第29話 缶詰
「――!」
「――なっ!?」
俺が何もないはずの空間から“缶詰”なる物体を取り出した瞬間、ミネルバとルークは同時に息を呑んだ。
二人は、瞬きすら忘れたようにその光景を見つめていた。
俺はその反応に内心ほくそ笑みつつ、足元に転がったそれを拾い上げた。
……平たい。
筒状ではあるが、鍋でも水筒でもない。金属の表面は冷たく、無機質な光を返している。
「……」
なんだ、これは……。
どう見ても“食い物”には見えない。
本当に――食べられるんだろうな、これ。
脳裏に、かつて与えられた謎の食糧――カップラーメンの記憶がよぎる。
どうにも神々の施しは、ありがたいが形状が信用ならない。
戸惑って手を止めていると、待ってましたと言わんばかりに、視界の端を神々の言葉が横切った。
:プルタブを上げて引け
:穴に指を入れて、持ち上げるんだ
:指、切るなよ
:慎重にな
……相変わらず指示が具体的だ。
「プルタブ……これか?」
缶の上部にある、わずかな凹凸。
恐る恐る指を差し込み、持ち上げる。
きゅ、と金属が擦れる小さな音がして、密閉されていた平たい筒に、細い裂け目が走った。
――いける。
そのまま、意を決して引く。
ぐい、と力を込めると、拍子抜けするほどあっさりと蓋が剥がれた。
「おおっ……」
蓋を引き起こした瞬間、まず鼻腔を打ったのは香りだった。
火で炙った肉の匂い――それも、今まさに焼き上がったかのような、生々しいほどの熱を孕んだ香気が、冷たいはずの金属の器から立ちのぼったのだ。
思わず眉をひそめる。
あり得ない。
金属に封じられた食い物が、どうしてこんな匂いを保っていられる。
ミネルバとルークも、この香りに驚きを隠せずにいる。
中身の姿もまた奇妙だった。
骨もなく、串もなく、ただ艶を帯びた肉だけが、隙間という隙間を埋め尽くすように詰め込まれている。
まるで――焼き上げられた一瞬の時間そのものを、押し固めて閉じ込めた料理のようだった。
むかし聞いた船乗りの話を思い出す。
長い航海に備え、野菜や果実を瓶に詰め、空気を遮断して保存するという技法。
確かにそれは合理的だが、保存期間はせいぜい一年未満。味も、日を追うごとに落ちていく。
だが、天界の保存食――缶詰は違うらしい。
数年、ものによっては十年以上も品質を保つという。
にわかには信じ難い。
だが、神々がそう言うのなら、疑う理由もなかった。
――問題は、ただひとつ。
味だ。
いかに長く保とうと、不味ければ意味がない。
保存性と引き換えに舌を殺す食い物など、冒険者にとってはただの重荷だ。
俺は缶詰――焼き鳥と呼ばれるそれを食すべく、ファンBOXから新たに一本の道具を取り出した。
細身の三股――フォーク。
こちらもまた、透明な袋に密封されている。
「……軽いな」
手にした瞬間、違和感が走る。
鉄のような重さも冷たさもなく、木のような温もりもない。
ただ、羽根のように軽く、存在を主張しない。
プラスチック。
聞き慣れぬ素材だが、神々によれば天界ではありふれたものらしい。
そのフォークで、肉をひと切れ。
慎重に、口へと運ぶ。
「――――っ」
歯を立てた瞬間、甘じょっぱい肉汁が舌の上で弾けた。
思わず息を呑む。
冷たいはずなのに、不思議と温かい。
焚き火の前で、じっくり焼いた肉を頬張ったときの、あの感覚が蘇る。
まるで、焼かれた記憶そのものが、味として残っているかのようだった。
これが――缶詰。
腐らず、火も要らず、旅の途上でこの味に出会える。
反則だ。
あまりにも、反則すぎる。
正直に言えば、少しだけ悔しかった。
俺がこれまで必死に覚えてきた干し肉や燻製の技は、何だったのだろうと、胸の奥で小さく何かが崩れたからだ。
――だが同時に、理解もした。
神々がこの食を授けた理由を。
生き延びろと。
舌を満たし、心を折らせるなと。
缶詰の底に残る照りを見つめながら、俺はもう一切れ、静かに口へ運んだ。
それでも、最後の一切れを食べ終えたとき、俺は缶を捨てられずにいた。
この小さな鉄の箱は、ただの食料じゃない。知らない世界の知恵と、遠くの火の記憶が詰まった宝物に思えた。
続けざまに、おでん缶なる奇妙な缶詰へと手を伸ばしかけた、その刹那――
ぎゅるるるぅ。
静寂を切り裂くように鳴り響いたそれは、もはや人の腹が立てる音とは思えず、瀕死の怪鳥が喉を震わせるかのような、ひどく歪で情けない咆哮だった。
思わず手を止め、音の主を探して視線を巡らせる。
案の定、ルークは腹を押さえたまま、耐えきれぬといった様子で肩をすくめている。一方、ミネルバはというと――耳まで赤く染め、何事もなかったかのように顔を背けていた。だが、その横顔は、あからさまに居心地の悪さを物語っている。
俺は手にしたおでん缶へ視線を落とし、次いで二人の顔を順に見比べた。
「……食べるか?」
軽い問いかけだった。
全部一人で平らげてしまうこともできただろう。だが、そもそもこの食糧自体、俺が自力で得たものではない。施しを受けた身で、独り占めするほど、俺は厚顔ではないつもりだった。
「いいのか!」
返事は早かった。
いや、早すぎたと言うべきか。
ルークは一瞬たりとも迷わず、飢えを隠す気もなくこちらへ身を乗り出してくる。その目は、冒険者というより、餌を前にした子犬のそれだ。
対照的に、ミネルバは一歩も動かない。
視線だけが、缶と俺とを行き来している。
遠慮しているのか。
それとも――先ほどの一件がある手前、今さら弟子から食糧を分け与えられることに、師としての矜持が引っかかっているのか。
唇をわずかに結び、何か言いかけては飲み込む。その沈黙が、かえって空腹を雄弁に語っていた。
火の気もない野営地に、缶詰の金属が微かに鳴る音だけが響く。
腹の音よりも、その沈黙のほうが、よほど重く感じられた。
「んっじゃあ、遠慮なく」
そう言うが早いか、ルークは銀色の筒の蓋を引き、ためらいもなく中身を口へ運んだ。
俺は向かいに腰を下ろし、その一挙一動――とりわけ、顔の変化だけをじっと見つめていた。
「……あ」
それは、ほんの一音だった。
だが、驚きと困惑と、そして言葉にできない確信が、すべて詰め込まれたような声だった。
「な、なんだコレ……?」
ルークは続けざまに、今度は大根らしき白い塊を噛みしめる。
冷えているはずの料理だというのに、その頬はみるみる緩み、目の奥がじわりと潤んでいく。
「う、うめぇ……! めちゃくちゃうまい! こんなの、俺、今まで一度も食ったことねぇよ!」
勢いのまま、彼は卵をフォークで割り、黄身を崩しながら言葉を重ねた。
「この卵もさ……黄身が全部、だしを覚えてるんだよ。噛むたびに、思い出す、みたいな味でさ。……わかるか?」
わかるわけがない。
食レポが下手すぎる。
俺が内心でそう突っ込んでいる間にも、ルークの手は止まらない。
次に掬い上げたのは、茶色い板状の具――はんぺんという聞き慣れない食材。
「これ、軽そうに見えるだろ? でもな、中は全部、だしで満ちてんだよな」
冷えた具を噛みしめながら、彼は妙に真剣な顔になる。
「冷たいからこそ、わかる。誤魔化しが一切ない」
ひと息つき、まっすぐに俺を見た。
「……正直に言っていいか?」
俺は黙って頷いた。
「これはな、王都の一流レストランにも引けを取らねぇ一品だと思う。いや……それ以上だ。まさに完成された料理だ!」
最後に、残った汁を一口すすり、ルークは満足げに目を閉じた。
「……はあ。冷たいのにさ、不思議だよな。体じゃなくて……心が、あったまる感じがするんだ」
その言葉を聞きながら、俺はまだ手をつけていないおでん缶を見下ろした。
実際に食べたことはない。だが、カップラーメンと焼き鳥缶を口にした今なら、わかる。
なぜ、ルークがここまで言い切るのか。
「……ミネルバも、意地張ってないで食べたらどうだ? そっち、煮えるまでまだ時間かかるだろ」
火にかけた鍋の前に腰を下ろしたまま、ミネルバはちらり、ちらりとこちらを窺っている。
視線は合わない。だが、鼻先をかすめるだしの香りに、無意識に喉が鳴ったのが、俺にはわかった。
本当に――強情で、意地っ張りなお師匠さまだ。
「ほら。ここ、置いとくからな」
彼女の手が届く位置に、そっとおでん缶を置く。
そして俺は、ファンBOXへと手を伸ばし、新たな食糧を取り出した。
:おっ、ビール飲むんか?
:俺も晩酌しよっかな
:ピロシのキャンプ動画みたいでいいな
:こっちは超サバイバルだけどなw
「……ビール?」
聞き慣れぬ単語に、思わず眉をひそめる。
:天界のエールだ
:美味すぎて飛ぶぞ
:焼き鳥やおでんとも相性抜群だぞ
エールだと――?
こんな森の奥、夜露と焚き火の匂いしかない場所で、酒場の象徴とも言えるエールが飲めるというのか。
だが、俺は知っている。
エールという酒は、時の経過に弱い。泡立ち――すなわち炭酸は、少し放っておくだけで抜け落ちる。酒場で供されるエールの多くが、どこか物足りないのはそのせいだ。
果たして、瓶詰めならぬ缶詰にされたエールに、命とも言える泡は残っているのだろうか。
半信半疑のまま、期待だけが胸の奥で膨らんでいく。
――プシュ。
蓋を開けた瞬間、小気味よい音が夜気を切り裂いた。
それは、確かに“生きている”音だった。
「――――な、なんだ……これは……」
口に含んだ瞬間、舌が弾かれた。
鋭く、しかし不快ではない刺激。炭酸が喉奥まで駆け抜け、その直後に、切れ味のある苦みが広がる。遅れて、麦の甘さがそれを包み込む。
――完成している。
そう直感した。
これは、俺がこれまでに飲んできた、どんなエールよりも旨い。
もしこの味を再現できたなら、王都で名を上げるどころか、一代で財を成すことすら夢ではないだろう。
それほどの――至高のエールだった。
「……――――!」
俺が缶ビールに舌鼓を打っていると、向かいではミネルバがおでん缶に手を伸ばしていた。
一口、また一口。
次の瞬間、彼女の瞳孔がはっきりと開いたのがわかった。
「……これも、合うな」
珍しく抑えた声だったが、言葉以上に表情が雄弁だった。
普段の厳格さは影を潜め、ただ純粋に“味”と向き合っている顔だ。
俺は何も言わず、そっと新しい缶ビールを取り出す。
プルタブを起こし、開けてから、彼女の前へ差し出した。
――ゴク、ゴク、ゴク。
一息すら挟まず、ミネルバはそれを飲み干した。
次の瞬間。
――ドンッ。
凄まじい勢いで立ち上がる。
「うまいっ!!」
夜森を震わせるような咆哮だった。
近くに魔物がいたなら、きっと逃げ出していただろう。
そして――見たこともないほど、彼女の瞳が輝いた。
だが、その光はすぐに研ぎ澄まされ、刃のような真剣さへと変わる。
まっすぐに、逃がさぬ視線で俺を射抜き、ミネルバは口を開いた。
「ロイド……」
一拍。
「お前、配信者という言葉に……心当たりはないか?」
「……え」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。




