高三の夏、甲子園。大会決勝、一点ビハインドの九回の裏ツ―アウト満塁。打席に入る四番の俺へのサインは――送りバント
副キャプテンである前のバッターが三振に倒れたのを見て、俺はバッターボックスへと向かう。
ベンチに帰る副キャプテンとすれ違った時に、「すまん」と一言かけられたので、「任せろ」とだけ返した。
九回の裏、ツーアウト満塁。
スコアは六対五の一点ビハインド。
舞台は甲子園。大会決勝、高三の夏。
良いねぇ、燃えてくるじゃないか!
高校球児生活の最後で、まさかこんなにシビれるシチュエーションの当事者になれるとは思いもしなかった。
野球の神様ってのは、本当に居るのかもしれない。
どうせ分かりきってはいるが、打席に入る前にサインを確認する。
そんな気持ちでベンチに目を向け――
【送りバント】
そんなサインを送られ、思わず固まった。
……いやいやいや。
ここは【打て】とか、せめて【一球待て】とかじゃないのか?
大会通算打率六割越え、ホームラン数大会圧倒的一位、この試合でも全打席ヒットで五打点、セーフティバントに向かない右打席で、公式戦でのバント経験はなく、大会屈指の鈍足。
一体どこに、ツーアウトからバントをさせる理由があるのか。
しかも、セーフティバントでも、スクイズでもなく、送りバントってなんだ。
「君、どうかしたのかね?」
「あ、いえ、大丈夫です!」
いつまでも打席に入らない俺に審判が声を掛けてきたので、とにかく一礼して打席に入る。
しかし、どうしたものか。
うちの筋肉ゴリラ監督は、中学まで補欠の補欠だった俺の才能を開花させ、しかも万年一回戦負けだったうちの高校を三年で甲子園の決勝まで連れてきた名将だ。
そんな人が、何の理由もなく、こんな場面で送りバントのサインを出すだろうか。
「ストライーック!」
どうするべきか考えがまとまらないうちに、外角の際どいところに緩いカーブが投じられた。
試合途中からとはいえ百球なんて優に超えて投げているのに、相手ピッチャーの右腕から投じられる球はまだまだ生きている。
そうだ。悩んでいる間も、試合は進むのだ。
とりあえず、もう一度ベンチを見よう。
そして、次のサインを受けて、最初のサインのことはすっぱり忘れるのだ。
そうしてベンチに目を向けた俺は、そこに一匹の怪物を見た。
サインを出そうともせずに、こちらに鋭い視線を向けながら悠然と座る筋肉ゴリラ監督の姿を見て確信する。
――ヤツは本気だ。
本気で俺に送りバントをやらせる気だ。
ならば、結果がどうなろうと、恩師の覚悟に答えないわけにはいかない。
ここで腹を決めるのだ。
深呼吸を一つ。
打席に入った俺は、キャッチャーの前にバットを出し、そこに手を添え――いわゆる、バントの構えを取る。
相手ピッチャーが、大きく口を開けて固まっている。
だろうな。こんなこと、想定すらしていないだろう。
内野陣が戸惑ったように、互いに目配せをしている。
バントに備えて突っ込むべきか。どう考えてもバントなんてありえない場面で、それでも「まさか」があるんじゃないかと不安になっているんだろう。
ランナーたちが「マジでやるのか……」というような、呆れの目で見ている。
仕方ないだろう。入部早々、「君には見どころがある」とか言われて筋肉ゴリラ監督に『マッスル教団』なる怪しげな団体の会合に連れて行かれて、「あ、これアカンやつや」と色々諦めたら、いつの間にか『高校球界最高のサード』『打力だけなら日本最高クラス』なんて呼ばれるようになっているのだ。そんな前例が存在するのに、筋肉ゴリラ監督の指示に逆らえるものか。
気付けばアルプススタンドから聞こえていた応援が何段か小さくなったようで、スタンド全体の空気も困惑が広がっているような気がする。
テレビ中継の実況や解説の人たちも、困っているのではなかろうか。
そんな中、たっぷり数分間は全く動かなかったピッチャーは、四度首を横に振り、五度目で縦に振った後、二球目を投じた。
緩い球、おそらくはカーブ。それを外角のやや低め、ボール気味のところへ投じてきた。
生まれて初めて公式戦でバントをする俺は、それが良い球だか悪い球だか考えもせず、とにかく喰らいつく。
そして、カンッ、と金属音一つ残し、ボールは前に転がった。
内野守備陣は誰も動いていない。
ピッチャーが投じたらバットを引き戻して打つか見逃すかだろうとの、極めて常識的判断をしたのだろう彼らは、俺が右打席から二歩目を踏み出した辺りでやっと動き出す。
そうして動き出す敵の守備や、大慌てで走り出す味方ランナー、さらには、ボールの行方すら確認する余裕もなく、とにかく俺は走る。
一歩踏み出せば確実に一塁ベースとの距離は縮まる。
だがしかし、その歩みの何と遅いことか。
今日ほど、己の鈍足を悔やんだ日はない。
心にそんな無念を抱えながらも、体はとにかく全力で前に進む。
だが、そんな不安定な状態だったことがダメだったのだろう。
まだベースは遠いというのに、足がもつれ、体が前に傾いていく。
何とか踏ん張るか?
いや、ダメだ。それでは絶対に間に合わない。
みんなで目指した栄冠まで、あと一歩だ。
こんなところでつまずく訳にはいかない。
もう頭もロクに回っていなかった俺が思いっきり飛び込んだのは、本能的なものだったんだろう。
とにかく、届け届け届け届け、と必死に祈り、右手を伸ばした先。
そこでは、何か、地面とは違うものに指先が触れた気がした。
一瞬の沈黙が、そして歓声と悲鳴が球場を満たした。
「セェェェエエエエエフッ!」
俺の激走が実を結んだのかは分からないが、九回裏の俺のバントは、相手サードの一塁悪送球を招き、ランナー二人が生還。そのままサヨナラ勝ちとの劇的な幕切れになった。
正直、その後のことはよく覚えていない。
とにかく勝った喜びで、何がなんやら。
そうして気付けば用具一式を持ってベンチから裏に下がったところで、本日のサヨナラ劇の立役者、筋肉ゴリラ監督が笑顔でやってきた。
「凄い心理戦だったな! よくあんなの思いついたな!」
そんな、意味不明な言葉と共に。
「いや、監督のサインですよ?」
「えっ? ……あ」
まさか。
いや、まさかな……。
「『送りバント』は右手首を触るで、『打て』は左手首を触るんですよ。あなたが決めたサインですよね?」
「……年を取るとだな、右手首を触るつもりで左手首を触ったりすることがある。うむ、年は取りたくないものだなぁ! ハッハッハッはぎゅぅ!?」
右手が何かを打ち抜く感触と共に、豚の悲鳴が聞こえてきた気がしたが、大したことじゃあない。
その後、小学生で野球を始めてから五十二歳でプロ野球選手を引退するまでの間、俺は公式戦で、このたった一度しかバントをすることはなかった。
こうして、俺の死後も『伝説のバント』として語り継がれたサヨナラ劇と共に、俺の夏は終わったのだ。