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怒り

「いま、なんで言ったかな」


早乙女さんが重圧のある声色でさかきさんに迫る。


「ですから、おとごさ――」


榊さんも負けじと言葉を繰り返そうとしたとき、権能の手が彼女の顎を掴んだ。榊さんの首が強引に天井を向かされる。何が起きてるか分からないといった様子で彼女は視線を必死に動かすも、やはり権能の手は見えていないようだった。


ミシミシと骨が軋む音が鳴る。


僕は背筋が凍った。震えが止まらない。しかし僕が最も恐ろしく感じたのはその力ではなかった。


早乙女さんの発する圧――言うなれば己の生命が彼女の気分一つで呆気なく消し去られてしまうような、生存本納の根源を脅かす直接的な圧力に僕は恐怖していた。彼女を止めなければという感情を、万が一にもあの圧力が自分の方に向けられたらという恐怖が諫めてくる。


存在としての格が違うのだ。早乙女さんが口酸っぱく言っていた格という言葉の意味を初めて僕は理解した。


彼女は《《絶対的に神格だ》》。早乙女さんを親しく思えていたのは僕が特別だからなんかじゃない、彼女にこちらまで降りて来てもらっていたんだ。姫柊さんが僕に近いというのも外見や性格なんかじゃなく、その格がまだ形成途中だったということだったんだ。


早乙女さんの体毛の一本一本すら、僕自身の存在よりも尊く思える。――いや、実際に尊いのだろう。神格の一柱と人間の一個体では価値そのものの意味が異なるんだ。


「ぁっ……あぅ、っ……」


榊さんが声にもならないうめき声をあげる。このままだと本当に顎が砕けてしまう。彼女を止めなきゃ。でもあの冷たい視線が僕に向けられたら?


「さっきまでの不遜な態度はどうしたの?お得意の情報マウントでもしてみなよ。それとも君らが赤雁にした事を君にもしてあげようか?」


榊さんの目尻に涙が滲む。藁にも縋るような目で僕に目を向けてくる。


見ないでくれよ。僕なんかが早乙女さんを止められるわけないじゃないか。あんな力を持っていて、あんなに尊くて、あんなにおそろしいのに!


「ボクらは作法には緩いけど礼儀には厳しいんだ。石ちゃんがADAに言っておいたはずだよね?」

「す……みっま……!!」


彼女の必死の謝罪を聞こうともせず、権能の手がもう一本彼女の背中から飛び出した。まずい、本当に取り返しのつかないことになってしまう。


どうすれば、上位の存在に対して提言ができる?どうすればいい?アイデアはないが僕は声を張り上げた。


「早乙女さんっ!!」


強引に彼女の顔をこちらに向ける。肌に触れることすら怖い。彼女の瞳は幾重にも濁り、何を考え何を感じているのか見当もつかない。


「平坂くん、私が怒ってるのは分かってやってるんだよね?」


嘘をついてはいけない。誤魔化してはいけない。彼女の瞳はマジックミラーのように一方的に僕の心をのぞき込んでいる。


「分かってます、だから早乙女さんに止めてくれだなんて言いません。でも他の人を傷つけるなら僕も早乙女さんのことを嫌いになりますから!」


僕は思いっきり彼女の両頬を引っ張った。むにっと頬が伸びて彼女の前歯がのぞき出る。


「ぐぇ」


早乙女さんが間の抜けた声を出した。濁った目には光が戻り、元の早乙女さんの表情に一瞬だけ戻る。


同時に権能の手も霧散して、榊さんは力無くちゃぶ台に突っ伏した。頭蓋骨が天板にぶつかる音が鳴り響く。


「大丈夫ですか!?」


「えぇ、なんとか、はい」


けほけほと咳き込みながら榊さんが答えた。ひとまず大丈夫そうだ。次は早乙女さんの方だ。


彼女はうつむいてその目は前髪で隠されている。表情が上手く見えない。真一文字にきつく結ばれた唇は反省の表れなのだろうか……それとももっと怒らせてしまったのだろうか。


先ほどまでの強烈な圧力は感じられない。しかしその思考を垣間見れないという点において変化はなかった。


「さ、早乙女……さん?」


僕の問いかけには答えない。


少しの沈黙が僕らの間に流れた。


僕の呼吸が落ち着き出したころ、早乙女さんが少しだけ僕の方に近づいて来た。本能的に仰け反ってしまったが、理性で自分の身体を押し戻す。


「ご…………」


一言だけが口を開いたが、早乙女さんはすぐに口を再び閉じた。


僕がその言葉を解釈するよりも前に、彼女が僕の胸に飛び込んでくる。ぽさっと柔らかい音が鳴って、早乙女さんの両腕が僕を抱きしめた。


どうすればいいのか分からない。心臓がドキドキする。抱き返すべきなのだろうか。セーラー服越しに彼女の背中に手を触れる。震えている。


「早乙女さん……」


頭を僕の胸にぐりぐりと擦り付けて、早乙女さんは嗚咽を漏らした。


「ごめんね……。嫌いにならないで、お願いだよ……」


彼女の声は震えていた。先ほどまでの圧力はすっかりなくなって、そこには一人の早乙女さんがいた。


彼女に申し訳なく思いながらも少しだけほっとした。


「僕の方こそすみません。言い過ぎました」


「敬語に戻ってる。やだ、平坂くんは隣にいてくれないとやだ」


「はいはい、ごめんね」


「うん……」


もう完全に小さな子供だ。きっとこれまで神々をまとめなきゃという重圧がかかってきたのだろう。僕や姫柊さんもずっと彼女のことを大人だと思っていたが、――いや大人だからこそ、誰にも甘えることができなかったのだろう。


彼女はそのままぐずぐずと鼻をすすった。僕が彼女の背中をよしよしと撫でていると、彼女はそのまますぅすぅと寝息を立ててしまった。

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