第7話 あなたを求めて ユリアナ視点
王都からの迎えが来るまでのあいだ、私は片時もロイドの側を離れなかった。
彼もまた、私の胸の奥に渦巻く不安を読み取っていたのだろう。繋いだ手は、指の骨が軋むほど強く握り返され、けれどその痛みが、むしろ心を落ち着かせた。
ロイドは日に何度も神父様に尋ねた。
「これからも……ユリアナと会えますよね?」
そんなふうに、子どものような必死さで。
そのたびに、神父様は困ったように笑って曖昧な返事を返し、私は思わず頬をゆるめてしまった。可笑しくて、あまりにも愛おしくて、胸が温かく満ちていくのがわかった。
――そして、一月が過ぎた。
愛子として選ばれた私に、ついに王都から迎えが来る日が訪れた。
その日もロイドと並んで、朝から教会で祈りを捧げていた。
澄んだ光がステンドグラスを透かして降り注ぎ、ひんやりとした空気が胸の奥にまで染みる。祈る声は清らかに響き、すべてが静かで、穏やかで――
だが、その静けさは唐突に打ち砕かれた。
「――愛子はどこだあッ!」
扉を破砕するような轟音。
白金の法衣を揺らし、恰幅のよい男が荒々しく教会へ踏み込んできた。
あまりに粗暴なその動きは、神に仕える者というより、傲慢な領主が領民の家を蹴破る姿によく似ていた。
「だ、大司教様!」
奥から神父様が転がり出てきた。
額には一瞬で玉の汗が浮かび、蒼ざめた顔をひきつらせながら大司教へ駆け寄る。
短く交わされたやり取りののち、大司教様は神父様を押しのけるようにして境内を見回した。
そして私と目が合った瞬間――
猛禽のように鋭かった眼が、嘘のように柔らいだ。
その急激な変化は、あまりにも不自然で。
ぞくり、と胸の奥が冷たくなる。
「君が……ユリアナかな?」
「……はい」
先ほどの荒々しさが嘘のように、大司教様は一歩、また一歩と優雅に近づき、柔らかな微笑を浮かべた。だがその笑みは、薄い皮膜の奥から禍々しさが滲んで見えるようで、私は思わず視線を伏せてしまった。
その刹那、ロイドが前へ出た。
まるで私を庇うように、肩を広げて立ち塞がる。
「大司教様。俺はロイドと言います。ユリアナは……どれくらいで村に戻って来るんですか? 今回は陛下への挨拶だけですよね?」
その言葉に、大司教様の眼がぬらりと濁った。
冷水を垂らしたような、ぞっとするほど冷たい視線がロイドへ向けられる。
「……なんだね、君は?」
「お、俺は……ユリアナの、とも……」
一瞬だけ迷い、しかし――
「――恋人です!」
「――っ!?」
心臓が跳ね上がる。
いつもは村の冷やかしを嫌って、ロイドは私との関係を人前で言うことを避けていた。それなのに、今は迷いも恥じらいも押し殺し、真っ直ぐに口にした。
胸が熱く、頬がじわりと赤くなる。
ちらりと横目で見ると、ロイドも耳まで真っ赤だった。
だが――その温かい空気は、次の瞬間、粉々に砕かれた。
「な……っ。よりにもよって、愛子が、このような下賤な小僧と? 笑わせるな」
大司教様は怒りで喉を震わせ、唾を飛ばしながら吼えた。
「――おい! この小汚いガキをさっさとつまみ出せ!」
「なっ……! ちょ、ちょっと待てっ! 離せ、やめろっ!」
「ロイド!?」
護衛の騎士たちがロイドを羽交い締めにし、彼の抗う声もむなしく、ずるずると外へ引きずっていく。
私は思わず走り出そうとした。
だが――
大司教様が、まるで逃げ道を塞ぐように、静かに私の前へ立ちふさがった。
その冷ややかな眼に射抜かれ、呼吸が一瞬止まる。
それから一時と経たずして、私は大司教様の馬車へと半ば押し込められるように乗せられた。
扉が乱暴に閉ざされる直前、必死に私へと手を伸ばすロイドの姿が、焼き鏝のように脳裏へと刻まれたまま離れない。
両親との別れすら許されなかった。
胸の奥が、ぎゅう、と締め付けられる。
私は震える指をぎゅっと握った。
――大丈夫。すぐにロイドにも、両親にも会える。
ほんの一月の我慢。そう信じていられたのは、この時までだった。
◆
一月が過ぎても、私は村へ戻ることを許されなかった。
王都の空はどこまでも高く、広い。けれど、その広さは私に自由を与えるどころか、ただただ孤独を深くした。
「仕方ないんじゃない? ユリアナはずっと村で育ったんだし、礼儀作法なんて全然でしょ?」
同じ部屋で暮らす少女――パウラが、カップの湯気越しに軽く笑った。
私より一つ年下で、青髪つり目の気の強そうな子。だが、その目には時折、深い影が差す。
彼女もまた、私と同じ【女神の愛子】として祝福された一人だった。
「パウラは……故郷に会いたい人、いないの?」
「……そりゃ、たまには親の顔くらい思い出すわよ。だけど、あんたほど切実じゃないしね。恋人なんていなかったし……それに、あたしはもう五年よ?」
「……」
五年という長さに、私は思わず眉をしかめてしまう。
パウラは苦笑とも自嘲ともつかぬ笑みを浮かべた。
「十一の時に祝福されて、こっちに連れて来られてから一度も帰ってない。
――愛子って、そういうものなのよ」
胸がざわつく。
薄い霧が心の奥にゆっくりと満ちていくようだった。
「というか、あんた……知らないの?」
「なにを?」
「“愛子には自由恋愛が許されない”って話」
その瞬間、喉がひゅっと細くなるような感覚がした。
「自由恋愛が……許されない?」
「そう。だって愛子って、神に愛された存在でしょう? 大げさに言えば“神の子”。
神の子が平民と結婚なんて、王族が農民と結婚するくらいありえないじゃない」
世界の色が、ゆっくりと、冷たく沈んでいく。
パウラは、私の顔がどれだけ蒼白になっているのかに気付いたらしく、眉をしかめた。
「しかも、あんたと“婚約したい”って言ってる貴族、国内外合わせて何十人もいるらしいわよ。モテモテじゃん。良かったじゃない」
「……」
「いや、そこで無言になるのやめて。平民が貴族になれるのよ? 普通は喜ぶところでしょ。……なんでそこまで真っ青になるのよ」
喜ぶ?
そんなわけがない。
あたしの旦那さんはロイドだけ。
幼い頃からずっと、彼のお嫁さんになることだけを夢見てきた。
村の春祭りで一緒に踊り、秋の収穫祭では蔵の裏でこっそり手をつないだ。
冬の夜、焚き火の前で「大人になったら結婚しよう」と笑った彼の顔が、胸の奥で静かに光り続けている。
その光を消してまで、“ここ”に居続ける意味ってなに?
「え……ちょっと、どこ行くのよ?」
「帰るのよ!」
椅子を弾くように立ち上がり、私は扉へ向かった。
パウラが慌てて肩を掴む。
「あんた、なに言ってんのよ!? 帰れるわけないでしょ! 無断で城を出てみなさい、同室のあたしまで処罰されるじゃない――!」
パウラの声は、石造りの部屋に反響して鋭く散った。
だが、私はその叱責の言葉を受けても、一歩も退く気になれなかった。
「私は好きでもない人と結婚なんて、絶対にいや!
貧乏でもいい、地位なんかいらない!
好きな人と……ロイドと一緒にいたいの!」
言い終えた瞬間、胸の奥に沈んでいた熱が、堰を切ったように込み上げてきた。
パウラには、本当に申し訳ない。
彼女が私のせいで叱責され、罰を受ける可能性だってある。それは分かっている。
それでも――それでも、ここに留まり続けるのは違う。
豪奢な部屋の片隅で、蝋燭の炎が揺れていた。
その揺らぎを見つめていると、ふとロイドの笑顔や、照れたように視線を逸らす癖が脳裏に浮かんだ。
今の私にとっていちばん大切なのは――ロイドと幸せになること。
私が他の男と結婚すると知れば、ロイドはきっと泣くだろう。
泣きながら、それでも祝おうとしてくれるに違いない。あの優しい人なら、きっと。
だが――耐えられない。
もし立場が逆なら、私は間違いなく心が壊れてしまう。
そんな想いを、彼にだけは抱かせたくなかった。
両親に顔向けできないことも分かっている。
村の人たちが嘆くかもしれないことも、痛いほど分かっている。
けれど、“愛子の使命”とやらを果たすために、自分の人生を差し出すことが本当に正しいのだろうか。
いいえ――違う。
たとえ私が逃げ出したせいで、明日世界が壊れたとしても、それは私一人の責任なんかじゃない。
私一人が投げ出した程度で滅びる世界なら、どのみち近いうちに滅んでいたはずだ。
そんな世界よりも、そんな大義よりも、私にとって重いものがある。
――ロイドの涙。
――ロイドの痛み。
世界よりロイドの方が、私には大切だ。
もし誰かに問われたとしても、私は迷わない。
『世界とロイド、どちらを選ぶ?』
その問いの前に立たされたなら、私は迷わずロイドを選ぶ。
胸を張って、堂々と、恥じることなく。
そして――。
あの人もきっと同じ答えを選ぶはずだ。
ロイドなら、滅びゆく世界より、私の手を取ってくれる。
どんな絶望の中でも、彼は笑って言うだろう。
『一緒にいれば、それでいい』――と。
意を決して扉に手をかけると、きしりと音を立てて開いた隙間の向こうに、一人の青年の姿があった。
深紅の髪は目の下辺りでそっと揺れ、落ち着いた光沢を帯びていた。派手さよりも芯の強さを思わせる色で、彼が黙って立っているだけで周囲の空気がわずかに熱を帯びるようだった。
その異様な美しさに、一瞬、息を飲む。
「……ハヴィスさま」




