第28話 蛇骨の森
「……なあ、これ。ちゃんと帰れるんだよな?」
足元の枯葉を踏みしめる音に紛れるよう、ルークが声を潜めて問いかけてきた。
前を行くミネルバの背には、もちろん聞こえていない――いや、聞こえていても気に留める様子はないだろう。
「なんで俺に聞くんだよ」
俺は肩をすくめて応じたが、声に出した以上に胸の内は落ち着いていなかった。
「だって、お前……俺より弟子歴、長いだろ」
そう言われて、思わず乾いた笑いが喉の奥で引っかかる。
確かに、籍だけ見れば一ヶ月ほど俺のほうが長い。だが、その一ヶ月の大半を、俺はミネルバから逃げ回って過ごしていたのだ。剣を振った記憶より、気配を殺して身を隠した記憶のほうが鮮明なくらいだ。
実際に“修行”と呼べるものを受けたのは、最初のたった一度きり。
しかもその時は、少なくともこんな不気味な森ではなかった。
白骨が地を這い、木々の影が絡み合うこの蛇骨の森には――今日初めて足を踏み入れたのだ。
「……なあ」
ルークがさらに声を落とす。
「お前、来た道、覚えてるか?」
「…………いや」
答えた瞬間、自分でも愚問だったと悟る。
覚えているはずがない。
この森は、言ってしまえば樹海だ。陽光は枝葉に噛み砕かれ、方角の感覚は足を踏み入れた瞬間から溶け落ちていく。似たような幹、似たような影、似たような沈黙が、延々と続くだけ。
自然と骨が気まぐれに編み上げた迷宮――それが蛇骨の森だ。
道を読む術を持つ者でもなければ、ここから無事に戻れる保証などどこにもない。
それでも、前を行くミネルバは振り返らない。まるで「帰る」という選択肢そのものが、彼女には存在しないかのように。
俺とルークは視線を交わし、言葉もなく唾を飲み込んだ。胸の奥で、嫌な予感だけが、骨の軋む音のように静かに鳴り続けていた。
◆
一体、どれほど歩かされたのだろうか。
時の感覚はとうに失われ、足を運ぶたびに太腿が悲鳴を上げている。今朝の走り込みで削られた体力に、慣れぬ森の起伏と湿った地面が容赦なく追い打ちをかけ、意識の端が白く霞みはじめていた。
――正直、限界は近い。
それでも倒れずに済んでいる理由が、ひとつだけあった。
この蛇骨の森で襲い来るモンスターは、すべてミネルバが前に出て、一刀のもとに斬り伏せてきたのだ。獣の咆哮が上がるよりも早く、鋼の閃きが空気を裂き、気づけば地面には骸だけが転がっている。
もし「修行だ」と言われて、あれらを俺たち自身で相手にしろと命じられていたら――想像するまでもない。
今ごろ俺とルークは、名も残らぬ肉塊として森の養分になっていただろう。
「……さて」
先頭を歩いていたミネルバが、ふいに足を止めた。
「この辺りでいいか」
その声は、長旅の疲れを微塵も感じさせない。彼女は腰の革袋に手を入れ、取り出したのは、掌に収まるほどのガラス製シリンダーボトルだった。
中を覗くと、そこには――どう見ても入るはずのない、ミニチュアサイズの鍋やテント、杭や布切れが、雑然と詰め込まれている。
……小人の引っ越しでも始める気か?
そんな間の抜けた考えが頭をよぎった、その次の瞬間だった。
ミネルバは躊躇なく蓋を開け、ボトルを逆さに振る。
――ドサッ。
音を立てて飛び出した道具は、空気を吸い込むように膨張し、瞬く間に本来の大きさを取り戻していく。鍋は鍋として、テントはテントとして、地面に収まり、あっという間に野営の一式が揃っていた。
「……なっ!?」
「それ、魔法道具っすか!?」
思わず声が重なった。
魔法を付与された道具は、それだけで天文学的な値がつく。
一般人はおろか、並の冒険者ですら、一生に一度触れられるかどうか怪しい代物だ。
ましてや、空間を圧縮する魔法が仕込まれた品ともなれば、その価値はクライシス紙幣で何百枚、いや何千枚を積んだところで足りるものではない。
呆然と立ち尽くす俺たちをよそに、ミネルバは何事もなかったかのように野営の準備を進めていく。
――ああ、なるほど。
これが、黄金等級冒険者か。
同じ「冒険者」という括りに入れていい存在ではない。
俺は改めて、その背中を見上げながら思い知らされた。
自分たちが歩いているのは、同じ道でも、まるで違う階層なのだと。
「なにか手伝おうか?」
「俺も手伝うっすよ、姐さん!」
野営の準備を、ミネルバひとりに任せきりにするのは忍びなかった。
少なくとも、そう思える程度の良心は、俺にもルークにも残っていたらしい。
だが――返ってきたのは、驚くほど素っ気ない言葉だった。
「……結構だ。冒険者たる者、自分のことは自分でする。当たり前のことだ」
短く、切って捨てるような口調。
そこに情はないが、理はある。
――なるほど。
こういうところは、妙に筋が通っているんだよな、この人。
「それより、お前たちは野営の準備をしなくていいのか?」
「……は?」
「……え?」
思考が、一拍遅れて止まった。
野営の準備なら、今まさにミネルバ自身が進めている――そう、俺たちは当然のように思い込んでいたのだ。
胸の奥に、嫌な予感がじわりと広がる。
「あの、その……食糧。俺たちの分も、あるんだよな?」
恐る恐る投げた問いに、ミネルバは何の迷いもなく、淡々と答えた。
「あるわけないだろ。どうしてあたしが、お前たちの食糧まで持参しなければならない」
「――ちょっ!」
弾かれたように、ルークが声を張り上げる。
「俺たち、何も持ってきてないっすよ!」
「あたしは言ったはずだ。準備はしなくていいのか、と。……問題ないと言ったのは、お前たちだろ」
「……」
「……」
俺たちは、揃って言葉を失った。
確かに。
朝の走り込みを終え、【猫のしっぽ亭】を発つ際、ミネルバにそう尋ねられた。
だが、蛇骨の森に向かうなど、一言も聞かされていなかったのだ。
こんな森の奥深くまで連れて来られると知っていれば――
俺たちだって、最低限の準備くらいはしてきたはずだった。
そんな俺たちの心中を見透かしたように、ミネルバはふっと鼻で笑う。
「――では聞くが」
その声は低く、森の湿った空気に沈んでいく。
「依頼遂行中に不測の事態が起きたとき、お前たちは“聞いていなかった”から、どうすることもできないと泣きわめくつもりかい?」
俺たちは、反射的に背筋を正していた。
「あたしは昔、盗賊に攫われた村娘を救出する依頼を受けたことがある。
依頼書に記されていた敵の数は、五人。――だが、実際は違った」
ミネルバの視線が、遠くを見る。
「盗賊の数は、三十を優に超えていたよ。
あとで村長を問い詰めたら、金がなかった、許してくれと泣きつかれた」
そこで、言葉が一度、断ち切られる。
「当然、許しはしない。
あの時、運が悪ければ――死んでいたのは、あたしの方だった」
重たい沈黙が落ちた。
「……依頼書に書かれていることが、必ずしも真実とは限らない。だからこそ、冒険者は――いつ、どんな状況に放り込まれても対応できるよう、準備を怠るべきじゃない」
それは説教ではなく、教訓だった。
血と経験で裏打ちされた、動かしようのない現実。
言い返す言葉は、どこにもなかった。
悔しい。
だが――否定できない。
ミネルバは剣術だけでなく。
俺たちに、冒険者として生き残るための“覚悟”そのものを叩き込もうとしているのだ。
――ぐぅ。
腹の底から、あまりにも正直で、あまりにも情けない音が鳴った。
森の静寂を切り裂くその一音は、まるで己の無策を天地に告げる号鐘のようでもあった。
次の瞬間――
天啓と呼ぶべき神々の言葉が、視界の端を横切った。
蛇骨の森とはまるで相容れぬ、異質な“言葉”の奔流が、チャット欄を流れていく。
:ファンBOX見ろ
:たぶん届いてるぞ
:でも湯がないからカップラーメンはやめとけ
:缶詰とドライフード送ってるから食え
:俺は黒ラ◯ル送っといた
:ルークには飲ませるなよww
――沈黙。
そして、一拍遅れて、ようやく理解が追いついた刹那、胸の奥で何かが弾けた。
張り詰めていた糸が、音を立てて切れたかのように。
久方ぶりの――
いや、正確には、ずっと待ち望んでいた奇跡。
福神様の、御降臨である。
きた。
きたぞ……!
この飢えと絶望の只中にあって、俺はまだ見捨てられていなかった。
その事実だけで、喉の奥が熱くなる。
正直に言えば、これまで幾度となく思ったことがある。
もっと派手で、もっと強力で、もっと“それらしい”│権能が欲しかった、と。
だが――今なら、はっきりと言える。
この│権能で、よかったのだと。
ああ、神よ。
あんたたちは、女神エリスと違って、ちゃんと俺を見てくれていたんだな。
これはまさしく、神の救済。
……エマとの行為まで見られていたのは正直勘弁してほしかったが、この際だ。すべて水に流そう。
俺は思わず、腹を押さえたまま天を仰いだ。
鬱蒼とした樹々の隙間から差し込む月明かりが、やけに眩しく感じられる。
それはきっと、空腹のせいだけじゃない。
生き延びろ、と。
無様でも、泥にまみれても構わない。とにかく、生きろ――と。
確かに今、神々は俺の背中を押している。




