58話 スタンドアップ ブラザー
備中備後境
小早川隆景
つむじ風を纏って駆け上がる。一度駆け始めるともう迷いなどは見せない。微かな挙動だけで馬廻りが一顧の獣のように続いていく。その光景は酷く荒々しく、だけど幽玄を極めた能のようにも見えた。
美しい――大太刀を天高く掲げて隊を鼓舞する敵総大将のその振る舞いに素直にそう思えた。自らに迫って来ているというのに、見惚れてしまいたくなる程に。
「巧くいなせ……」
願うように、祈る様に指示を飛ばす。まともに受けたらたまったものでは無い。逃げる背中に食いつかれてから何度目かわからない、ギリギリの用兵に命と精神がごっそりと削られていく。
後背に噛み付いた敵の隊は、何度目かわからない突入を敢行し、そしてここまで届くには多大な負担が生じるとわかると一度離れて付かず離れずの距離を保った。思い切りもいいが、引き際の見極めもいい。
ホッと顔を上げると、近くに父の率いる本隊が来たのがわかった。だからか、と口の中で一つごちる。
父より先行し、7千ほどの兵で三村の松山城を囲み始めたのは3日前。彼らが現れたのはその1日後。ごく少数だと侮ったのが仇になった。今思えば千にも満たなかったはずだ。考える余地も与えられず斬り込まれた――不甲斐ない敗因に今更悔しさが湧きでてくる。
いくさの中で直接言葉を交わした訳ではないが、それでも指揮の中で黒田左少将は言った気がする――貴様らの破り方はこうだ、と。
ぐずぐずと策を弄し、考えている内に、果断に踏み込むぞ、と。
「金吾」
「無事か……」
「申し訳ございません。父上。義兄上」
姿を現した父と義理の兄、宍戸隆家に悄然と頭を垂れる。この場で叱責してくれるような二人だったらどれだけ楽だっただろうと思う。
「一度退く」
「反転はしないのですか?義父上」
私の不甲斐ない姿には一切触れず、2人は既に次の事を話し合っていた。馬上から父が指を差した先で、黒田左少将の隊が徐々に離れていっている姿が見える。大軍でも追いつけそうなほどゆっくりと。
「金吾」
「は……引き返しますと、宇喜多和泉守率いる本隊が待ち受けております。逃げる途中気が付いて機転を利かせていなければ、私も今頃は……」
間違いなく追い込まれていた。そう言い切らない内に、義兄上は感心したように私の肩を軽く叩いた。
「殊勲物の撤退戦だ。恥じ入る事は無い」
「申し訳無い……」
これほどまでに心を削った戦は初めてかもしれない。初陣でも、尼子との戦いでも、厳島でもここまでの圧は感じた事が無い。
「立て直す」
「長引きますかな……」
「太郎が意地でも持たせる」
兄上が?と思ったが、父が珍しく断言した以上、何かあるのかもしれない。
状況を見れば長引いた方がこちら側に有利だ。だが、あの猛将と長く対陣したいとは……到底思えなかった。
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備後神辺
毛利隆元
前線への物資を切らさないように保つ、言葉にするのは簡単だけど、やってみるとこれが結構難しい。だけど、やりきれない役目ではない。
黒田殿との交渉決裂から真っ先に行った事は、父を口説いてこの兵站拠点を組織する事だった。敵を模倣する所業だけど、これだけは譲れないと我を通した結果だった。この神辺城付近を兵站拠点とし、長く戦線を保つ事がどうしても必要だと思ったんだ。
多分だけど、父の意向に逆らってでも断行できた理由は、あの時の会談があったからこそだと思う。
「黒田から見れば格好の的ですぞ」
「然り。確かに後方に拠点を持ち、物資を管理する事は理にかなっておる。だが、何故、袁本初が官渡で曹孟徳に大敗したか、童でもわかる事。古の戦と同じ過ちを犯す事無かれ」
「桂、児玉……2人の言っている事はよくわかる」
父がお目付けとして残した2人の重臣の言葉に帳簿を書く手が止まる。2人とも戦、政治共に類稀な手腕を発揮する貴重な人材だが、どうしてもボクをお飾りとみなし、父の意向に寄り添おうとする。まあ、確かにボクは父ほど偉大な功績など持ち合わせてはいないとわかっているけれど。
だけど、だからこそ、ここは実績が喉から手が出るほど欲しい。他でも無い、黒田家の先進性を研究してきたボクにしか出来ない仕事で。
「ここがボクらの泣き所?黒田家にとって狙い所?分断すればいい?そんな事は誰だってわかってる」
「ならば、」
「わかってるんだ。誰もが。ならば、何故、黒田家の兵站拠点を誰も狙わない?狙おうと思えば岡山も、今堂々と備中内で設営している倉敷や猿掛も狙えるはずだよ?三好はなぜ、明石、越水、それと、えーっと……かんべ?だっけ?あの辺りを狙わない?」
「「…………………………」」
「答えは簡単で、狙わないのではなく、狙いたくても手が出ないようにされているからだよ。誰もがわかるという事は、当然自分たちだってわかってるんだ。ここが狙い所で、分断を狙われたら困ると――敵がどう出るか。敵がどう出るかわかっているのならば、対応すればいいとは思わないかい?」
分断されたくなければ、より慎重に。ここが狙われるならば、より堅牢に。何をされるかわからないならばともかく、明確に弱点だと認識して対応すれば何ら困ることなんかない。官渡の戦は、袁家がその弱点の護りを怠ったから起きた、単なる怠慢による必然でしか無い。
「弱き所を強く、細い所を慎重に、と思うのは2人にとって特別な事かい?」
「成程……確かに。むしろ、余計な心労を負うよりは目に見える苦労を負った方が理にかなっておりまする。しかし、金がかかり過ぎですぞ」
「人手も取られ過ぎですぞ。これで前線の兵が足りずに負けたとなっては本末転倒」
「問題はそこなんだよねぇ」
狙われるのだから防備を厚く。分断を狙われるのだから人は多く。
そうなると、どうしても、戦線維持の為の維持費が二重に掛かっているような形になる。また、ウチではその守る者も選別してやら無いと、裏切られたり中抜きをされたりする恐れもある。黒田家はどれだけの労力を払ってこの制度を維持しているのだろう……今度会えたら是非秘訣を伺ってみたい。
「分散する、というお考えは無きか?」
「うん?それは点ではなく線で繋ぐという考え方かな?それは当然あるよ、桂。無かったのは時間」
正直、神辺にしたのも不本意だよ。本来ならば、もっと鞆の浦に近い場所を選びたかった。けど、兵站拠点としての防衛能力を満たす場所がここしかなかったのだ。会談後、すぐに動き出したつもりだけど、流石に設営から入る訳にはいかなくてね……。
「……これは、是が非でも膠着に持ち込んでもらわねば」
「然り」
父上と次郎(吉川)、そして金吾を信じたからこそ、ボクはここにいる。そして、その助けになる為に、ボクらがいる。
黒田殿でも、この四本の矢は、ちょっとだけ折り辛い……はず。
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かんべ?神戸
官兵衛
「クソッ!またしてもか!あの狂人め!」
西の戦線に動きがあったと同時に、前線からとんでもない報せが俺の下へと齎された。
三好軍反転――突如として近江、伊賀への侵攻を開始。
その報せに、思わず殴りつけた机がダンッ!と鳴り、硯と筆が宙を舞った。誘い出そうとしたつもりが、またしても誘い出された形だ。頭では既にこの行動が意味するところについて必死で正答を模索しようと始めているが、感情の高ぶりが押さえきれない。
今までの段取りを放棄して淀川を渡るべきか――方針転換が頭をよぎるが今一つ踏み切れない。三好の息の根を止めるには、土地を奪うのではなく、このクソ厄介な三好長慶の命を奪う事にこそある。だからこそ、淀川を渡って進む事だけは止めてきた。海は制したが、それでも今現在の状況で石山を狙うのは危険すぎる。
この状況で狙う土地があるとするならば……消去法で芥川山か。京に残る明智たちと挟む事が出来るのならば、と思うがそれもこの三好長慶の一手で消えた。
「明智と山中にはなんとしてでも公方を止めてもらわねば……」
実を言うと、同時に六角から救援の依頼が届いたのだ。
黒田家と六角の間には何の繋がりも無いが、公方は違う。六角が代替わりする前は何度も助けてもらった仲だ。代替わりして遠くなってしまったようだが、武家の棟梁としての立場から言えば、旧恩ある配下を助ける事は当然だと思うだろう。今までのクソ公方ならばともかく、ある程度の力を蓄え、高い志と余裕が出来た今の公方ならば十分にあり得る。
そして、俺たちが公方を諌めれば、俺たちと公方の間に溝が生まれる。可能性だけは想定していたからこそ、そこまでは思いつくのだ。
おそらくそれが、三好反転の狙い。浮足立ってしまった場合、最悪総崩れの恐れすらある。ましてや、今は隆鳳がこちら側にいない。
どうする?どうすれば三好長慶を追い込める?と自問の声が頭の中で幾度となく鳴り響く。逡巡している間にも事態は刻一刻と変化していく。
「官兵衛さま。越水より書状が」
永遠かと思う程長い思考に陥っていた所、善助の声で我に返る。武兵衛から……?と思いつつも、その書状を受け取り、心を落ち着かせるよう言い聞かせながら手元で開く。
――具申致す。
その一言から始まった書状の中身を一読し、俺は即座に立ち上がった。
「善助!急ぎ別所と叔父上に後詰を頼め!俺は軍を率いて越水へと向かうぞ!」
戦はひとり机上で語るべからず、だ。
一方その頃、合流を果たしたとある義親子
「義父」
「……はい」
「俺は小早川を巧く追い込んだつもりだったんだ」
「……うん」
「取り逃がしたこと自体は相手が巧かったと褒めるべきだと思うが、このツケはでかいぞ」
今回のハイライト:幸せ絶頂?の宇喜多直家氏 痛恨の取り逃がし。