バス
「バス、遅いですね」
「遅いですね」
一条は時計を見た。時刻表の時刻を五分過ぎている。五分程度で遅いというのもおかしいかな、と独り言のように呟くと、須天は、
「普段はこのバスは普段は必ずピッタリに来るんですけどね」
とさも不思議そうに答えた。そうなんですか、と相槌を打つと、そうなんです、とまたもや元気よく返事が返ってくる。
「寒いですね」
今度は須天が同意を求めた。一条が見ると、彼女はまだ幼さの残る仕草で、マフラーに顔を埋めている。
「寒いです」
一条もまた、不器用な手つきで、紺のマフラーを恐る恐る引き上げた。そんな一条を見て、須天はクスリ、と笑った。
「……なんですか?」
「いや、なんか、首長族っぽいな、と思って」
え、と一条は苦笑した。「首長族ってあの、東南アジアとかで、首を伸ばしてる部族のことですか?」
一条は、マフラーから手を離した。
「そうそう。それです。金の輪っかみたいなものを首にたくさんつけてる人達です」
「なんでまた」
「なんか、一条さんって、なで肩じゃないですか。なで肩だと、首、長く見えるじゃないですか。で、今マフラーを、引っ張って、首を、きつく覆っちゃったんで、もう。それにしか見えなくて」
須天は自分で話しているうちにどんどん面白くなってしまっているようで、最終的には息も絶え絶えといった様子で、なかなかに聞き取り辛かった。
「そうですか」一条ははにかむ。
部下を持つということに慣れていないため、この天真爛漫な部下に、少々持て余し気味なところがあった。居心地の悪さに、無意識のうちに、時計を見る。
「そうですよ」やっと落ち着いてきた様子の須天が、道路を見た。「それにしても。遅いですね、バス」
そう言った後、一条を見たと思えば、また、笑い出した。
「え? 何? 何ですか?」
「え、いや。だって……」須天は再び途切れ途切れに言葉を紡ぐ。「何で私が笑ってる間に、マフラー直してないんですか? 首長族、だって。言ってるじゃないですか」
「あ、ああ……」うっかりしていた、と一条は慌ててマフラーを触る。いいじゃないか、首長族だって。首長族を馬鹿にしちゃいけないぞ、などと思いつつ、慣れない手つきでマフラーを緩めようとする。
「あ、いいですいいです。私がやります」
須天は笑いながら一条の正面に立った。途端に、ふわっと軽く、明るい香りが、一条の鼻孔を刺激する。
ちょうど彼女の目の位置に一条のマフラーは存在し、一条は茶色がかった須天の頭部を見下ろす事ができた。須天は、慣れた手つきでふわふわとマフラーを軽くしていく。
「これでどうだ!」
須天はおどけてはしゃいだような声を出した。一条の返事を聞く前に、うんうんいい感じいい感じ、と頷いている。
「少しだけ、寒くなった気が」
「そりゃ、そうでしょうね」須天は事もなげに答えた。緩めたんだから、と続ける。そして、一条の目を見上げた。「でも、こうやって正面近くから見ると、いい感じですよホントに。一条さんスタイルもいいし、今流行りの塩顔だし」
「……塩顔……?」
「塩顔知らないんですか!? まあどうでもいいですけど」須天は一条の正面から移動しようとしない。「いい感じですよ一条さん。モテますよ」
「モテないですよ」
見上げてくる須天から溢れ出るエネルギーのようなものに圧されて、しかも思いの外距離が近くて、一条は目を逸らしていた。逸らした先には、バスがあった。
「あ」モテますって、と口を尖らせる須天を遮り、一条は声を上げた。「バス」
須天もそちらの方向を見た。「ああ、バスですね」
「バスです」
同時に、バスが停車した。
「乗りますか」
「乗りましょう」
二人は静かにバスに乗車した。昼間だからか、乗客にはお年寄りが多くて、線香の香りがする。
「もう少し遅れても良かったのに」と須天が普段の三分の一ほどの声量で呟いた。
一条は彼女の横顔を見つめ、溜め息を吐く。
俺、耳が良いからそういうのは聞こえるんだよな。一条は声にならない声で呟き、バスのつり革に掴まった。