お爺ちゃん!魔王なら昨日倒したでしょっ!!
「ほっほ。もう一度、お名前伺えますかのう」
杖をついたよぼよぼの老人が、言った。
「魔王だ」
地を這うような、不吉を全て詰め込んだような、闇を彷彿とさせるような、聞くだけで身を伏せたくなるような絶望的な声が、豪華絢爛な広間に響き渡る。
「ははあ、それはそれは。魔王さんですか。では倒さねばならんのう」
人のよさそうな老人は曲がった腰を少し伸ばし、霞むのか目をしばたたかせながら、魔王と名乗るものを見る。
「ばあさんの遺言じゃて、いきますぞい」
老人はうれしそうに笑い、手に持つ杖を掲げて構える。
杖の先で光がきらめき、次に轟音が轟き、暴風が吹き渡り、そして、魔王は跡形もなく吹き飛ばされた。
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「明子さんや、もうそろそろ朝餉は出来ますかのう」
対面キッチンの向こうから、義父が尋ねてくる。
これで三度目だ。
「さっき食べましたよ、お義父さん」
うんざりした様子を隠そうともせず、明子は答える。
料理好きの明子がしつこく信夫に頼んでつけてもらったこのシステムキッチンには、オーブンと食洗機が備え付けられていて、コンロも4口ある。
様々なカタログを見比べて選び抜いた、理想のキッチンには既に愛着が沸き、とても気に入っていた。
しかし、と明子は思う。
夫が家を建てる時に「なんでも好きにしていいから」という断りと共に出した条件に、義父との同居があったのは誤算だった。
人のいい義父を嫌いではなかったし、妻に先立たれた老人の一人暮らしは寂しいものだ。
仕方ないこととは言え、痴呆気味のこの義父の存在は新居に移り住んだ明子の頭痛の種になっていた。
義父は、またシステムキッチンの向こうから言う。
「そうですか……あ、朝餉はステーキがいいのう。赤みの歯ごたえのあるやつをお願いしますわい」
4度目だ。
手元からピシリと音がなる。
洗い物をする手に力が入りすぎていたようだ。信夫の茶碗にヒビが入っている。
「さっき食べましたよ、お義父さん」
答えながら、明子は思いため息を吐く。
大体、胃腸と歯は全くの健康であるのがまた何だか腹立たしい。
どこに朝から赤身のステーキをほしがる老人がいると言うのか。
「ほっほ、そうでしたかのう。それじゃあ、ちょっと行って来るとしようかのう」
義父が、明子の気も知らずにいう。
「え? お義父さん、どこへ行くんです?」
「魔王を倒しに行ってきますわい」
義父は食事の要求をしていたことも忘れて、身支度を始める。
「あ、ちょっとお義父さん!」
明子の声が聞こえないのか、義父は鳥打帽をかぶると杖を持って出て行ってしまった。
「もう……」
体は元気そのものだから心配はいらないだろうが、やはりボケているようだ。
昨日魔王を倒したのに、もう忘れてるみたい。
明子はまたため息をつくと、割れた信夫の茶碗を脇にどかして洗い物の続きを始める。
せっかくの天気だしこれが終わったら掃除と洗濯もしよう。茶碗はあとで接着剤でも付けておけばいいわよね、と明子は食器を食洗機に入れながら思うのだった。
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全く、何もわかっちゃいねえ。
おれを心配するにしても、あんなに困った顔は見たくなかったぜ。
それに、晴れた天気とは裏腹に、恐るべき魔力が既に充満し始めてやがる。
こんな状態でいつもと変わらない生活を続けられるなんざ、あの嬢ちゃんは案外キモが座ってるのかも知れねえな。
しかし、必死におれを縋り止めようとしてくれるのは嬉しいが、だからといって朝食も食わせてくれねえのはやりすぎだろう。
娘の困り果てた姿を思い出し、その男はにやりと笑った。
男は、やがて目的地の町の集会所についた。
靴を脱いで被っていた帽子を脱ぐと、一室を目指す。
部屋に入るなり、中にいる肥えた男、高木が話しかけてきた。
「お待ちしていました。早速ですが、やはり早速現れたようです」
高木の答えを聞くと、自然と口角を持ち上げる。予想通りだ。
「居場所は間もなく特定出来ます。すぐ向かいますか?」
高木は、続けて尋ねる。
そっと頷いて返してやる。
「わかりました、では手配します」
高木の大きな体がゆれながら部屋を出て行く。
高木は10分ほどで戻ってきた。
「これが目的地へのチケットと、それから鍵です」
頷きながら、手渡された封筒を受け取る。
「エージェントは既に待機していますので、いつでも始めて構いません。それでは、どうかご無事で」
いつもの、心配そうな顔を見せる高木の肩を叩いてやる。
心配するな、無事帰ってくる。
心の中で誓いながら、男は集会所を後にする。
高木はその背を見送りながら、つぶやいた。
「お爺ちゃん、大丈夫かな」
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老人は高木に手配してもらった車に乗って、魔王の下へ向かっている。
車に乗るまでの間は何度か徘徊老人と間違われて警察に呼び止められたが、事情を説明したら理解してくれた。
老人の名は、竜蔵。
世界屈指の魔王討伐者である。
何度も世界の危機を救った老人の名は広く知られていたが、人類の希望が齢80の老人と知れれば絶望するものも多い。
故に具体的な個人情報は国家の上層部が知るのみであり、竜蔵の住む町の住民はほとんどが『伝説の竜蔵』と、『同じ町に住む竜蔵』が同一人物とは思っていなかった。
老人は若かりし頃から脅威の術を学び、その使い手として数々の魔王を討ち滅ぼしてきた。
老人は妻が出来、子が出来、子の子が育つのを眺め、その傍らで魔王を狩り続けているのだ。
使えば使うほどに術の冴えは増し、しかし人間であるが故に体は老いて来る。
潮時かとは何度も思うのだが、不幸な事に後進は全くといっていいほど育っていない。
妻に頼まれた通り、死ぬまで魔王を倒し続けるのが自分の使命だと老人は考えていた。
やがて、車が止まる。
老人は昔よりはるかに重く感じる我が身を動かすと、車から降りた。
「ほほ、じゃあ行ってくるとしますかのう。信夫、気をつけて帰るんですよ」
車を運転していた息子に声をかける。
信夫は残念ながら脅威の術の才能がなく、竜蔵の後進としての周囲の期待に沿うことは出来なかった。
しかし、別の形で応援してくれる。
妻に嫌そうにされながらも一緒に暮らし、戦うほど危険ではないにしろ、魔王の傍まで運転する役目を買って出てくれた。
守らねばなるまい。竜蔵は決意を新たに、魔王の住まう城に向かい歩き出す。
よぼよぼの、頼りないはずの後姿。
しかし、竜蔵の背には背負うものがある故の強さが滲んでいた。
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城に住まう観察魔は、驚愕していた。
まるで化け物ではないか。
観察魔が眺めるのは、数万の魔にまみれ立ち向かうただ一人の老人だった。
終わることのない魔の出現は、幾多の魔王の発生として現れる。
魔王を倒しても、必ず次の魔王はいつか現れる。
そして魔王は、世界を覆えるだけの魔物を率いて進軍を始めるはずだった。
その魔の軍団となるはずだったものたちは、観察魔の視線の先で次々消されていく。
腰は曲がり、歩みもままならぬ、虐げられるだけの種族の、死に損ない。ただ一人の老人によって。
杖を僅かに振るしぐさと共に、一軍にも値するはずの強力な魔物でも次々に塵と化す。
観察魔の持つ知識とは大きく異なる、圧倒的な力がそこにあった。
観察魔は逃げようと背を向け、そこで全てを失った。視界も、意識も、肉体も、命も。
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がちゃり。
渡された鍵はいつも通りぴったりだ。
重そうに見える扉が、自然と開いていく。
「ほっほ、高木さんの作る鍵は今回も完璧ですのう」
嬉しそうに笑う好々爺。
開いた扉の先にいる、漆黒が形を持ったような男が言う。
「よく来たな。私が魔王だ」