カミとの邂逅
「君、大丈夫かい?」
耳元から、鈴の音のような澄んだ高い声が聞こえる。
――お腹すいた。お水も飲みたい。
「……一刻を争うかな。これを食べるんだ」
――――食べたくない。食べたら明日が来ちゃう。
「良いから食べるっ。ボクの眷内で死ぬとか、ましてや餓死だなんて絶対にさせないからな」
口に何かが突っ込まれる。甘くて旨くて、それでいて瑞々《みずみず》しい。舌の上でじわじわと溶けだして、脂が滑るように喉元へ落ちていく。
――美味しい。
「ふふっ。美味しいなんて久しぶりに聞いたなー。さぁお腹は膨れたかい?子守歌でも歌ってあげようか?」
――。
「ふふっ。もう寝ちゃうなんて。にしても可愛い寝顔じゃないか」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
意識が次第にその輪郭を取り戻す。
最初に飛び込んだ刺激は匂いだった。発酵した大豆の優しくも香ばしい香りと、そこに溶け込んだ根菜の仄かに甘い匂い。――味噌汁だ。
つられて掛け布団を退けて上体を起こす。ぐつぐつとする音が聞こえて、そのままキッチンの方に顔を向けた。
目に入ったのは台に乗った小さな兎のような人間の後ろ姿だった。セーラー服の上にエプロンをつけているが、スカートから覗かせる足は白い毛で覆われている。
エプロンの紐とスカートの隙間からまろび出る丸い尻尾がぴこんと動くと、白いふわふわが振り向いた。
「良かった、目を覚ましたんだね!」
兎?人?どっちともつかずの存在がぴょこぴょこと駆け寄ってくる。側頭部から天井にむかって伸びる大きな耳をゆんわり揺らして、彼女は微笑んだ。大きな紅い瞳と目が合い、僕は恥ずかしくなって目をそらした。
「えっと、君は……?」
「ボク?あっえーと、サ――サオトメ……さおとめ!早乙女と呼んでくれ!」
呼ぶ……?彼女の表現が少し気になったが、そんなことは今はどうでもよかった。それより彼女に伝えなければいけないことが、僕にはあった。
「ありがとう。あと、お鍋吹きこぼれてる」
「えっ!?あわわわわわ」
早乙女さんはとてとてとキッチンに走っていき、台に上ってコンロの火を止めた。一先ず家が焼け野原になるのは避けられたが、同時に僕は彼女の左の手首から先がないことに気が付いた。しかしこれは藪から蛇というものだ。いたずらに聞かないほうがお互いのためだろう。
少しして早乙女さんがお盆を持ってこちらに来る。ちゃぶ台の上にそれを置くと右手をちょちょいと動かし「おいで」の合図を僕に送った。釣られるように布団から出る。
お盆の上では味噌汁とご飯が湯気を上げていた。主菜の焼き鮭は香ばしいかおりが立ち、焼き目から脂がぷちぷちと音を立てる。
「さ、召し上がりなさいな」
「良いの……?」
「うん。君のために拵えたからね」
「ならお言葉に甘えて……いただきます」
状況は全く理解できない。非日常な存在が極めて日常的な料理を振舞ってくる。そもそも彼女は人間なのだろうか、兎なのだろうか?何故僕の部屋にいる?
そんなことより早く食わせろと言いたげに腹の虫が音を立てた。白米はふわふわ艶々と輝いていて、上品な甘い香りを漂わせている。口に入れる。味もいい。噛むたびに優しい甘みが口の中に広がっていく。
主菜も気になる。焼き鮭の塩加減もいい感じだ。それに副菜の浅漬けがさらに食欲を加速させてくる。
大人げなくお茶椀を鷲掴みにして、ガツガツと掻きこんでしまった。
「美味しい?」
早乙女さんは肘をつきウットリとした表情で飯を掻きこむ僕を見つめる。返答しなくとも僕の仕草でそれは伝わったらしい。彼女の鼻先がひくひくと動いた。嬉しい時の仕草なのだろうか。
「ところで、早乙女さんは何なの?人?うさぎ……?」
「ボクは、えーとね。説明するのが難しいんだけど……。ってその前に、まず君から名乗るべきじゃないかねっ」
「あぁ、たしかに。僕は平坂≪ひらさか≫。ただのヒキニート大学生。苗字は両親の離婚調停がこじれててどっちか分からないから、ひとまず平坂でいいよ」
「分かったよ平坂くん!それでボクだよね。えーとね……端的に言えばボクは神様です、えっへん」
「か、神様……?」
「そう。八百万の神の内の一柱だぞっ」
冗談だろと思った。でもこんな獣人のような見た目だし、普通じゃないのは確かだ。
早乙女さんは敬えと言いたげな様子でちょのんと胸を張っている。でも神様がセーラー服なんて着るのだろうか?それに自分より小さいし、威厳というものを感じないというか……
「神様なら、100万円とか出せるの?」
早乙女さんは気まずそうに目をそらした。
「イヤーそれは……。大物主大神さまや事代主神さまなら出来るかもしれないけど、お金を出すのはボクには許されてないというかー……」
彼女の言うことはさておき、料理が上手いのは確かだ。味噌汁もうまい。五臓六腑に染み渡るという言葉を丸っと体験しているような気分だ。
空になった茶碗に気づくと早乙女さんはクスっと笑い、僕が今彼女に一番言ってほしかったことを口にした。
「全くしょうがないなぁ……。おかわり、あるよ?」
「……いただきます」
「やったー!」
ぴょこぴょこ跳ねながら炊飯器に向かう。そのまま右手を器用に使ってご飯をよそっている。おかわりを貰えたのが余程嬉しかったのか、こちらに聞こえるほどの声量で鼻歌を歌っている始末だ。
でも本当にうまい。お腹がすいていたというのもあるけれど、きっと早乙女さんの料理の腕が良いのだろう、自分で炊いたお米よりも味も食感もずっと良い。誇張抜きで米だけで何杯も食べられそうだ。
早乙女さんは軽くスキップしながらちゃぶ台に戻ってきて、「どーぞ」と山盛りのお茶碗を差し出した。普段なら絶対に食べない量だけど、今なら食べられる気がする。
「お漬物もあるよ♪」
「いただきます」
箸が進む。美味い。湯呑の緑茶すら立派なアクセントだ。程よく冷えた漬物は塩味もほどよく、お米のうまさを引き立てる。いい塩梅とはまさにこのことだ。
……あっという間に食べきってしまった。「ごちそうさまです」と言う僕の様子を見て満足げに耳を揺らし、早乙女さんは口を開いた。
「それでね。もしよければ頼みたいことがあるんだけどー……」
「命を救ってもらったんだし、なんでもやりますよ」
「ほんと!?」
早乙女さんが食い気味に身を乗り出す。彼女の顔が文字通り目と鼻の先に近づいた。
「えっとね、それじゃね、このアパートの管理人になってほしいの!」
「え……管理人?」
早乙女さんはにっこり笑ってうんと頷いた。




