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キミを見た夢

作者: 嘘河真白

 へんてこな夢を見た。

 夢の中の私は屋上にいて、私は直感的にああ、ここは夢なんだと確信した。現実の屋上は入れないからだ。

 私は彼と一緒にいるけれど、彼は空を見ていた。私も空を見るものの、彼が何を見ているのかは分からない。

『ねえ、何を見ているの?』

 私が訊ねると、彼はこう答えた。

『●●●●●●』

 声が、聞こえない。

 隣にいるのに、まるで薄い膜によって私と彼との間に壁ができているようだった。

『え、なに?聞こえないよ!』

 私は再度問いかける。彼はちょっと困った顔をして、そうだ!と手のひらをポンと叩いた。

 どうでもいいけれど、その妙に芝居がかった仕草はなんなんだろう。現実の彼は、こんなにユニークな行動は起こさないのに。

 彼は大きくジャンプすると、そのまま空へと高く飛び立った。

 まるで吸い込まれるように空へと進んでいく彼を見て、私はなぜか焦燥感にかられた。

『ま、待って!』

 私がジャンプしても、彼のようには飛べない。これは明晰夢、本当ならなんでもできそうなはずなのに、私は飛べなかった。

 ぴょんぴょんと、駄々っ子のように跳ねても、一向に私の体は重力に囚われたままだ。

 身体が重い。私の周りのドロドロとした空気が、私の動きを制限する。

 これじゃ、まるで水みたい……

 そう思った途端、私は急に呼吸ができなくなった。

 息が苦しい。ああ、なんで水の中にいるなんて考えてしまったんだ、私の馬鹿!

 夢の中なのに、妙にリアルな実感を持って、私は溺れた。

 そういえば、私は泳げなかったんだ。

 この一大事に、私は泳ぎ方を教わっておくべきだったと後悔した。

『たすけて……』

 水の中であがく私は、助けを求めていた。

 こんな水の中で助けを求めても、声が届くはずがないのに。

 ぼやける視界の中、彼が私を助けにくるのが見えた。

 ここは明晰夢、望めばなんでもできる。

 私は冷静に自分に都合のいい状況の理由を考えていた。

 そう、ここで彼が助けに来て、私は水の中で息ができないから、

 こんな時、どこかで見た映画では、確か……

 彼が私の期待通りに動く。唇を私の唇に重ねて、そして……

 ……あれ?


「……あれ?」

 その違和感で、私の意識は夢から現実へと引き戻された。

 8月1日、ただいま午前8時、夏真っ盛り。

 体中が汗で湿って、気持ち悪い。

「あら、今日は早いのね」

 階段を下りて、台所を通り過ぎようとして、母に見つかった。

 まったく、それは普段自力で起きられない私への嫌味か。

「暑くて、勝手に目が覚めたのよ」

「最近暑いものねえ」

 適当に会話をしてお風呂場に向かう。シャワーをして幾分かすっきりした後、朝食を取った。

「図書館に行ってくるね」

 家にいると主婦である母にあれこれとガミガミ言われるので、適当なことを言って家を出る。せっかくの中学一年生の夏休みなのだ、ゆっくりしたい。

 ちなみに、図書館には行かない。距離的にも遠いし、何より、夏休みの図書館は混んでいるのだ。

 ……というわけで、いつも通り私は中学校へと向かった。

「おはよう」

「……おはよう」

 校舎の空き教室に入ると、彼が挨拶をしてきたので、私も挨拶を返した。

 彼は私の挨拶を聞いて、本に目線を戻した。

「……」

 今朝の夢のせいか、妙な気恥ずかしさを感じる。

 そんな私とは対照的に、彼はいつも通りクールだった。

 彼は涼しい顔で汗を流して読書中、キラリと光る汗が憎い。

 まあ、当たり前なんだけど……それでも、ちょっとムカつく。

 私は読書を続ける彼の姿を見て、そういえば初めて会った日もこうして本を読んでいたなと思い出す。


 あれは7月20日、夏休み初日だった。

 前日、私は「やった、明日から夏休みだーっ!!」と喜ぶあまり、深夜までゲームをして遊んでいたせいか、寝て起きたら昼過ぎだった。

「あんた、いくら夏休みだからってこんな生活送ってたら、身体壊すわよっ!」

「あはは……あ、そうだった!私午後から用事があったんだ!行ってくるねっ!」

 母親の言い分はごもっともで、そんなありがたいお説教から逃れるために私は家から緊急脱出をしたのだった。

 とはいえ何も考えずに家を飛び出したので、行くアテがない。

 うーんうーんと唸りながら歩いていると、前日までの習慣からか、自然と足は中学校に向かっていた。

「まあ、夏休みの学校もそれはそれで面白いか」

 基本的にあまのじゃくな性格の私は校内を探索することにした。

 昇降口は閉まっているので、侵入は来賓口から堂々と。

 普段は上履きなので、来賓用のスリッパにちょっとした特別感を感じた。

 誰もいない昼間の廊下を歩く。

 パタ、パタ、パタ、パタ……

 スリッパの音が響き渡る。

「ふふ」

 パッタパッタパッタパッタ……

「とう」

 パタパタパッタ、パッタパッタ……

「ほほう……」

 適当にリズムを取ってみたり、スキップしたり、訳もなくはしゃいでしまう。

 冷静になって考えてみると、すごい馬鹿なことをしてる。

 けれども、あの日の私は上機嫌だった。

「コンコン、入ってますかー?」

 手当たり次第に教室のドアをノックする。

 もちろん教室のドアは閉まっていて、開けることはできないけど、まあ何度も言うけどはしゃいでたわけで。

「ヘイ!ユー、元気にしてるかーい?」

 そんなはしゃいでいた私は、そんな言葉を吐きつつドアを開けたのだった。

 ……うん、ドアは開いてたんだ。

 教室には一人、男子がいた。

 彼は突然の来訪者である私を一瞥すると、冷静に

「……ああ、うん、元気にしてる」

 と実にクールな返答をした。

「あ、あわわ……」

 そんなスマートな対応に逆に困惑したのが私であり、本来ならこのままドアを閉めてうわあああああと奇声でもあげながら廊下を爆走して家に帰ればよかったのになぜか後ろ手でドアを閉めて変な弁明を始めたのだ。

「あー、うん、元気、ゲンキかー……そうなんだ、へー、すごいねー」

 一体何がすごいのだろう。

「で、でででも、うら若き中学生がこんなところで読書とは、不健全だよー」

 人のことに口を出せる立場なのだろうか。

「と、ところでそれ、お、面白い?お、お姉さん気になるなー、なんて」

 中学一年生の私がお姉さんの立場になるのはいささか無理があった。

「本の内容は、正直言ってつまらないかな。まあ表紙買いだったし、中古で安かったからしょうがないけど」

 返ってきたのは、丁寧なコメントだった。

「そ、そうなんだ、そんなにつまらないなら、これからお姉さんとこの暑い中マラソンしないかい?今私すごく走りたい気分なんだ!」

「その申し出は嬉しいけど、今いいところなので」

 つまらない本なのに今いいところとは何事か。

「あ、そ、そうなんだ、じゃ、じゃあ、お姉さんもここにいるよ……」

 へなへなと地べたに腰を下ろした私は、がっくりとうなだれた。

 何もしてないのに疲れがどっと出てしまった。

 この日は結局、そこでぶらぶらと時間をつぶして普通に帰った。私が一人盛り上がっていただけで、彼は私の奇行など一切気にしていなかったのだ。

 あまりにも何事もなかったかのように振る舞うので、逆に私が拍子抜けしてしまった。

 そのせいだろうか、翌日も私は彼のいる場所へやってきた。

「は、はろー」

「ハロー」

 うん、特におかしな反応はないな。昨日と同じように本を読んでいる。なぜ私が英語で挨拶をしてるんだと問いかけることもない。

 ただひとつ違うところは、昨日私が座ってたところにクッションが置いてあるぐらい。

「このクッション、使っていいの?」

「いいよ」

 変なの。何も気にしてないのかと思えば、こんな気遣いをしてる。けど、悪い気はしなかった。

 この微妙な距離感が、なんだか面白い。

「じゃあ、遠慮なく……おおっ」

 わあ、ふかふかだあ。

 それからというもの、私は毎日のようにここに通い詰めた。空き教室に来たからといって、特にすることはない。漫画を持ち込んで読むこともあれば、暇つぶしに宿題をしたこともあった。

 なんだそれ、家でもできることじゃんと思うだろうけど、実のところかなり違う。

 これを的確に表すのは、そう、家族さえ知らない自分だけのお気に入りのスペースを見つけたというべきか。男の子が秘密基地を作るような感覚だ。

 とにかく居心地がよかったのだ。

 同居人はただ本を読んでいるだけだし、私の行動を気にするそぶりもない。

 かといって無関心かと思えば、話し相手にもなってくれる。

「いやー最近暑いねー、もう私体中汗でびっしょりだよー」

「そうなんだ」

「今日の夕飯はオムライスなんだ。いいでしょー?」

「そうなんだ」

「この前山にハイキングに行ったんだけどね、うっかり家族とはぐれちゃって、いやーあの時は焦ったよーハイキングコースにも戻れなくなって、帰り道が分からなくなったし」

「それは遭難だ」

 まあ、基本的に相槌を打つだけなんですけどね。

 そんなクールな彼も、昨日だけは様子が違った。

「……」

 いつもなら読書をしているはずなのに、その日は珍しく、窓の外を見ていたのだ。

「珍しいね、今日は読まないんだ」

 私の言葉に、彼は珍しく私の方を向いて答えた。

「うん、昨日読んだ本が思ったより面白くて、ちょっと余韻に浸ってた」

 そう言って、彼は目を細めた。たぶん、本の内容を思い出しているんだろう。

 ……なんだか、ちょっと疎外感。

「ね、ねえ、その本、私も読んでいいかな?」

 何を言ってるんだ私、小説なんてまともに読んだことは一度もないのに。

「じゃあ、君に貸すよ。返すのはいつでもいいから」

 はい、と手渡される本。どしりとした重さが、私にそのページ数の多さを実感させた。

 ぱらぱらとめくると、これまた細かい字がびっちりと詰まっていて、小説よりこれは辞書だなといった感想を抱いた。

 ……うん、これ無理。

「あ、ありがとう、帰ったら早速読むね!」

 心情とは裏腹に私の口は無責任なセリフを吐いていた。

 家に帰ってから、本を開く。

 ああ言ってしまったのだ、一応読まなくてはならない。

 とりあえず最初のページに目を通す。

 紙に書いてある文字を目で追う。一文一文の意味は理解できるはずなのに、気付けばただ目に文字を映しているだけになっていた。

 ページをめくる手を止め、さっきまでの内容を思い起こす。

 結果は、何一つ覚えていなかった。

「うう……」

 登場人物の名前がカタカナでよく分からない。状況説明がよく分からない。読めない字がたくさんある。誰の台詞なのか分からない。

 分からないことだらけで、しまいには知恵熱を起こして私は読書を断念した。

「こんなに難しい本、よく読めるなあ……」

 ベッドに倒れこみ、全身の力を抜いた。意識が沈み込んでいく最中、私はどうしてこんな本を読もうとしたのだろうと疑問を持ったのだった。

 そして、あの夢を見た。


 夢の中で感じた違和感は、キスの感触がないことだった。

 考えてみれば、それは当たり前のことで……私が経験していないことは、いくら夢の中でも再現できない。

 そもそも、私を抱きかかえる彼の腕も、ぬいぐるみのように綿が詰まっていた感触だったのだ。

 ……いや、あのふかふかはどちらかといえばクッションの感触だったかな?どっちでもいいか。

 まあそんなわけで、私の視線は自然と彼の唇に向いてもおかしくはないのです。

「……」

 昨日と違い、彼は普段通り本を読んでいる。だから私の視線に気づくことはない。

 唇を観察すると、乾いて皮がめくれていた。まあ、男の子だし、リップクリームをつけてなくてもおかしくはないか。制汗剤はちゃんとつけているせいか、ちょっと意外。

「どうしたの?」

 気付けば、彼と目があっていた。

「え、あー、うん、ちょっと手伝って欲しいなーと思って」

 私は口早にそう言って、服を脱いだ。

「と、突然どうしたんだ?」

 私の行動に彼は目を丸くする。

 彼は顔を手で覆うものの、人差し指と薬指の間から目がはっきり見えているのが分かる。ああ、こういうところは中学生男子なのか。

 けれど残念、私はそんなに安い女じゃないのだ。

「じゃじゃーん、スクール水着でしたー!」

「……あれ、本当だ」

 今日はあらかじめ中に水着を着こんでいたのだ。

「ねえねえ、何を想像してたの?私に教えてよ」

 普段見せない隙が見られて、私は嬉々としてそこをつついた。

「あ、えっと、裸になったんだと、思ってた」

「えー、さすがに学校で裸にならないよー」

 私の言葉に顔を赤くする彼、うん、かわいい。

「そ、それで、どうして水着姿になったんだ?」

「あー、それね、私、泳げないから、泳げるようになろうと思って」

 そう言って私は青いビニールシートを広げた。

 床に広げて、適当にしわを伸ばす。うん、見た目海っぽい。

「泳ぎの練習なら、プールに行った方がいいと思うけど」

 私が作業する横で、彼が意見を述べる。

「うん、別に実際に泳げなくてもいいんだよね。泳げるイメージさえ掴めればそれで十分」

 私の台詞の意味が分からず、彼ははてな、と頭にクエスチョンマークを浮かべた。

 分かるはずがない、分かるわけがない。だってこれは、夢の中でリベンジするための練習なんだから。

「よし、泳ぐぞー!」

「よく分からないけど、頑張って」

「いやいや、手伝ってよ」

 彼の手を握り、ビニールシートの中に入れた。

「え、え?」

「一応、泳げるんだよね?」

「うん、人並みには」

「じゃあ、泳ぎ方教えて」

「いや、でも人に教えるほどうまくないよ?」

「私が泳げる自信が持てればいいの、お願い!」

 今日の私は強気なのだ。行け行けドンドン押せ押せワッショイだ。走り出したら止まらない。止まる時は前のめり、玉砕あるのみ。うん、自分でも訳が分からない。

 けれども彼は優しいので、私は玉砕せずに済んだ。こほん、と一度咳払いをして私に告げた。

「とにかく、教えるからには真面目に行う。とりあえずバタ足から始めようか」

 ビニールシートで行うバタ足練習はえらく滑稽な光景だった。

 バタバタバタ、私の足がビニールシートを叩き、変な音を出す。

「うん、いい調子。このペースで続けて」

 バタバタバタ、ビニールシートはごわごわで、触れるとちょっと痛い。

「コーチ、そろそろ休憩したいです」

 バタバタバタ、足が疲れてきた。

「何を言ってるんだ、まだ始めたばかりじゃないか」

 バタバタバタ、だるい。

「そうはいってもですね、これはちょっと辛いんです」

 バタバタバタ、限界。

「いや、コーチはそりゃただ見ているだけだからいいと思いますけど、これって本当に痛いんですよ?なにせ相手は柔らかい水ではなく固い地面なんですから。そもそもこんなことに一体何の意味があるんです?バタバタバタバタ、ただずっとバタ足の練習なんて、馬鹿みたいじゃないですか!私だって泳ぐからにはクロールとかバタフライみたいなかっこいい泳ぎ方の練習をしたいですよ!それがなんですかバタ足って、そりゃ犬かきに比べればマシですけど、それでもやっぱり限度ってものがありますよ。さすがにこのビニールシートで犬かきを要求されたら絶対にやりませんけど、まあバタ足くらいならコーチの意志に従ってもいいかなって思いましたけど、でもですね、長いんです、長すぎるんですよ。もう私の足は限界なんです。崩壊寸前なんです。乙女の柔足ですから!」

 バタバタバタバタ……私の文句に対し、彼は無言でバタ足をすることで答えを返した。見事なフォームだった。

 私が駄々っ子のそれなら、彼のバタ足はミサイルのそれだった。これでは海で泳げば確実に溺れるのは私だ。

「暑い」

「ごめん、ちょっと自分のこと棚に上げてた」

「分かればいいんだ」

 汗をかいたので、彼は着ていた服を脱いだ。

「……うわあ」

「そっちだって水着なんだ、こっちだって脱いでもいいと思うのだけど」

 いや、そういうことじゃなくて。私が見ているのは、彼の上半身だ。

 見た目は華奢だと思っていたのに、内に秘めていたのはカブトムシだった。

 これが細マッチョか。

 筋肉が引き締まっている。

「そういえば知っているか?カバはピンクの汗をかくらしい」

「うん、知ってる。テレビで見たことがある」

 それがどうしたのか。私は今、ちょっと目が離せないのに。

「俺がピンク色の汗を流せたら、全身ピンク色でヒーローみたいだなと思って」

 これは彼なりのユーモアなのだろうか。はっきり言って面白くない。私は笑いには人一倍厳しいのだ。

 それに、彼はどちらかと言えばブルーが似合うと思う。ピンクはオカマの役どころだ。

 あ、でも、汗が青かったらそれは嫌だな。ピンク色も嫌だけど。

 結局のところ、透明な汗が一番なのだろう。私は人間の汗が透明なことにしたどこかの神に感謝して、彼の上半身を再度視姦した。

「ところで、次の練習に入る前に頼みたいことがあるんだけど」

 休憩を終えて、私は一つ彼に提案をした。

「空を泳ぐには、どういった泳ぎ方がいいと思う?」

「……え、空?飛ぶんじゃなくて、泳ぐのか?」

「うん、泳ぎたいの」

「……平泳ぎが一番泳ぎやすそうだと思う、かな?クロールやバタフライって潜水するのに適していないだろうから」

 そういうわけで、今度は空を泳ぐ練習。

「……こう?」

「ちょっと違う、こう、前に手をやる時は水をかき分けるようにして、手を後ろにやる時は水を押しのけるようにして」

「……えっと、こう?」

「もっと大胆にした方がいいかな?」

「これならどう?」

「うーん、いい線いってると思うけど……」

 ……

 …………

 ………………。

「……ぜえ、ぜえ……はうっ、腕が釣ったあっ!」

「だ、大丈夫か!」

「今度は足が釣ったあっ!……あ、立ちくらみが……」

 ぐらりと視界が揺れる。あれ?これ熱中症かな……

 そういえば、準備体操をしていなかったんだ……運動する前に柔軟をしておくんだったと後悔した。


「あーしあわせぇー」

 前言撤回、塞翁が馬、不幸中の幸い。釣っておくもんだね、これは。

 私は現在、彼にひざまくらをしてもらい、私が持ってきた下敷きで扇いでもらっている。

 さっきの運動で汗をたらふく流したので、気化熱で涼しい。

「いいよーこれ、至れり尽くせりだわー。コクコク、あーおいしー」

 おまけにスポーツドリンクつき。うん、楽園だ。

「大丈夫か?気持ち悪かったりしないか?」

「んーんー、大丈夫よー横になったら落ち着いた」

 彼はコーチとして生徒である私の健康管理を怠った負い目か、必要以上に私を気遣っている。

 そこまで気にしなくていいのにと思うものの、もうちょっとこのままでいいかと、この状況に甘んじてしまう。

 ゴクゴクと彼がスポーツドリンクを飲む。

 私の視点から彼の顔は見れないものの、飲み物を嚥下する様子は彼の喉仏が上下する様で十分把握できた。

 どうでもいいけど、喉仏ってエロいと思う。

 それからは、さっきまでのような練習をすることなくまったりと過ごすことにした。

 改めてひざまくらの感触を確認する。上半身裸の時に筋肉質だと思ってたけど、彼の下半身も筋肉が引き締まっていた。

 まあ何がいいたいのかというと、固かった。本来ひざまくらというものは柔らかいのがいいといった人が多いと思うけれども、私は違うみたいで、むしろ固いの大歓迎だ。

 最近はなんでもかんでも柔らかいものにしようといった傾向があるけど、それは間違っていると思う。固いおせんべいがおいしいように、カリカリ梅がおいしいように、固いひざまくらだって需要はあるはずだ。

 現に私は過去に柔らかいと評判の枕を使って、首を痛めたことがある。あれは本当に痛かった。一日中変な方向を向いて過ごすのはもう二度としたくない。

 閑話休題、そんなわけでひざまくらの感触を味わった私は、なんとなく上を向いた。

 気付けば彼は眠っていた。

 すーすーと、規則正しい寝息が聞こえる。寝るのはいいけど、そんな体勢で辛くはないのかと思う。

 下を向いているので、彼の寝顔もばっちりだ。普段クールな彼には意外な、あどけない寝顔だった。

 自然と目が唇に向いてしまう。

 ちょっとした悪い考えが頭をよぎる。

 ……いや、いやいやいや、それはまずいだろう。さすがにそれは卑怯だ。いくら彼が寝ているかといって、私が彼の唇を奪うのはフェアじゃない。

 しかし、夢にリベンジするには唇の感触が必要だ。あれがないと、負けになってしまう。

 今日の私は変だ。普段なら以前のようにお互いに必要以上に干渉せずに過ごし、そしてそのまま夏休みを終えるはずだった。

 けれども、今朝のような夢を見続けたら、私はいつか我慢できずに暴走してしまう。

 思えば、一目ぼれだったのかもしれない。吊り橋理論で、特殊な環境で出会ってしまったせいか、私の好意の矢印は最初から彼に向いていた。

 それでもひと夏の気の迷いだと割り切り、何もせずに夏休みを終えて、ああ、こんなこともあったなあといい思い出としてたまに思い出してちょっと胸が苦しむ程度の思い出にするべきなのだ。

 だから今まで、彼の名前を聞いていない。

 もし知ってしまったら、それはひと夏の思い出じゃなくなる。

 そんなわけで、葛藤の末に導いた答えは、実にあっさりしたものだった。


 へんてこな夢をみた。

 夢の中の私は全力で泳いでいた。なにせスタートから彼はすでに空へと泳ぎを進めていたからだ。

 私は下手くそな平泳ぎで懸命に泳ぎ、彼に追いついた。

 彼の見ていた方角を見ると、ピンク色のカバが気持ちよさそうに泳いでいた。それも一匹ではなく、何億頭ともいえるほどのピンク色のカバの大群が連なって泳いでいるのだ。まるで天の川のようだ。いくら夢とはいえこれはシュールというレベルではない。

 ぜーはーぜーはー、全力平泳ぎの後なので、息が苦しい。

 彼は私の必死な様子を見て耐え切れず大笑いし、溺れてしまった。あいかわらずこの夢の中の彼はどこかおかしい。

 がぼがぼと苦しそうにする彼を無理やりこの手に抱き、口づけをした。

 ロマンもへったくれもない強引なキスだった。夢の中の私は直情的すぎる。

 前の夢とは違って、きちんと感触はある。感想としては、実に生々しいものだった。


 そんなわけで、夢の中で勝利して帰ってきました。私です。

「あ、起きた?」

 周りは赤く染まっていて、今の時間が夕暮れだと私に教えてくれた。

「……ありがと、待っててくれた?」

「俺もさっき起きたところだから、平気」

 パタパタと埃を落とし、服を着直す。ビニールシートは……明日でいいか。

 とにかく家に帰ろう。

「じゃあ、私帰るから」

「うん、また明日」

「また、明日……あ、そうだ」

 私はひとつ、彼に言っておくことがあったんだ。

「なに?」

「私、借りた本ちゃんと最後まで読むね。そうしたら、感想を話し合おう?」

「うん、分かった」

 そうして私は教室を後にした。


「……やっぱり指で触った程度じゃ、満足できないなあ」

 一人で家へと帰る私は、さっきの夢を回想していた。

 見事実感のある二度目のファーストキスを終えた私は、つい調子に乗ってしまい、外国の映画で彫りの深いダンディなイケメンとグラマーな美女が映画の最後でするディープキスといったものに挑戦してしまった。

 もちろん、彼の唇は右手の人差し指薬指で触れたものの、舌の感触までは調べていない。いや、あの場面で舌まで調べてたらいくら彼が寝ていたとしても起きてしまうからいいんだけど。

 まあなんといいますか、結果として唇の感触までは再現できたものの、舌の触感までは再現できなかった。虚しいディープキスを終えた私は血の涙を流し、言葉にならない声をあげて夢を終わらせることになった。

 本当に、なんだろう、この不完全燃焼な終わり方。私は一応目的は果たしたはずだ。夢の中で空を泳ぐことができたし、抱擁の感触も、キスの感触も味わうことができた。そこで終わっていれば私は完全勝利して終えられたのに……なぜそこで欲を出してしまったのか。私の馬鹿。

 おかげで、以前よりも知りたくなってしまった。本当のキスの味。

 ……うん、やっぱり諦めるのを諦めよう。一目ぼれがなんだ、吊り橋効果がなんだ。私の目に狂いはない。彼はいい男だ。一時の気の迷いではないはず。

 それに、よくよく考えてみれば今朝の夢のおかげで今日のような思い出が作れたのだと言える。さっきも言っていたじゃないか。怪我の功名だって。

 よし、まずは帰ったらちゃんと本を読もう。全部読むまでにどれくらいかかるか分からないけど、彼と約束をしてしまったのだ。それを裏切るのはいけないことだ。

 あと、明日はちゃんと自己紹介して、彼の名前を聞こう。

 気付けば私の歩きは軽快なものへと変わり、次第にスキップへと変わっていった。

「ふふふーふ、ふふふー♪」

 鼻歌まで歌ってしまう。

 帰り際、また明日、と彼は言った。つまり、明日またここで会おうというわけだ。

 ああ、早く明日が来ないかな。

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