第6話 決意 ユリアナ視点
私には、好きな人がいる。
コルネ村で共に育った、一つ年下の男の子――ロイド。
何をするにも、どこへ行くにも、幼い日の景色の端には、いつも彼の横顔があった。
この先も、きっとそれは変わらない。
たとえ季節が巡り、人々の営みが姿を変えようとも、私たちは肩を並べて歩いていくものだと――疑いもせず信じていた。
あの日、運命が私たちを引き裂くまでは。
その朝の空は、まるで洗い立てのシーツのように澄み渡り、風は穏やかに麦の背を撫でていた。
ロイドに手を引かれ、私たちは通い慣れた畦道を進む。
先には古びた小さな教会――木の香りと蝋燭の煙がやわらかく混ざり合い、何度訪れても心を落ち着かせてくれる場所。
女神エリスに祈りを捧げること。
それは幼い頃から自然と身に染みついた習わしであり、人々が魔に抗う力――
│権能を授かるための、唯一にして絶対の道でもあった。
エリス教はこう教える。
「すべての者の胸には、女神が灯した小さな光が宿っている」と。
祈りとは、その光を揺らして女神へ合図を送り、自らの魂を示す行為なのだと。
その揺らぎが強く、清らかで、迷いがなければ――
女神はときに魂を見出し、
“より大きな光=│権能”を託すことがあるという。
中でも、とりわけ強い祝福を受けた者は“女神の愛子”と呼ばれ、世界中から敬われる。
もし叶うのなら、私もいつか│権能を授かりたい――
水を生む奇跡、植物を育てる恩寵。
どれも土地に生きる者からすれば、喉から手が出るほど欲しい力であり、憧れを抱かぬ者はいない。
そんな小さな望みを胸の片隅に置きつつ、私はいつものように膝をつき、祈りの姿勢をとった。
「……っ」
胸の奥が、ほんのりと温かい。
最初は、それだけのはずだった。
だが、そのぬくもりは瞬く間に膨れ上がり――
まるで心臓を素手で掴まれ、火の中へ投げ込まれたような、暴力的な熱となって全身を駆け巡った。
「ユリアナ!? ユリアナ、しっかり!」
ロイドの声が、厚い霧の向こうから響くように遠くなる。
世界は白く淡く溶け始め、祭壇も木壁も、ロイドの顔でさえ輪郭を失ってゆく。
――ああ。
伸ばした指先の、そのさらに向こうで、ロイドの背中が離れていく。
必死に腕を伸ばしても、あの温もりには触れられない。
指先が虚空を掴むたび、胸のどこかが、きしり……と音を立てて割れていくようだった。
◆
まぶたを持ち上げると、柔らかな寝台の温もりが背を支えていた。
視界の端、枕元には父と母。その少し後ろで、神父様とシスターが静かに立ち並んでいる。
けれど――
目が覚めた瞬間、私がいちばん見たかった人の姿だけは、どこにも見当たらなかった。
きっと今頃、村の細い道を落ち着きなく行ったり来たりしているのだろう。
私の無事を案じ、何度も空を仰ぎ、ため息を洩らして――そんなロイドの姿が、容易に思い浮かんだ。
胸の奥がふわりと温かくなり、弱い笑みが自然とこぼれる。
「ユリアナ……神父様から、大切なお話がある。よく聞くんだよ」
父の声はどこか震えていた。深い皺が刻まれたその表情から、ただならぬ気配が伝わる。
胸の内側で、小さな不安がざわりと身を起こした。
「わ、私が……愛子?」
冗談に違いない――本気でそう思った。
けれど、父母の硬く張りつめた表情を目にした瞬間、喉がひゅ、と細くなった。
冷たい水が、じわじわと心の隅々へ染みこんでいく。
│権能は、確かに欲しかった。
祈り続けた日々は嘘ではない。
だけど――“愛子”の二文字が背負わせる重さは、あまりにも大きかった。
私が望んだ“特別”は、こんな形ではなかったのだ。
「ユリアナ――君はこれから使徒となり、国と、人類のために尽くさねばならない。……分かるね?」
神父様の声は、静かに、ゆっくりと沈んでくるようだった。
理解など到底できない。理解したくもない。
私の未来は決まっているはずだった。
この村で育ち、ロイドが十八になったら結婚し、子どもは三人――女神様にそう祈った日だってある。
なのに、魔王討伐? 使徒?
できるわけがない。
私はただの村娘。ずっと、そう思って生きてきた。
気づけば涙があふれていた。
みっともなく、子どものように泣きじゃくっていた。
「お願い……このこと、村だけの秘密にして……誰にも……」
すがるように訴える私に、神父様が深く首を振る。
「馬鹿なことを言ってはならない。それは女神様への冒涜だよ。
それに……もう王都へ使いを走らせている。一月もすれば迎えが来る」
「いやよ! いや! 王都なんて行きたくない!」
声を張り上げても、返ってくるのは沈黙だけだった。
大人たちは困惑したように視線を伏せ、それでも誰一人として肯定してはくれない。
「ユリアナは、この村が好き?」
その時、それまでずっと黙っていたシスターが、静かに問いかけてきた。
「だいすきよ……当たり前じゃない……!」
父も母も、ロイドもいる。
この小さくて、どこか不格好な村こそ、私にとって何ものにも代えがたい“世界”だ。
だからこそ――
シスターの次の言葉は、鋭い刃となって胸の奥を抉った。
「この村から愛子が誕生したとなれば、数年は村の税が免除されます」
「……え?」
「それだけではありません。あなたを育てたご両親には国から報奨金が出ます。
……ご実家の家計が苦しいことは、あなたも知っているはずです」
心臓がきゅっと縮み、呼吸が浅くなる。
――知っていた。
幼い頃から痛いほど、思い知らされてきた。
流れ者の両親は土地を持てず、日雇いで働き、冬になれば二日に一度しか食事ができない日も珍しくなかった。
私は泣き腫らした目で父と母を見る。
二人は気まずげに目をそらした。
だが――責める気持ちは不思議と湧いてこなかった。
この人たちは、どれほど貧しくても私を抱きしめ、守り、育ててくれたのだ。
恩返し――
その言葉が、小さな灯火のように胸の奥で揺れた。
「……王都に行っても、ロイドには……会えますか?」
縋るような問いに、神父様は優しい笑みを浮かべ、深く頷いた。
「……ああ」
その仕草を見た瞬間、私の中で何かが静かに形を成した。
――私は、この日、王都へ向かうことを決意した。




