながら、重い宇宙服に入ったまま車へ歩いていく。
六輪の装甲車のドアにカギはなく、内部でも車を運転するためのカギ穴もない。
半自動というだけあってブレーキやアクセルらしいペダルを踏んでも動かず、ハンドルもロックされているようだった。
宇宙服越しで車に乗り込んでいることもあって、まるで遊園地の玩具に乗り込んでいるようだった。妙に恥ずかしいような、意外と楽しいような。そんな、微妙な心境だった。
『シートベルトをご確認ください』
「本当に常識的だな……」
『この船外活動車は幾多の保護機能によって搭乗者を守っていますが、万一に備えてシートベルトの着用をお願いします』
「ああ、うん。わかったよ……」
『艦内では自動運転ですが、船外では半自動運転に切り替わります。しばらくお待ちください』
着ぐるみを着ているような感覚でシートベルトを装着するにも苦労したが、なんとか準備を終えて両手でハンドルを握る。
すると、車は音もなく勝手に動き出していた。
ある意味当たり前だが、ガソリンエンジン車ではないらしい。バッテリーなのか魔法なのかわからないが、車の駆動に内燃機関は使用されていないようだ。
格納庫の中を徐行運転している船外活動車にのっていると、まるでジェットコースターに乗っているような気分になる。シートベルトも併せて、絶叫マシンそのものだった。
もちろん、ここが本当に月面なら、いかなる絶叫マシンよりも危険な世界なのだが。
「……」
『格納庫内のワープゲートを通って、船外に移動します』
自分がここへ来るときに使った人間用のワープ装置ではなく、それよりもさらに大きい車両用のワープ装置が起動していた。
その上に乗り込むと、一瞬で視界が切り替わる。
同時に、まるで急降下したかのような感覚が内蔵などを襲っていた。
「うおっ?!」
『船外に出たため、月面の重力に切り替わりました。問題ありませんので、ご安心ください』
フリーフォールのような急降下する絶叫マシンでは、一瞬だけでも重力が軽減される感覚を味わえる。
それが持続するという矛盾に、動悸が早くなり、呼吸が荒くなる。
「ひっ……ふっ……はっ……!」
『バイタルに軽い異常……生存に問題ありません』
「あっ……!」
汗が、震えが、吐き気が止まらない。
宇宙服のヘルメットと、船外活動車のフロントガラス越しに見る『外』の風景は、ある意味普通だった。
船外活動車のフロントライトによって照らされている、真夜中の砂漠。
やや白い砂と岩しか見えない、限られた視界。
それだけならば、ここが地球だと思い込むこともできた。
だが、全身に襲い掛かってくる『軽減された重力』が、目に見えない説得力を持って自分に異常を教えていた。
気密服や船外活動服でも、月面の重力から彼を遮断することはできない。
その異常が、彼に現実を教えていく。
『現在、半自動運転に切り替わっております。どうぞ、ご運転ください』
自分の鼓動だけが、船外活動車のモーターらしき振動だけが、音となって耳に響いてくる。
それ以外の、一切の音がない。
おそらく、この船外活動車の壁を起点として、あらゆる『空気』そのものが存在しない。
空気がない以上、空気の振動である音が、鼓膜に伝わるわけもない。
極地、孤独。
魔導の力によって生命なき世界で生存を許されている彼は、涙を浮かべながら人工音声へ語り掛ける。
「地球だ……母星が見たい……」
『承知しました、ナビゲート致します』
ヘルメットそのものに、半透明な矢印が表示される。
それに従って、思考を放棄して、銀鉤はハンドルを左右に傾け、アクセルを踏み込む。
交通ルールも人工物もないため、呆れるほど単純で簡単な自動車の運転。
にもかかわらず、彼の歯の根はまるで落ち着いてくれなかった。
緊張と恐怖から、全身が冷え切っていた。
『体温の低下を確認、船外活動服内部の温度を上げます』
「うう……ああ……うう」
夜の砂漠を、どこまでも進んでいく。
いったいどれだけの速度で、この車が走っているのかもわからない。
月面のクレーターや裂け目をよけながら、船外活動車は月の砂漠を駆けていく。
時折、軽く車体そのものが浮き上がる。
この車が軽くなったのではなく、先ほどまでとは重力が異なっているのだと、否応なく銀鉤に教えていた。
『ほどなく、『昼』の部位に到着します。遮光度を上げますので視界が一瞬暗くなりますが、眼球や顔を保護するためですのでご了承ください』
「うう……ううう……!」
暗くなる、涙でにじむ視界。
もう帰りたい、先ほどまでの重力に戻りたい。
そう言いそうになりながら、それでも銀鉤は前に進むしかなかった。
そう、ここまで来て変えることの方が、むしろ恐ろしかった。
「あああああああ」
『昼の部位です。母星も目視可能になりますので、どうぞご覧ください』
フロントガラスの向こうに、明るい地面が見えてきた。
この世界ではどうだか知らないが、地球では月の自転は地球よりも遅く、よって『一日』がとても長い。
だからこそ太陽の光が届く昼と届かない夜は、なかなか切り替わらない。
そんな、ちょっと天文学に興味のある小学生なら知っていそうなことを、銀鉤が知っているかはわからない。
しかし、彼の視界には『地球』が、あるいは『青い星』が映っていた。
皮肉にも、ここが地球なら絶対に見ることができない光景だった。
「く」
ヘルメットを、ハンドルにぶつけていた。
もちろん、クラクションなど鳴らない。
「車の外に出たい……出られるか」
『了解しました、車内の気圧を調整しますので少々お待ちください』
ゆっくりと、着こんでいる宇宙服が膨らんでいる気がした。
船外活動車の中に満ちていた空気が、排出されているのか別の場所に圧縮されているのか、とにかく宇宙服の『外』は真空に近づいていくようだった。
『どうぞ、車外へ出てください。周辺に危険な地形はありませんので、どうぞ船外活動を』
ある程度の、恐怖と楽観。
飛行機の離陸時に、シートベルトを外していいと放送されるときと同じ種類の緊張が、数千倍となって彼に襲い掛かる。
それでも、ほかにやり様がないからこそ、彼は宇宙服越しにシートベルトを外した。
そして、冬の寒い日に家のドアを開ける前と同じ種類の、しかし比べること自体が間違っているほどの倍率の恐怖に耐えながらドアを開けた。
当然、何の音もない。
宇宙服越しに振動が伝わってくる程度で、銀鉤の耳には何も届かない。
「あれが……この世界なのか」
前には、星がある。
この月と違って、生命が満ち溢れた星がある。
「望遠鏡があれば……」
『映像を拡大します』
月から見る『母星』は、青く丸い星ではない。
地球から月を見たとき同様に、暗い部分と明るい部分で満ち欠けをする。
近くも遠い、青い星。それがヘルメットの内側で拡大されていた。
「違う……」
ヘルメットの内部で拡大された映像ではあるが、『ワールドマップ』はまさに『地球儀』とは明らかに異なっていた。
国境などがわかるわけもないが、少なくとも大陸の形が明らかに違う。
地球儀をどんな角度でどう見たところで、目の前の母星とは明らかに異なっていた。
「ここは、あの星は……この星は、本当に地球じゃなかったのか……」
月の大地に足跡を残しながら、ふらふらと膝をつく。
自分が正真正銘独りぼっちだと認識した彼は、大気のない世界で悶えながら泣きじゃくった。