赤信号
千堂は、食品がたくさん詰まった袋を抱えながら、信号の色が青に切り替わるのを待っていた。もう夜の十一時を回っているからか、車通りはほとんどなかった。ふと、後ろから誰かが歩いてくる気配がして、身構える。深夜、暗い通りで、女性一人というシチュエーションは、なかなかに危険だ、と彼女は思う。自意識過剰ではないはずだ。百人に聞いたら九十六人は危険だ、と言うのではないだろうか。もちろん、千堂もその九十六人のうちのひとりだ。
しかし、近づいてきたその人は、何をするでもなくそのまま千堂の脇を通り抜けていった。歩行者用の信号が赤であるにも関わらず、ずいずいと横断歩道に歩を進めていった。なんのことはない、ただの信号無視の通行人だったのである。
こちらが律儀に信号を待っているのに、無視するとは。などといった苛立ちは、特に生じるわけではなかった。別段急いでいるわけでもない。信号を待っているだけの余裕ぐらいは、ある。むしろ、その信号無視の通行人——仕事帰りのサラリーマン風の中年男の心の余裕のなさを、どこか哀れむような気持ちすらあった。この近所のサラリーマンならば、自分の喫茶店に来たことがあるだろうか、などと思いを巡らすが、彼の後ろ姿に見覚えはなかったし、正直どうでもよかった。
千堂はその男を何を思うでもなく見ていたら、向こう岸に、鮮やかな色がふらり、と現れるのを見た。白に近い金髪の男が、いつの間にかそこに立っていた。なるほど、髪色が鮮やかだと、暗い中でも判別しやすいな、など何となく考えていると、その金髪男が、サラリーマン風の信号無視男に、何やら声を掛けた。男は明らかにギョッとした風だったが、すぐに居直った様子で、金髪男と低い声で何やら言葉を交わしていた。
接点があるような二人には見えないが、一体どういった関係なのだろう。親子、とかなのだろうか。などと考えていると、千堂には段々、信号待ちの時間というものが楽しいものに思えてくる。
千堂が脳内であれこれ憶測を交わしていると、突然、信号無視男が大きな声を出し、そのままの勢いで、金髪男の頬を殴り抜いた。千堂はギョッとする。突然どうしたのだろうか、と不安になる。
「ああ、やっちゃった」
これもまた突然に、千堂の背後から声がした。千堂は再びギョッとし、後ろを勢い良く振り返る。
長身の、またもやサラリーマン風の男が無気力な感じを醸し出しつつ、立っていた。目が合うと、罰が悪そうに「あ、すみません」と軽く頭を下げた。
千堂もいぶかしげな表情を崩さないままつられて頭を下げた。そして数秒後、この男が見覚えのある男だと気付く。よく自分の喫茶店に来てくれる常連の客だった。
「ああ」
向こうも同時に気付いたようで、会釈のつもりなのか、先程と同様の角度だけ頭を下げた。つられて、千堂も頭を下げる。「どうも」
「あ」
男が千堂の肩越しに、向こう側を指差した。千堂は、振り返る。
今度は、逆に金髪男が信号無視男を殴っていた。しかも、何発も。信号無視男は倒れ込み、金髪男が馬乗りになる形で殴っていた。
「そりゃあ、そうなるわな」千堂の背後の長身男が、呟いた。
そりゃあ、そうなるわな。金髪の若者に中年サラリーマンが喧嘩を売ったら。百人いたら九十七人は同じことを思うだろう。千堂も、長身男も、それぞれ、その九十七人のうちのひとりだった。
「どうしたんですかね」
半ば、独り言のように千堂は呟いた。一応、長身男に投げかけた言葉だった。答えが返ってくることは期待していなかったが、予想外なことに、長身男は「なんか」と答え始める。いつの間にか、長身男は千堂の隣に立っていた。
「金髪の人がおじさんに注意して、それが気に食わなかったおじさんが喧嘩売ったみたいです」
「え」千堂は呆れた表情を作る。「……一体何を注意したんですかね。その金髪の人は」
「信号ですよ」
長身男はニヤニヤした顔をして対岸を見つめ、「あ、俺、耳が良いから聞こえてたんです」と言い訳のように補足した。
「へえ」千堂も、知らず知らずのうちに笑みをこぼしていた。「信号、ですか」
信号を守らない人が許せない金髪男。不良らしき若者に喧嘩を吹っかける中年。異色の組み合わせだった。
「それにしても、耳、いいんですね」千堂は感心して言い、私は全然聞こえなかった、と付け足した。
「いいんです。耳だけは」
少しすると、金髪男は殴るのをやめた。それほど強く殴っていた訳では無いようで、何発も殴られていた割には、中年男に意識はハッキリとあるようだった。千堂達に見られていることに気付いてか、金髪男は足早に去って行った。
「警察とか、呼びますか」長身男は、大して感心の無い様子で言った。
「あ、そうですね」と相槌を打ってから、千堂は、自分に全くそういった発想がなかったことに驚いた。中年の男が若者にボコボコにされているのを見て、ただ平然と、さらに、どこか愉快な気持ちで見ていた。もしかして、最近話題の、サイコパスというやつなのかもしれない、と自分自身が恐ろしくなる。
「あのー、大丈夫ですか?」長身男は、横断歩道の向こうに呼びかけた。
中年の信号無視男は、千堂達に気付くと、恥ずかしそうに身を竦め、身を払いながら起き上がった。片手をあげ、大丈夫です、のポーズを作りながら、これもまた足早に去って行った。完全に酔いは醒めた様子だった。
「あれ、結構大丈夫そうだ」千堂は思ったままのことを口にした。「タフなのかな。相手の金髪の人が軽く殴ってただけなのかな」
長身男は、そうですね、とじっくり考え込むポーズを取った。「どちらの可能性もありますね。あのおじさんが、元ボクサーなのかもしれないし、あの不良みたいな方が激弱なのかもしれない」
千堂は、真面目に考え込む目の前の長身男がなんだか可笑しくて、吹き出してしまう。よく見ると、だいぶ若く見えた。もうすぐ三十を迎える千堂よりは、年下であることは間違いないように思える。
「なんですか」長身男は怪訝そうにこちらを見た。
「いえ、すいません」笑いを抑えたものの、笑顔は消えていなかった。
「最近、人に笑われることが多いです」長身男は不服そうな顔をした。
「……そうなんですか」
と、ここで、千堂は大きな違和感を覚える。「あれ?」
「どうしました?」
「いや、思ったんですけど、信号、長過ぎませんか」
「ああ」長身男は面食らった顔をした。忘れていた、というふうに慌てて、信号機を見る。「長いですね」
そしてすぐに、「あ」と声を上げて、指差す。千堂は彼の人差し指の方向に、目を向ける。
「あ」千堂は、おかしくなって笑ってしまった。「夜間押しボタン式」
「夜間押しボタン式」
ここで、初めて長身男は笑顔を見せた。「今、そういえば夜間ですね」
「ですね」
たまたま近くにいた千堂が、ボタンを押した。青く灯っていた自動車用信号機が黄色に変わり、程なくして、赤色に変わる。そしてすぐに、歩行者用信号機が青色に変わった。
「こんなにも早く」長身男は肩を竦めた。「待ってたのが、馬鹿みたいですね」
「じっさい、馬鹿ですよ」
「ですね」
信号が変わるのも早ければ、横断歩道を渡り切るのもまた、早かった。大した会話もしないまま、遠くに感じていた向こう岸にあっという間に辿り着いた。
「じゃあ、私、こっちなんで」
「ああ、はい、そうですね」軽く頭を下げる千堂に、長身男も軽く頭を下げた。「それじゃあ」
別れると、途端に千堂を眠気が襲った。疲れていたのだろうか、と自分自身に問う。
「あの、千堂さん」ふと、千堂の背中に声が掛けられた。長身男だった。特に返事はせずに、振り向く。
長身男の背後に半月が煌々と輝いていて、なかなか画になっていた。
長身男は逡巡しているような様子を見せ、少しの間沈黙する。
千堂が催促するように首を傾げると、彼は「あ、いや」と慌てた声を出した。
「……あの、明日って、お店やってますか?」
千堂は、一瞬間を置いた後、「あ、やってますよ」とだけ答えた。
「そうですか。いや、そうですよね」
眠くて目がかすんでいたからか、千堂には長身男の表情がよくわからなかった。
とりあえず、早く眠りにつきたい。それだけを思って、千堂は長身男に背を向けた。